提題五:世界五分前仮説
少年と少女は酷くぼやついた森にいた。
周囲の緑と茶色は木々だろう。彼らのいる場所は、ちょっとした広場のようになっていて、社らしき茶色の建物があり、その反対側には道らしき石畳の灰色が見える。
「ごめんね、セージロー。私、行かなければならないの」
悲しそうな表情で、しかし断固とした決意を内包した口調で彼女は言った。
「そんなの嫌だ。嫌だよ、トモちゃん」
幼い清次郎がトモの袖を掴みながら今にも泣きそうな顔で訴えかける。しかし、トモはゆっくりと首を横に振った。
「笑って別れましょう、セージロー。完成したら、絶対に私が迎えに行くから」
「本当に……?」
「ええ、もちろん。私は姉で、あなたは弟なんでしょう?」
彼女は頷き、清次郎に小指を差し出した。
「これは契約よ、セージロー。完成させたら、絶対にあなたを招待するわ」
「……うんっ。絶対に絶対に、迎えに来てね」
「ええ、行くわ。大丈夫よ、私達は契約を遵守するものだから」
二人は小指を絡め、契約する。この世界での約束する時の歌。指切拳万嘘ついたら針千本飲ーます。
「指切った」
宣言し、トモはするりと小指を外して二、三歩後退する。胸にぽっかりと穴が開いたような喪失感を得て、あ、と清次郎が声を上げてトモを追おうとするが、踏み止まった。今しがた、約束したばかりではないか、と。
彼女もそれは同じだったようで、諦観と悲しみの混じった複雑な表情を一瞬見せたが、それらはすぐに笑みによって覆い隠された。
「ごめんね」
トモが清次郎の額を小突く。
ぐらり、と少年の身体が傾ぐ。場面が暗転する。
「――さようなら」
●
気がつくと、既に昼になっていた。
また夢を見た。この世界での記憶が掘り返されたものだ。現実味がある、しかし現実らしからぬ奇妙な夢である。
「…………」
倦怠感が酷い。昨夜――正確には今朝――は結局、寝るのが朝日を拝んでからになってしまったからだった。
……昨日の燐光は。
何なのだろうか。
ふと思い出したのは、琴音の傷口から出ていたあの不可思議な光のことだった。昨日、怪我をした琴音を連れ帰ってから、そればかり考えていた。この世界では普通のことなのだろうかと考え、努めてリアクションを示さずにいたが、あれはこの世界では正常なのだろうか。
ふと、鉛筆立てに無造作に突っ込まれていたカッターが目に入った。
……試してみる価値はある、か。
この身体はイデアーロピアの清次郎のものである。もしあの燐光がこの世界で正常ならば、自分にもあの燐光が流れ出るはずだ。
カッターを手に、指先を軽く切る。
出てきたのは、赤。血であった。
……どういう、ことだ?
わからない。琴音の燐光が正常でないとしたら、何なのだ。他に何かあるのか。それとも、自分のこの身体だけが異常で、他の人々の血は燐光なのだろうか。いやしかし、この身体はこの世界の清次郎のものだ。
訳がわからない。ともすれば自分が狂気に触れてしまったのではないかとすら感じる。ストレスが溜まる。そういえば昨日、琴音は帰ってきてすぐに自室にこもってしまった。智子も何だかいつもより雰囲気が重くなっていた。二人とも、引ったくりが余程ショックだったのだろうか。
「――――」
ふと、何かが繋がり合い、気付いた。
……いや、待て。この身体はこの世界のものであるはずだ。
であれば、なぜ自分はこの世界の移動で著しく体力を消耗するのだろうか。入れ替わったのは精神だけではなかったのか。本当にこの身体がこの世界のものならば、最初からそのように身体が環境に順応していて当然であるはずだ。それが、なぜ――。
清次郎は自室から出ると、すぐに智子の部屋に向かった。
「入るぞ!」
ノックもせずに扉を開ける。
いた。彼女はベッドの上に寝転んで本を読んでいる。構わずに彼は智子に詰め寄り、血の滴る指を眼前に示す。
「これは、どういうことだ」
「……こっちの方がどういうことなのって聞きたいのだけれど」
