提題九:original>copyの反証
清次郎は自室でざあざあと降りしきる雨を、窓からガラス越しに暗色の雲を眺めていた。
「…………」
強烈な違和感があった。朝にも感じたものだった。
なぜか、「今日は晴れていなければならない」気がする。しかし、なぜそう思うのか、彼は見当もつかなかった。
……何か、大事なことがあったのだろうか。
思い出せない。それが空の色も合い間って、余計に彼を憂鬱にさせた。
「……そういえば」
……俺はいつ、帰ることになるんだ。
おそらくこのままということはないだろう。帰れないということもありえない。こちらに連れてきたということは、元の世界に戻すことも可能なはずだ。
元の世界に帰ったら、自分は何をするんだろうか。多分、生きているのか死んでいるのかさえ判然としない、ただ漫然とした生活をしていくのだろう。
「……帰ったら、琴音もいないのか」
……何を考えているんだ。
あれは"琴音"ではないと、今朝智子にも言ったばかりではないか。
「……ッ」
苛つきを追い払うように、乱暴に頭を掻く。
声はまだ、聞こえない。智子と下で会ってからだった。それは彼が「決めた」からなのか、単に頻度の問題なのかはわからない。しかしどちらにせよ、少しでも声が聞こえてこないのは、彼にとって幸福だった。
ざんざんと雨が窓ガラスを叩く。朝の静寂が嘘のようだ。あれは嵐の前の静けさというやつだったのだろうか。
雨音に、扉が叩かれる音が混じった。本来であれば軽いはずのその音は、今は彼にとって重く聞こえてしまう。
「…………」
彼は返事をしない。智子とも偽物とも、今はもう会いたくなかった。
奇妙な短い間の後、扉が開かれる。一瞥する。
「――――ッ」
一瞬、表情が凍り付いた。琴音だった。
彼は嫌なものを見たかのようにすぐさま視線を窓の外へと戻す。何とかして内心の動揺を取り繕い、そして辟易したように溜息をつく。
「何の用だ」
「…………」
吐き捨てるように言う。反応は、ない。
「出て行け」
「…………」
反応は、ない。
雨音に琴音のこちらに歩み寄ってくる足音が混じって聞こえる。
清次郎の座るベッドのそばで、足音は止まった。
「私は、"琴音"にはなれないのですか?」
「……ああ。お前は"琴音"じゃない。偽物だ」
ずぶりと言葉の刃が胸に刺さる。それの持ち主がどちらなのかはわからない。しかし、それは確実に清次郎へと痛みを与える。
「ですが、私の精神は"琴音"と同じものです」
「それがどうした。精神が同じならお前も琴音だとでも?」
ハッ、と清次郎は鼻で笑ってみせる。握ったこぶしはかすかに震えている。
「"琴音"は唯一無二の存在だ。替えは無い」
「しかし、現にあなたは私が偽物であると知るまで、あなたは私を"琴音"として扱ってきましたよ」
「…………っ」
「元の世界で、"琴音"はすでに死んでいました。でしたら、この世界の私が最初から"琴音"ではないと、あなたはわかっていたはずです」
偽物は言う。
「あなたは私を偽物だと知っていた上で、代替として機能させていました。――それでも、あなたは"琴音"は唯一無二であると言い切れるのですか?」
「…………」
彼は、沈黙した。言葉を失ってしまったかのように何も言えなかった。
こぶしをぎゅっと握り締め、その手の平に爪を食い込ませる。傷付いた手の平は確かに痛かったが、しかしそれでも胸の痛みは誤魔化しきれなかった。
"琴音"は生きていて、死んでいる。どうしようもないほど狂ってしまったその二律背反の隙間に、偽物は入り込んできた。だから彼は、偽物だと知りながらもそれを本物のように扱ってしまった。
「この数日――、一週間にも満たない程の短い時間でしたが、私は楽しかったです」
沈黙する彼に、偽物は言葉を重ねる。重なる言葉は、清次郎に重くのしかかる。
「本当に楽しかったです。一緒に外を出歩いて、本屋さんに立ち寄って、公園で一緒に昼寝をして――。入院していた頃では思い付きもしなかった、幸せな日々でした」
「……黙れ」
絞り出すように呟く。傷口を庇うように、彼は胸を手で抑えた。胸の痛みは、呼吸が億劫になるほど強くなっている。
