提題三:偽善とは悪かⅡ
たっぷり十分ほど待っただろうか。足の痺れも取れると、早速清次郎は智子の部屋へ向かった。
あまり待たせなかったからだろうか。彼女は先のことを引きずって多少不機嫌ではあったものの、会話に支障はない程度には怒っていないようであった。
「で、あなた。こっちはどう?」
やや刺のある口調で智子は問うてくる。どう、とはイデアーロピアでの生活についてだろう。
「最悪だ」
彼の言う「最悪」とは、イデアーロピアでの「移動」についてである。
立体的な造りであるイデアーロピアでは、とかく階段が多く、その構造上自動車などといった快適な移動手段がない。そのため、階段での移動は平地を移動するのと比して極端に体力を消耗しやすい。ろくにまともな運動をしていない彼にとって、それは「最悪」とも呼べるだろう。
しかし、彼はそこで言葉を切らず、こう続けた。
「――最悪だが、最高だ」
言って、彼はちらりと扉の向こう側を見る。今頃、琴音は風呂に入っているのだろう、と考えながら。
智子はそれだけで察したのか「そう」と素っ気なく呟いただけだった。もっとも、その表情は満更でもなさそうだったが。
話題の終わりを察して、清次郎は椅子から身を乗り出した。
「さて、俺からもいくつか聞きたいことがある」
膝に腕を置いて姿勢を安定させ、手を組む。清次郎の座る椅子がぎしりと音を立てた。
「まず、このイデアーロピアだ。一体どういった経緯で成立したのか、常識の範囲でいい。教えてくれ」
トットッ、と彼は足のつま先で床を軽く叩き、イデアーロピアを指す。
期間を問わずここで生活していくのであれば、まずは常識を知らねばならない。知識的なボロは基本的な所から埋めるに限る。彼はそう考えた。
「そうね。どこから話したものやら……」
唇に人差し指を当てて唸る。考えがまとまったのか、しばらくしてから彼女は口を開いた。
「実際のところ、私達にもよくわからないのよ。イデアーロピアの沿革は」
「わからない?」
「ええ」
智子は髪を弄りながら、頷いた。
「規模の小ささ、下層の建築物の老朽度、それから昔のアルコロジによく見られる、無秩序に発展(スプロール化)した構造から推測して、相当昔に造られたということくらいしか、今の私達にはわからないのよ」
「文献や口伝は残っていないのか?」
清次郎の問いに、彼女はまた頷く。彼は「そうか」と言って次の話題に移った。
「次だ。その、お前がよく口にする『アルコロジ』とは、一体何なんだ?」
「Arcolozy。狭義では生産から消費まで、全てが自己完結した構造物のことね。また、広義では単に大量の人口を内蔵する構造物のことを指すわ。イデアーロピアは自給率が百パーセントに至っていないから、どちらかと言うと広義でのアルコロジに該当するんじゃないかしら」
「自給率が百パーセント以下。どこかから輸入でもしているのか?」
「ええ。他のアルコロジや海上都市から。船を使って輸送するのが主流だけれど、鉄道も使われてるわね。まあ、食糧自給率については水上立体型都市の定めみたいなものだから」
彼女は弄っていた手で軽く髪を振り払い、肩を竦めて溜息をつく。
「水上立体型都市ということは、アルコロジにも種類があるのか?」
「そうね。大きく分けて二つ。陸上立体型都市と、水上立体型都市があるわ」
智子がこちらを伺うようにして見てくる。清次郎は顎をしゃくり、先を促すと彼女も続けた。
「昔は陸地も結構あったらしいのだけれど、海面上昇で世界的に陸地面積が急激に狭くなったのよ」
「原因は?」
「温暖化現象よ。極地方は氷塊が多かったらしいのだけれど、その現象でそれが全部溶けたの」
「それで陸で住める場所がなくなったから、海の上に横の面積を要さない都市を作ろうとして、この水上立体型都市アルコロジができた、と?」
「その通りよ」
頷く智子に、成程、成程と清次郎も頷く。
「質問はそれだけ?」
「いや、あと――」
あと一つだけ、と言おうとして、彼はやめた。
……俺を弟と思っているのかなんて、聞けるか。
何を聞こうとしていたんだ、と軽い羞恥を覚えながら、彼は頭を振る。
「何?」
「いや、なんでもない」
聞きたいことは充分聞いた。時計を見ると、十二時近い。そろそろいい時間であった。
「遅くまですまんな。おやすみ」
さっさと風呂に入って寝てしまおうと、彼がドアノブに手をかけたところで智子が口を開いた。
「ねえ。あなたは、神様がいると思うかしら?」
「は?」
突然の問いに、眉をひそめて当惑する。
「ごめんなさい。やっぱりなんでもないわ」
「そうか」
「ええ。だからさっきのあなたのとで、お相子にしておいて頂戴」
苦笑する智子。
妙なやつだと感じながらも、彼はもう一度「おやすみ」と言って智子の部屋を後にした。
次回更新日は2012/03/15です。
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