提題二:最善の選択は最善の結果を招くのであろうかⅡ
家の外に出ると、一陣の風が潮の香りを運んでくる。ぬるく粘着くようなそれに不慣れな清次郎は、やや顔をしかめた。
ふと自宅とその隣家の間にあるちょっとした路地を覗いてみると、やや錆び付いた鉄柵の向こうに海が見えた。
「…………イデアーロピア、か」
見慣れぬ土地にいる時に感じる、ふわふわとした独特の浮遊感の中で、彼は独りごちる。
こうして改めて見ると、彼の目にはこの世界は途方もなく奇妙なものに見えた。誰かに伝聞で教えられたら、きっと彼は荒唐無稽と一笑に付していただろう。
第一、彼にとって海上にこのような大規模な構造物都市が存在していること自体、不可解であった。
……どうやってこんなでっかい建物を建てられたんだ? どうしてこんなに大きく、一見雑な作りなのに崩れない? そもそも、どういった歴史で海にこんなものを作り、住み着こうとしたんだ? このイデアーロピア以外にも、「アルコロジ」はあるのか?
一つに疑問を抱けば、連鎖的に次の疑問が湧いてくる。
しかし、これらは全て智子に向けるべき質問であり、結局、彼は思考を半ば放棄するようにして一時中断する他ない。
「はぁ……」
腹に溜め込んでいた感情を出すように、一つため息。彼は手近な壁に寄りかかり、未だに買い出しの準備をしている智子を待つことにした。
しばらくして、玄関の奥からぱたぱたと音がしたかと思うと、やっと智子がやってきた。
「ごめんなさい、待ったでしょう?」
やや眉尻を下げ、智子は苦笑気味に言う。
壁にもたれかかったまま、清次郎は智子の様子を見て半目になった。
何かを期待するようにそわそわとこちらを伺ってきている。
……ああ、成程。アレを言って欲しいのか。
得心いったとばかりに彼は頷いた。相手の女性がやや遅刻してきた時の、定番の台詞である。
察した彼はもたれかかっていた壁から起き上がり、歩み寄る。
彼女の肩にぽんと手を置き、言った。
「やっと来たか。じゃあ行くぞ」
「……は?」
智子の目が点になる。
「何をやっているんだ。早くしないと置いて行くぞ」
「え? ちょっと、えぇ……っ!?」
早くしないので置いて行った。
「ちょ、ちょっと待って! 待ちなさいったら!」
「何だ?」
立ち止まり、さも迷惑そうなしかめっ面で振り返る。
「ああなるほどー、みたいな風に頷いときながら何よそれ! 普通『いいや、今来たところさ』とか嘘でも爽やかに言うものじゃないの!?」
「言って貰いたいだろうことは知っている」
「じゃあ言いなさいよ、今すぐに!」
「知ってるがお前の態度が気に入らん」
「鬼ぃーっ!」
半ば以上泣くようにして叫ぶ智子を、清次郎は肩を竦めただけで流した。
「さて、冗談は程々にして、そろそろ行こう」
「……ええ。ええ、そうね。そうしましょう」
智子は疲れたようにため息をつくと、すぐさま調子を取り戻した。
「買い物ついでに、イデアーロピアを案内するわ。早くしないと置いて行くわよ?」
皮肉げにニヤリと笑って見せる智子。彼女なりの意趣返しのつもりなのだろう。返された本人は、ただ苦笑するのみだった。
●
人間が歩く時、地形によって負担がかかる箇所は相当違ってくる。
身体運動の都合上、登りの時は心肺機能に、下りの時は膝を中心とした関節に負担がかかりやすくなる。だから登り下りの時などは平地を歩いている時よりも疲れやすく感じるのだ。
「し、死ぬ……」
ぜいぜいと肩で息をしながら、清次郎は搾り出すように呟いた。その声はかすれていて、彼がどれほど疲れているのかを伺わせる。
「智子。後、どれぐらいなんだ……?」
「あとちょっとよ、頑張りなさい。まったく、だらしないわねぇ」
疲労困憊の清次郎に比して、智子は息も切らさずテンポ良く階段を上がっていく。外見から想像できる以上に、彼女は健脚であった。
イデアーロピアの街並みは、意外にも普通なものだ。店があり、民家があった。都市構造上の問題か、自動車などといった交通手段がないため道幅はそこまで広くないものの、充分な広さだと言える。
建築物の一つ一つはやや小さめ――この点は、清次郎の元いた世界とあまり変わらない――で、塔や浮遊島のようになっている別区画へと、四方八方に無数の橋や階段が立体的に交差している。
……まるで迷路だ。
