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浪漫記  作者: 一・一
3/22

提題一:胡蝶の夢Ⅲ

 並行世界という概念がある。ある世界から分岐し、複数の世界が並行して存在する、というものだ。

 智子の考えた説とは、つまり「清次郎が元いた世界」と「この世界」がそれではないかというものだった。


「――で、両方の世界にはそれぞれ清次郎がいる。でも、何らかの現象によって二人の精神が入れ替わった、と。こんな感じだと思うわ」

「…………成程」


 こちらに向けられた紙を見て唸る。

 紙上には大きめな二つの円が描かれていた。

 二つの円にはそれぞれA、Bと名前が書かれている。そして、その中にはやや歪な「清次郎A」「清次郎B」とこれもまた名前の振られたヒトガタが描かれていた。

 清次郎AとBは両側を指した矢印で繋がっており、矢印の上には「精神交換」と記されていた。


 ……なかなか頭の巡りが早い女だな。


 理路整然と説明する理知的な智子の姿は、とてもではないが先程のパンのやり取りからは想像できないものだった。彼にはまるで別人のようにすら見えた。

 事実、こんな短時間に数少ない証拠から推理し、なおかつ納得のいく仮説を打ち立てたその能力は、相当なものだ。こんなことができるのは、天才的頭脳を持つ者や、天才的詐術を持つ者などに限られるだろう。


「……ねえ。今ふと気付いたのだけど、あなたと私って、つまりは初対面だったってことじゃない?」

「ああ、そうなるな」


 清次郎が頷くと、智子はなぜか微笑んだ。


「ということはあなた、初対面だとわかってて私に嫌がらせしてたってことよね?」

「ああ、そうなるな」


 清次郎が頷くと、智子の頭から縄が引き千切れたような音が発された。


「初対面に嫌がらせって常識的に考えてありえないでしょう!?」

「常識的に自分の家に知らない誰かがいたら泥棒と思うだろう?」

「常識的に泥棒が家にいると思ったなら警察に連絡しなさいよ……!」

「常識的に異世界に来たばかりの男に、それを言うか」

「ぐ、むぅ……」


 結局、智子は口を閉ざし、唸る他なかった。異世界に迷い込んできたばかりの清次郎に、この世界の常識を要求するのは筋違いである。そのような正論が理解できる程度には、彼女も常識的であった。


 ……それにしても、並行世界の自分と精神交換か。


 清次郎は自分の中で何かが合致する感覚を得ていた。

 実のところ、半ば彼はてっきり異世界にでも迷い込んでいたと思っていたのだ。

 しかし、もしそうだと仮定すれば、清次郎の自室などといった自分に縁のあるモノがあるのは明らかにおかしい。この矛盾で、彼はボタンを掛け間違えたかのような思いをし、しかしその問題の解決を先延ばしにしていたのだが、なるほど智子の説は明快かつ筋の通ったものだった。

 しかし、仮にこの世界が彼女の言う通りだったとして、現象が暫定的に解明できても問題点はまだ解決していない。


「で、当面の問題はこれから俺はどう振る舞うか、なんだが――」


 面倒な問題である。彼はもう一人の自分に会ったことがないが、恐らくもう一方の清次郎とは若干性格に差異があるだろう。つまり、精神交換してしまった今、それぞれの清次郎は互いが互いを演じる必要性がある。


 ……俺の方の世界に行った俺も災難だな。


 もっとも、元の世界での清次郎の振る舞いは閉鎖的なものだったため、戸惑うことはあってもその面ではそこまで苦労するようなことは無いと彼は予測したが。


「そうね。できるだけ貴方の世界にいた時みたいに、自然にして頂戴」

「自然に……? 戻れるかどうかはさておき、人間関係がややこしいことになるだろう」

「安心なさい。貴方とセージローは、絶望的なまでに味覚音痴なところも会話がマイペースなところも、その図太い精神構造も、全く嫌になるぐらい似ているわ」


 並行世界だからなんでしょうね、と智子は苦笑気味に呟く。


「入れ替わったのは酷似した精神だけ。外見が変わっていないなら、よっぽど奇特なことでもしない限り、誰も貴方が貴方だとは気付かないわ」

「……何かあったら、フォローは頼むぞ」

「ええ、お安いご用よ」


 一抹の不安を残るが、今、清次郎には智子しか援助者がいない。彼は若干の疑念を抱きながら頷いた。


「――さて。ちゃんとした自己紹介がまだだったわね。私は東屋智子、長女よ」

「長女。俺の上か? それとも下か?」

「貴方より一つ上よ。家族構成で言うと、今は旅行で出ている父さんと母さんがいて、上から私、セージロー、一番下に貴方と三つ下の妹がいるわ。

 昼頃にはって言っていたし、そろそろその妹も帰ってくる頃合いなんだけれど――」


 智子の言葉に応じる様に、玄関の方から扉の開く音とともに「ただいま帰りました」という声が聞こえてきた。


 ……今の、声は。


 やや無愛想で感情に乏しい、少女の高い声。それは、彼にとって馴染み深く、聞き覚えのあるものだった。


「噂をすればなんとやら、ね」


 智子は髪をいじっていた手で外人の様に肩を竦めてみせる。


 ……誰だったか。


 思い出せず頭を捻るばかりの清次郎は、リビングと廊下の繋がる扉が開いて出てきた人物を見て、ようやく声が誰のものだったかを知り、そして思い出した。 


「ああ、兄の人はようやくお目覚めですか。おはようございます」


 無表情に軽い会釈を送ってきた少女に、清次郎は戦慄した。

 目の前の少女は、小柄だ。髪は姉よりもやや短く、背中の中程までのツーサイドアップ。やや眠たげな目が印象的で、感情の起伏に乏しいその顔は歳相応に幼い。


 ……ああ。


 意味を成さない、ただの詠嘆が彼の頭を満たす。それ程に彼は衝撃を受け、感情は混沌としていた。嬉しくもあり、怖くもあり、悲しくもあり、疑わしくもあった。

 身を戦慄かせ、目を見開き、呆けたように口を開けている。その時の彼の表情は、ある種の亡霊を見た時のそれに通ずるものがある。いや、「まさしく」亡霊を見る時のそれだった。

 目の前の少女の名を、清次郎は知っている。


「琴音……」


 言ってから、彼の理性が反射的に「バカな」と胸中で自身の言葉を否定した。

 それもそのはず。清次郎の妹、東屋琴音は一年前に病死している。本来存在し得ないはずなのである。

 しかし、亡霊はそんな胸中の彼の言葉を否定するように、応えた。


「はい。何でしょうか、兄の人」

2012/02/13:描写などを加筆・調整

2012/05/30:題名を「胡蝶の夢Ⅲ」に変更

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