提題四:その夢は誰のものか
そこは酷くぼやついた世界だった。
部屋には年端も行かない少年と少女がいる。外見からして、少女は少年より少しだけ年上といったところだろうか。
ソファの上で二人は一つの文庫本を読んでいた。
少女が朗読する。
「『断言しよう。お前は、偽善者だ。我々の目的を阻止せんと、一見、周囲に善行をしているかのように見せかけているが、それは祖国を陥れることだ。お前はただ、自身の虚栄心を満たしたいだけなのではないのか』――」
それを聞いていた少年が、少女の袖をくいくいと引く。
「ねえ、トモちゃん。偽善って、悪いことなの?」
「いいえ。必ずしも偽善は悪だということは無いわ」
トモと呼ばれた少女は目をつむり、ある本の一節を諳んじた。
「『人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から、報いが受けられません。だから、施しをするときには、人にほめられたくて会堂や通りで施しをする偽善者たちのように、自分の前でラッパを吹いてはいけません。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです』――ヤハウェのところの教えなのだけれど、知ってるかしら?」
ふるふると少年は頭を横に振る。
「でもそれって『人の前で良いことをしちゃいけない』ってことだよね?」
「んー、ちょっと違うわ。確かに『人前で善行をするな』とは言っているけれど、それは『報いを受けられなくなる』からなのよ。『彼らはすでに自分の報いを受けているのです』というのは、すでに彼らは他人から賞賛を受け取っている、という意味なの。だから、確かに、善意で自分の利己的な目的を覆い隠すことは、褒められたことではないけれど、実際にそこに何かしらの利益を残しているのなら、必ずしも偽善は悪とは言い切れないのよ」
んー、と少年は難しそうな顔をして考えるが、どうも彼は理解が追いついていないらしい。トモは苦笑しながら、彼の頭を優しく撫でてやる。
「まあつまりは、実際に良いことをしているなら、偽善も別にいいんじゃないかってことよ」
「ふーん」
少年の気のない返事で、トモの苦笑に苦味と呆れが加わった。
●
「……夢か」
朝。布団から起きた清次郎は、呟いた。
内容を思い出そうとするが、やはり断片的でしかない。 しかし、やたらと懐かしいと感じたのはなぜだろうか。
「……また深層心理か?」
一説によると、夢とは深層心理の表れであるらしい。
また一説によると、夢とは過去の記憶が出鱈目に再生されたものであるらしい。
……過去の記憶、ねえ。
夢に出てきた少年はおそらく自分だろうということは、わかる。しかし、あの「トモ」と呼ばれていた少女が誰なのかが分からなかった。
一瞬、智子の顔が脳裏を過ぎったが、彼はすぐさま否定した。智子はイデアーロピアに来て、初めて出会った人物だ。
……「トモ」は実在する人物ではないのか? 単に忘れているだけなのか?
前者であれば、おそらくこの夢は深層心理の説が最も適切だろう。しかし、後者の場合はもう一説の方が当てはまりそうである。
止めどない思考を紡ぎ続け、意識が覚醒してしまったようだ。清次郎は一旦思考を中断し、布団から出る。
カーテンを開けると、視界に青が広がった。一瞬彼は面食らったが、彼はすぐにここがイデアーロピアであること思い出す。
「……こっちは夢オチじゃないのな」
深く溜息。改めてこちら側が現実であることを実感してしまう。
……もしかすると、精神交換現象に関係があるのか?