ノックも無しにいきなり部屋に押しかけられた挙句に読書を邪魔され、智子は不快感を隠そうともしない。しかし、その手は髪の毛を弄っていた。その挙動が意味することはただ一つ。
「嘘だな」
「はぁ? 嘘なんて――」
「髪の毛」
智子の反論を制し、清次郎は続ける。
「お前は嘘をつく時、必ず髪の毛を弄る。昨日、夢のなかでこっちの記憶をサルベージした時に出てきた情報だ」
「――――」
ばっ、とすぐさま智子は髪の毛に触れていた手を引っ込める。
「どうやら本当に嘘だったようだな」
「……鎌をかけたのね」
「いいや、夢でサルベージしたのは本当のことだ。昔の癖が直っていないとも限らないからな」
最初からよく見かけていたこの動作は、彼にとって考えている時の癖なのだろう、という程度の認識だった。おそらく、この記憶を引き出せていなければ清次郎はこの仕草の意味することに気付かず、ずっと騙されたままだっただろう。
それはともかく、と話を本筋へ戻す。彼は赤で濡れた指を智子の目の前に突き出した。
「琴音の傷からは血の代わりに光が溢れ出していた。だが、俺の傷からは血が出る。説明してくれ。一体これはどういうことなんだ」
口調が早くなっている。焦っているのだと彼は自覚したが、そんなことに構っていられる暇はなかった。
彼は更に詰め寄って問い質すが、智子は黙して語らない。話すべきか否か、逡巡しているのだろう。
沈黙の間ができる。あまりにも長く、しかしその実十秒にも満たないだろう時間が過ぎてから、ようやく彼女は口を開いた。彼女は諦めたように溜息をつき、言う。
「この期に及んで是非も無し、ね。……わかったわ、話しましょう。けれど、一つ確認させて貰うわ」
血塗れの指に応酬するように、彼女も清次郎の目の前に人差し指を突き出した。彼は頷き、己の指を引っ込めた。
智子は大腿に両肘を立てて支えとし、手を組んでその上に顔を乗せた。
「国水上智命。この名前、憶えている?」
それは清次郎にとって憶えのある名前だった。記憶を探っていると、案外すぐに出てきた。
「憶えているも何も、昨日琴音と一緒に行った神社の祭神の名前だろう」
「そう。やっぱり、憶えていないのね」
ふっと智子の顔に憂いが差す。しかし彼女はすぐに凛とした表情を作ると、こちらを見据えてきた。
「――それは私の本名よ」
「……何だって?」
「私は国水上智命。東屋智子は、偽名よ」
思わず聞き返すが、智子は至って真剣な表情で告げた。は、と清次郎の喉から乾いた笑いが起きる。
「ということは、何だ。つまり、お前は神様だと?」
「ええ。私はここ、イデアーロピアを創り出した神よ」
彼女は立ち上がり、本棚に手をかけた。本棚の中には、何も入っていない。しかし彼女は構わずに、こちらからも見えるように棚から何かを取り出す動作をする。
するとどうだろうか。本棚には何もなかったにも関わらず、彼女のその手には一冊のハードカバー本があった。
「……バカな」
思わず呟く。笑いで釣り上がっていた口の端は、いつの間にかに下がっていた。
「このように、種も仕掛けもありません。――これで信じて貰えたかしら」
創造神は手の平をひらひらとさせて、こちらに示す。服装はワンピースであることから、袖や服の中に隠し持っていたとも考えにくい。ない袖には隠せず、ハードカバー本は大きいため服の中に入れらはするが隠せはしない上に、服の構造上、あの挙動だけで瞬時に出すことは不可能だ。
つまり、清次郎は智子が創造神であることを認めざるを得なかった。本棚に収められた、題名のない本を呆然と眺めていた清次郎が、はっと我に返る。
「さて、どこから話したものかしら……」
またベッドの上に座った彼女は思い悩むように口に指を当てていたが、しばらくすると思考がまとまったのか、滔々と話し始めた。
「――それじゃあ、まずは私とあなたの昔話から始めましょうか」
2012/12/12 矛盾の見受けられる描写を辻褄合わせ。