「昔のように、気兼ねなく話すことができました」
「黙れ……」
「昔のように、本を読み聞かせてもらえました」
「黙れ……!」
「昔のように――、私はあなたと一緒にいられました」
「――黙れ、このニセモノが!」
気がつけば、彼は大声で叫んでいた。
ダムが決壊するように感情が爆発した。感情の奔流に、理性が押し流される。
不快だった。ただひたすらに不快だった。大切な"琴音"との思い出を――延いては"琴音"という存在を踏みにじられた。偽物ごときが、紛い物ごときが、オリジナルの足元にも及ばない劣化複製未満の存在ごときが、"琴音"のように振舞っているのがたまらなく嫌だった。
「お前は――お前は断じて"琴音"なんかじゃない! お前なんかが"琴音"になれるものか! "琴音"は唯一無二の存在なんだ!」
睨んで、指を指して、自分でも驚いてしまうほどの大声で怒鳴る。感情の爆発の後には、ざあざあと降りしきる雨音だけが耳朶を打つ。
「……私は、"琴音"にはなれないのですか?」
「ああ。一生かかっても無理だ」
一番最初と同じ問い。彼は肩で息をしながらも頷き、乱暴に言い捨てた。
「そう、ですか。やはり私は、偽物止まりなんですね」
ふふ、と偽物は自嘲的に笑う。
「……愛されていますね。"琴音"は。妬ましいくらいに」
彼女はゆっくりと、おもむろに歩き、窓に手をかける。
「……妬ましいです。悔しいです。なぜ、私が偽物だというだけのことで、あなたにここまで拒絶されるのか――私にはわかりません。私はただ、あなたに愛されたかっただけなのに」
ばん、と窓が開け放たれる。暴風と共に雨が部屋に入ってくる。
「私は役立たずのお人形。それならせめて、私はあなたの奥深くに、絶対に消えない"私"を刻み込みます」
冷たいものが背筋を撫でる。それは嫌な予感――いや、これから最悪の事態が起こるという確信だ。
「おい……やめろ」
制止の声をかける。偽物はそれが聞こえなかったかのように窓縁に足をかけ、外に飛んだ。
全てが遅かった。事態の解決も、視界に映るものも、そして、行動も。
「やめろぉぉぉおっ!」
暴風ではためくスカートが見える。窓の向こう側へと身体が吸い込まれていく様が見える。
清次郎は反射的に腰を上げ、吸い込まれていく足へと手を伸ばした。
間に合え、と祈りながら伸ばされた手の行き着いた先には既に掴む物もなく、虚しく空を切った。
窓の外を見る。琴音が、落ちていく。高度数百メートルのイデアーロピアから。
気付けば清次郎も飛んでいた。
背筋を凍らせる浮遊感。身体に叩きつけられる空気抵抗。
間に合うかどうかはわからない。いや、仮に間に合ったとしても高度数百メートルから海面に叩きつけられれば、自分も死んでしまうだろう。
それでも、清次郎は彼女に向かって手を伸ばした。
空気抵抗の中では、質量の重い方が早く落ちる。時間をかけて海面に、琴音に近付く。
琴音の顔が見える。その表情は、信じられない、と語っていた。
……ああ、俺も信じられないさ。
なぜこんなことをしたのか、自分でもわからない。しかし、彼女の手を掴もうとする行為は、紛れもなく彼の意思だった。
あらん限りに手を伸ばす。はためく彼女の服の袖が、指を掠める。
……あと少しで、届く!
「掴まれ、琴音ぇえええっ!」
彼の叫びに彼女は驚いたように目を見開く。
「――――あ」
彼女の手が、こちらへと伸ばされる。彼はその手を取って、彼女を引き寄せた。
彼女の手の冷たさが、身体の温かさが伝わってくる。強引に引き寄せた彼女を、彼は掻き抱く。
もう海面が近い。もう残り数秒もしないうちに海面に叩きつけられてしまうだろう。
ぎゅ、と彼女がこちらの手を強く握ったの感じた。
「……っ」
震えている。死ぬのが怖いのだろう。
……このまま俺たちは死ぬのか。
悪くない、と自嘲気味に笑う。仮に生き延びたとしても、どうせろくな人生は送れまい。だったら、ここで死んでしまってもいいじゃないか。
視界が青でいっぱいになる。
目を閉じる。ざぼん、という鈍い水飛沫が上がる音が耳朶を打った。ぐ、と掴まれていた手が、更に強く握られた。反射的に身が竦んでしまう。
……握られた?
