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浪漫記  作者: 一・一
19/22

提題七:善意によって舗装された道の行き先

 気が付くと、カーテンの向こう側が微かに明るくなっていた。いつの間にかに日が昇っていたらしい。

 清次郎は鉛のように重い身体を引きずるようにカーテンを開ける。

 思わず寝不足でショボくれた目を細めてしまう程に明るい陽光は、部屋に差し込んで来なかった。彼が見上げるそこには、一面の暗澹たる雲によって覆われている。


 ……晴れてろよ、クソ。


 いつの間にか苛立ち紛れに天を睨んでいた自分に、疑問が浮いた。どうして今、そんな愚にもつかぬことを考えていたのだろうか。理由があるはずなのだが、ぼんやりとしていてわからない。


「クソ……っ」


 悪態をついて、窓と思考のカーテンをさっと閉めると、部屋にはまた元の暗さが戻ってきた。

 声なき声が、聞こえてくる。


 ……『だから何度も言っただろう。琴音は死んだと。アレは琴音ではないのだよ』。


 清次郎の冷めた思考が呆れたように、あるいは嘲弄するかのように言う。噛み付くように、過熱したエンジンのような熱い暴走がそれに反駁した。


 ……「何を馬鹿なことを。あの子は琴音だ。事実、"俺"は彼女を琴音ではないとは微塵も思わなかったじゃないか」。

 ……『だから、騙されたんだ。"俺"は。偽物に』。

 ……「偽物? 彼女が? いいや違うね。彼女は何から何まで琴音だった」。

 ……『何から何まで。なら、あの身体は何だ? アレは琴音の劣化複製品。"俺"を騙すために作られた偽物だ』。

 ……「身体が違うからと言って、だからどうしたと言うのだ。彼女は本質的に琴音と同一だ」。

 ……『つまり、何か。お前は唯一無二のはずの実妹コトネが、何人いても良いと言うのか。アレは琴音の代替物だと言うのか。それは死者への、琴音という個体への冒涜ではないのか?』。


「――うるさい!」


 絞り出すような叫びは、悲痛だった。

 腹がきりきりと痛覚を訴える。頭痛が酷すぎて意識が霞がかる。彼はきつく目を閉じ、歯を食いしばって痛みに耐える。ベッドの上で丸まり、両手で耳を強く押さえた。幻想という現実から逃避するように、彼は外界の音と光を遮断した。


「うるさい。喋るな、黙ってくれ!」


 苦痛で震える小さな叫び。彼は頭を潰さんばかりに耳を押さえる。頭痛が更に悪化する。構わず、顎に万力を込めて歯を食いしばる。息が止まり、聞こえてきた生理的で甲高い音が声なき声の侵入を阻む。

 きんきんと鳴り響く音に耳朶を満たされた、永遠とも感じられる苦痛と安堵の時間を、彼は己に逃避し続けた。


「……っ」


 しかし、酸素を欲する身体の欲求と限界に耐え切れず、彼は息をついた。つかの間の楽園が崩壊する。しかし彼の身体は楽園を惜しむ暇もなく、欲するままに空気を貪った。

 胸を上下させる程に荒れていた息が治まると、頭痛も少しだけ和らいだ。


「…………」


 声たちは、もう聞こえない。過ぎ去ったようだった。彼は安堵で胸を撫で下ろす。いつの間にか、腹痛も大分大人しくなってきた。

 これでもう何度目だろうか。こうなったのも、智子の自白を聞いてからだ。あれを聞いてから、突然声たちが聞こえてきたかと思うと発作的に酷い頭痛と腹痛が彼を襲ってくるようになった。そのせいで彼は睡眠もままならず、胸に黒く巨大なわだかまりを抱きながら過ごしていた。

 額に浮いた嫌な汗を拭う。口の中は砂漠のように渇いていた。


 ……喉が、渇いた。


 時間は五時少し前。今の彼は、とにかくこの家の住人と居合わせたくなかった。今の時間であれば誰も居ないだろうと高をくくり、彼はふらふらと階下のリビングへ向かう。

 家は相変わらず、容器に満たされた水面を思わせるほどに静かだ。採光の悪い薄暗い廊下を渡り、リビングに入る。この時間の気温は涼しいくらいだった。そのまま台所へ向かおうとして、彼はソファにいた人影に気付いてしまった。


「おはよう、セージロー」

「っ、智子……」


 清次郎の表情が瞬時に警戒のそれへと変貌する。彼はリビングから出ようと踵を返し、しかし智子にそれを制された。


「待って」


 彼女の言葉は叫びではない。静か過ぎるリビングに放たれたのは凛とした、だが呟くような一言である。

 彼は、立ち止まった。


 ……なんで立ち止まっているんだ、俺は。


 そのまま無視して行ってしまえば良いのに、なぜ立ち止まってしまったのか。理由はわからない。

 馬鹿らしい、と自嘲気味に歩を進めようとして、止められた。


「捕まえた」


 彼はいつの間にか袖を掴まれていた。


「……待ちぶせてたな」


 何かを誤魔化すように、恨みがましく言う。


「待っていたのはあなたもでしょう?」普段の彼女ならそう言い返してくると彼は思っていたが、彼女の返答は「まあ、ね」と思いの外曖昧なものだった。


「ねえ、セージロー。あの子を"琴音"として認めてあげて」


 縋り付くような、張り詰めた声で智子は懇願する。


 ……俺は。


 智子の言う通り、琴音を"琴音"として受け入れられるのだろうか。


「……無理だ」


 袖を掴んでいた智子の力が、ぎゅっと強くなった。


「……どうして? あの子と一緒にいたあなたは、楽しそうで……幸せそうだったじゃない」


 彼女の表情は、わからない。しかし清次郎の背中越しに届く声は弱々しく、今にも泣きそうな声だ。しかし、彼は決然と言い放った。


「"琴音"に、代替品はない」


 反論を許さないような有無を言わせぬ断言に、袖を掴んでいた智子の力が抜け、離れた。


「すまない」


 言い残して、逃げるようにリビングから出て行った。


「待って! 一度でいい、一度でいいからあの子と話を――」


 叫ぶような智子の必死の声は、ドアの閉まる音と同時に掻き消され、遮断された。

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