要所要所に目印と思しきオブジェが設置されているのがせめてもの救いであろう。しかし、それも一つの「都市」ほどの面積に、超高層ビルを遥かに超える高さを有するイデアーロピアでどれほどの意味があるのか、甚だ疑問である。
「……なあ、イデアーロピアって一体どの程度の大きさなんだ?」
「ええっと、確か最大面積が三百ちょっと、最小面積が二百強、平均面積が二百五十ちょっとだったかしら」
「……はあ、最大? 最小?」
「イデアーロピアは結構階層ごとに凹凸が激しいから、単純な面積が出せないの。それで、最大、最小、平均って風に測り分けしたのよ。ちなみに、高さは頂上の大風車を含めればギリギリ一千に届いたはずよ」
「いっせ……っ!?」
さすがの清次郎も、これには驚愕せざるをえなかった。
「さ、着いたわよ」
他のものより一際長かった階段がようやっと終わると、智子にそう告げられた。そのままややフラつく足取りで俯きがちだった視線を前に戻すと、確かにそこは目的地のスーパーだった。
「さて。私は行くけど、あなたはどうするの?」
「俺の屍を越えて行け……」
「……貧弱者」
詰るような半目で素っ気なく切り捨て、智子はスーパーの中に行ってしまった。
「そういうお前は薄情者だろうが……」
呟くように言い返すが、当然のごとく返事はない。虚しさが疲労感に上乗せされ、彼は鉛のような足を引きずるようにして手近なベンチに腰掛けるのであった。
……不思議な女だ。
清次郎は、智子について考える。
実際のところ、彼は彼女からある種の違和感を感じ取っていた。
……馴れ馴れし過ぎる。
別段、彼女との馴れ合いが嫌だという訳では無い。しかし、彼女の詰めてくる「距離」が、あまりにも早過ぎると感じただけだ。しかし、異世界から精神交換されて、今日一日でどうしてこんなにも親しげな会話ができるのか、会話の相手である彼自身、わからなかった。
……まさか俺のことを、弟だとでも思っているのか?
バカらしい、と彼は一笑して首を横に振った。いくら似ていると言われても、彼女の弟である清次郎と、この清次郎はあくまで別の人物である。類似品は似ているからこそ類似品なのであり、それそのものではないのだ。類似品はそれ以上でもそれ以下の存在でもなく、オリジナル未満の存在なのである。
……俺は智子の弟ではない。なら、奴からしてみれば俺はオリジナル未満の存在であるはずだ。
そして、オリジナルとそれ未満の存在の間には、必ずと言っていいほど埋め難い溝や越え難い壁がある。それが当たり前なのだ。
しかし、その当たり前がない。つまり、本来あって然るべき障壁を、彼女は微塵も感じさせないのである。
「結局は謎、か……」
増え続ける疑問に、無駄な焦燥感と苛立ちが混じり合う。結局、彼の疑問を解決できるのは、彼女だけなのだ。
「あー……」
空を仰いで間抜けな声を出すと、心なしか清次郎の内に溜まっていた感情も和らいだ気がした。
一つ深く溜息を出して、新鮮な空気を胸いっぱいに吸い込む。海上都市であるおかげで、高度があっても上昇気流によって気圧は下がっていないらしい。そういったところを考えると、この「アルコロジ」というものは実によく考えられたものだと気付かされる。
縁沿いに植えられた防風林を兼ねているらしき街路樹の、さわさわと葉を擦り合わせる音が、耳に心地いい。涼風が服の隙間から入って、汗だくになった清次郎の肌を優しく撫でる。
そのままゆったりと空を眺めていると、突然横からぬっと顔が出てきた。
「わっ!」
声と共に現れた顔は、智子であった。いたずらっぽく笑っているその表情は、彼女を幼く見せた。清次郎も彼女の笑みに釣られるように、微笑が溢れる。
彼は首の調子を確かめるように、一つ頷く。
「…………」
そして無言でヘッドバットした。
清次郎の額がちょうどいい具合に鼻に直撃。智子を悶絶させる。
「いきにゃりにゃにするにょよ!」
「Oh... Sorry,I can't speak your langage...(おお……。すみません、私はあなたの言語を話すことができません……)」
鼻を押さえて涙目で抗議してくる智子に、彼は肩を竦めておどけたように外人風に英語で話す。
「? にひょんごではにゃしにゃしゃいにひょんごで!」
「Are you fool?(あんたバカ?)」