清次郎は強い疑問を覚える。落ちれば即死。なのに、なぜ握られた感触があるのだ。
痛みはない。水の冷たさもない。そっと閉じていた目を開けると、白い薄膜のようなもので隔てられた先に海の青が広がっていたのが見えた。
突然、上から重力が来る。ざばあ、という音とともに再び水飛沫が上がり、時間が巻き戻されたかのように清次郎たちは上へ上へと引き上げられていく。
呆然としている内にイデアーロピアの雑然とした外観が過ぎ去って行き、気がつけばいつの間にかに清次郎の部屋へと放り出されていた。
……何が起きたんだ?
混乱する清次郎の視界に、智子の姿が映る。彼女はなぜか肩を上下させ、ひどく疲れている様子だった。
智子はおもむろに立ち上がると、ふらふらとこちらに歩み寄った。
「琴音は平気なの!?」
智子の問いが、何が起きたのかわからずに混乱する清次郎に自分を取り戻させた。腕の中の少女は、ぐったりとしている。
弾かれるように、彼は動いた。
腕を取って脈を測り、顔の前に手のひらをかざして呼吸を確認する。
まだ脈はある。まだ呼吸もある。
まだ、生きている。
は、と安堵の溜息をつくと、彼の背筋からどっと冷汗が吹き出てきた。
「…………」
……バカだな、俺は。
よく見れば、少女の胸が上下している。よく聞けば、彼女の寝息も聞こえる。
彼は自嘲と安心が入り混じったような笑みを浮かべる。いつだったか、今と似たようなことがあった。あれからさほど時間は経っていないはずだが、今の清次郎にはそれが遠い過去のことのように懐かしいと思えた。
「大丈夫だ、生きている。今はただ、意識を失っただけみたいだ」
「はぁ、良かったぁ……」
緊張の糸が切れたかのように、智子はへなへなと崩れ落ちた。
「まったくもう。間に合ったから良かったものの、心中なんてやめてよね」
「やっぱりあの膜で助けてくれたのはお前だったのか」
「ええ、これでも一応神様ですので。私があなたたちの大声聞いて駆けつけてなかったら、今頃あなたたち仲良く海の藻屑だったのよ? 感謝して頂戴」
「そうさせてもらおう」
苦笑気味に笑い、彼は腕の中で眠る少女の髪をすくように一撫でした。
ほんの短い間、部屋が沈黙する。
「……結局、あなたはこの子を"琴音"として認めたの?」
「……いいや」
「じゃあ、なんであなたまで落ちたのよ」
「さあ、な」
窓の外を見やる。いつの間にかに雨は収まり、空は鉛色の中にちらほらと白が見え隠れしていた。
……なぜ、俺はこいつを助けようなんて思ったんだろうな。
この少女は偽物であり悪であるはずなのに、なぜか自分は助けてようとしていた。智子の助けがなければ死んでいたのは想像に難くないはずなのに、なぜか自分は助けようとしていた。
彼の思想からしてみれば「偽物は即ち悪」であるはずなのに、彼はその「悪」の死を嫌った。自分のことなど顧みず、助けようとした。
……バカのような話だ。こいつは"琴音"じゃないと言うのに。
は、と自嘲気味に口元が歪み、下がった。彼の脳裏に、閃きが走ったからだった。
「――――は」
自然と口角が釣り上がる。失笑にも似た笑い声が口の端から漏れる。
「は、ははは……ははははは、ははははははははは!」
笑い声は止まらない。目頭が熱くなり、一筋の涙が流れた。
「ちょ、ちょっと清次郎。あなた急にどうしたの?」
「ああ、簡単だ。簡単なことだったんだ」
最高の道化師を見ているかのように、彼は笑う。冷笑的に、あるいは嘲笑的に、そしてまたあるいは愉快そうに笑う。
「つまり、こいつは琴音であって"琴音"じゃないんだ!」
彼は言う。
「俺の妹である"琴音"は死んだ。そしてそれを元にして作られたのがこいつだ」
しかし、この少女はどうあがいたとしても唯一無二の存在である"琴音"にはなれない。だからこの少女は偽物になった。
「成程確かに、こいつは偽物だ。だがしかし、偽物である前に、こいつは"こいつ"だったんだよ」
「……っ! あなた、まさか――」
勘付いた智子が口を開く。ああ、と彼は頷いた。
「俺はこいつを"琴音"として認めず、こいつを琴音として認めようと思う」
2012/09/30:指摘された点を微修正