中断していた思考を再開。ベクトルを変えて考えてみると、ある仮説が一つ立った。
「……とりあえず、智子の意見も聞いてみるか」
複雑な面持ちで彼は一階に向かう。リビングはカーテンが閉まっているため、暗い。
見れば、時計は六時半過ぎを指していた。
……成程。道理で誰もいないわけだ。
こんなことであれば二度寝でもすればよかったか、と頭を掻くが、今更である。彼の眠気はすっかり覚めていた。
ぐぅと腹の虫が鳴く。
「……何か作るか」
何か食糧はないかと台所を漁るが、特に目ぼしい物はない。あったのは乾燥パスタだけである。
やむなしと手頃な大きさの鍋を探し出し、それで湯を沸かし始めた。
「おはよう。早起きなのね」
とんとんと階段から降りてきたのは智子である。まだ起きたばかりなのか、しきりに眠そうな目を擦っている。
「あら、朝からパスタ?」
「湯を沸かし始めたところだ。お前もいるか?」
「ありがとう、頂くわ」
彼女は椅子に座ってあくびを一つ。背もたれに身を預け、目を閉じた。完全に寝る姿勢である。
「寝るなよ」
清次郎が注意するが、姉からの反応はない。彼はやれやれと呆れ気味に苦笑した。 ともかく、パスタである。まだ火をかけたばかりの鍋に、塩を少量投下。湯だったら乾燥パスタを放射線状に鍋に入れる。
一方でキャベツなどといった野菜類も刻んでフライパンで炒める。発見した鯖缶の中身も入れて、具材も作る。
「……まあ、こんなものか」
具材の味見は許容範囲。少し調味料を入れすぎたかと心配になりもしたが、何とかなるものだと彼は一人頷いた。
パスタを茹で上げるとパスタサーバーで掬い上げて皿に盛り、その上に具材を乗せて出来上がり。鯖缶パスタである。
「ほら、起きろ。できたぞ」
テーブルまで二人分の朝食を運び、眠れる姉を揺さぶり起こす。彼女は鼻をひくつかせ、食い物の匂いで目を覚ました。
「ごはんー」
まだ寝ぼけているのか、彼女はテーブルの上に上半身を伸ばしたままにへらにへらと笑っている。
「はよ食え。伸びるぞ」
「あー、お姉ちゃん眠すぎてもうダメ。セージロー、食べさせてー」
「ああ、もう。わかったわかった。タバスコはかけるか?」
「お願いー」
「口を開けろ」
フォークに巻きつけたパスタを、妙に上機嫌な智子に食わせる。何となく、動物に餌付けをしている気分だ。
「あーん…………っ!?」
パスタが智子の口に入った瞬間、彼女は凍り付いた。
彼女は口元を手で抑え、咀嚼することなくパスタを丸呑みにする。
そのまま口を抑えたまま、「うんうん」と唸りながら涙目で何かを訴えかけるようにテーブルをパンパンと叩く。
「ふぃ、ふぃじゅーっ!」
何となく察した彼は、水の入ったコップを差し出す。半ば奪い取るようにそれを受け取ると、彼女は一気に水を仰いだ。
「っはぁ…………」
智子は深く安堵の溜息をつく。しばらくして気を取り直すと、彼女はようやく口を開いた。
「辛くて味が濃いぃ……」
「タバスコとコショウの辛さだな。味が濃いのは塩とショウユ辺りか。で、感想は?」
「辛い……」
「誰が上手いことを言えと」
無言でコップを差し出された清次郎は、無言でコップに水を注ぐ。受け取った彼女はそれを一口飲んでから、口を開いた。
「そう、そうよね。味音痴イコール味付けできないなんていうのは、当たり前よね……」
「何を今更」
半ば開き直った清次郎に、智子は呆れと疲労の溜息をついた。
「で、だ」
パスタを巻いたフォークを智子の目の前に突きつけるように差し出しながら、清次郎は言う。
「食うか?」
「遠慮しておくわ……」
智子はそう言い残して、食糧を求めてふらふらと幽鬼のように台所へ向かう。清次郎は蜃気楼のオアシスを求めて歩き続ける砂漠の旅人を見る気分で、それを見送った。
時計を見る。午前七時過ぎ。そろそろ琴音が起きてくる頃だ。それまでは、彼女に我慢して貰わなければならない。
ゴソゴソと物を漁る音と「うう、うう」と悲しげな唸り声の聞こえる台所を心配そうに見つめながら、彼は味の濃すぎるパスタをすすった。
2012/03/22:一部描写を追加
2012/03/29:題名を変更