「だかりゃ、にひょん語ではにゃしにゃひゃいって!」
尚も「日本語で話せ」と要求してくる彼女に、清次郎は眉をしかめる。
……簡単な英語もわからないのか。
一瞬憐憫の眼差しを向けそうになったところで、しかし清次郎は気付く。
……いや、ここは異世界だ。
であれば、英語などは智子他イデアーロピアの住人にとって、異国どころか異界の言語、全く不可解なものであるに違いない。
成程、と彼は一人納得し、頷いた。
「……で、弁解を聞きまひょうか」
その頷きを、先の要求の了承と勘違いしたのだろう。智子が半目でこちらを睨むように詰問してくるが、まだ鼻が痛むらしく発音が妙である。
「Q(急に)B(頭が)K(来たので)」
「B? 頭はKapoでしょう?」
「Kap? いいや、Brain(脳)だからあっている」
「…………」
突っ込む気力すら失せてしまったらしい。彼女はベンチの後ろ、鉄柵でがっくりと項垂れ、「もういいわ」と言って彼女は溜息をついた。
ともかく、清次郎にはこれでわかったことが、一つだけある。
……少なくとも、智子は俺を家族か、それに準ずるものだと考えている。
それだけは間違いようがない。これだけ無茶苦茶をやって、それでもこれで済んでいるのだ。理由はどうあれ、清次郎と彼女の関係は親密であると言えた。
突然、智子が「あ」と声を上げる。
「へえ、こんなところからも見えるんだ……。ねぇセージロー、ちょっとあれ見てみなさいよ」
何かを見つけたらしい智子がしきりにこちらの袖を引き、下の方にある何かを指し示す。まだ軋むような疲労の残る足でおもむろに立ち上がり、清次郎はそれを見た。
ここより下層には――といっても、構造が複雑かつ雑然とし過ぎて、イデアーロピアに限って言えば階層などという概念がほぼ無きに等しいと言えるが――、イデアーロピアからコブのようにぼこりと突き出ている、大きな建築物があった。
それは遠近法で随分と小さく目に映るが、距離から鑑みるに、実際はかなりの大きさのはずだ。いくつかの棟があり、結構な大きさの広場もあった。
「あれは……学校?」
「ええ、あそこがイデアーロピアの学校、Scuolaoよ」
心なしか自慢気に、智子が胸を張る。
「へえ、スツォラーオ学校か……」
「いいえ、学校は付かないわ。スツォラーオ。ただのスツォラーオよ」
……随分と変わった名前だな。
響きからして、明らかに日本語ではない。イタリア語――少なくとも、ロマンス諸語――か、と清次郎は見当をつけたが、それもどこか違う気がした。
「今は夏休み中だから休みだけれど、それが終わればあなたも私達と一緒にあそこに行くのよ」
「私達と? 琴音もなのか?」
「ええ、そうよ。スツォラーオはイデアーロピア唯一の教育機関でね、子供はみんなあそこに行って勉強するの。もっと大きなアルコロジにもなれば、scuolao elementarea、media、licea、academiaみたいに、年齢ごとに用意されてるらしいんだけどね」
「へぇ……」
どうやら語尾に「~a」は形容詞らしい。
イデアーロピアよりも大きなアルコロジ、と言われても、清次郎には容易には想像出来なかった。
彼からしてみれば、イデアーロピアからして異常なほどの大きさなのだ。これよりも大きなアルコロジなど、冗談か妄想の類ではないのかとすら彼は思う。
「さて、疲れも取れたでしょう? そろそろ次に行きましょうか」
「まだ次があるのか……」
「はいコレ」と智子に買った物が入った袋を渡され、彼はげんなりと溜息をついた。
意気揚々と歩む智子の後を、買い物袋を引っさげた清次郎は付いて行く。
歩いている途中、ふと公共の掲示板に貼られたある一枚のポスターに目が行った。そのポスターには、このように見出しが出ている。
『夏祭り・花火大会 開催!』
「なあ、ちょっと」
清次郎は智子を呼び止め、ポスターを指した。
「ああ、夏祭り。そういえばもうそんな時期なのね」
「イデアーロピアでも夏祭りがあるのか?」
「ええ。少し大きめな属島があるから、そこで打ち上げ花火を見るのよ。屋台が出てたりして、結構賑やかなのよ?」
へえ、と清次郎は相槌を打つ。しかし、それはどこか気の逸れたものだった。
彼は思い出す。元の世界にいた時の、ある花火大会の日を――。
2012/02/13:指摘を受けた箇所の調整、加筆