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浪漫記  作者: 一・一
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提題一:胡蝶の夢

 胡蝶の夢、という言葉がある。

 その昔、中国の思想家である荘周が考えだした説話だ。

 夢のなかで自身が荘周であることも忘れ、蝶としてひらひらと舞っていた。しかし、ふと目が醒めると自身が荘周であることを思い出した。

 そこで荘周はある疑問を得た。

 すなわち、「荘周である自身」が「胡蝶の夢」を見ていたのか、それとも「今の自分」は「胡蝶が創りだした夢の産物」なのか。

 東屋清次郎は考える。


 ……これって夢、なんだよな。


 自室の窓から外を眺める彼の視界の大部分は、青が占めていた。

 青――すなわち、海と空だ。空の雲は少なく、海からは波打つ音がこちらまで聞こえてくる。彼がすぐ下の方を見ると、どういうわけだかマングローブのように海で自生しているらしき木々と、そこを悠々と行き来する小舟さえ見えた。

 清次郎の家は都心の住宅街にあった。しかし、今自室の窓から彼の見えているものは、見えるはずのない海だった。

 不安を押しのけた抑えがたい好奇心に駆られて、清次郎は窓から身を乗り出してぐるりと外を見回す。

 結論から言えば、清次郎の住む家は巨大なアパルトメントの様な建物になってしまっていた。アパルトの一部屋に一軒家一つずつを無理矢理詰め込んだ様な――あるいは、建築物をまるで積み木を積むようにしてできた様な――凹凸を繰り返す、雑然とした巨大な建築物である。

 水面から彼の自室までの距離は、非常に遠い。超高層ビルから下界を見渡した時のことを思い出して比較するに、ざっと数百メートルほどの高さはあるだろう。清次郎はそれだけで空恐ろしさを感じた。

 潮風が海の匂いを運び、清次郎の頬を撫でて行く。


「日本沈没、ってか?」


 一説によると、夢の内容は人の深層心理に影響されるものらしい。


 ……ヤバいだろ俺の深層心理。破滅願望まで来るのはやりすぎだ。


 やや引きつった苦笑を漏らし、彼は頬を掻く。

 しかし、破滅願望から来る夢だったとしても、この世界は明らかに妙だった。もしこの世界が清次郎の考えるそれだったとしても、荒んだ様子は無く、むしろ穏やかな印象さえ与える。


 ……というかそもそも、なんで俺はこれが夢だと自覚できる?


 根源的な疑問であった。夢にしては、あまりにも鮮明過ぎて、あまりにも現実的過ぎる。意識もはっきりとしている。

 明晰夢というものか、と清次郎は大体アタリをつける。彼は詳しいことは忘れてしまっていたが、それが夢だと認識した状態で見られる夢のこと、という概要だけは記憶している。


 ……深く考えても仕方がないな。


 彼は一旦思考を破棄し、また別の方向へと頭を巡らせ始める。


 ……さて、どうやって帰るか。


 顎に手をやり、考える。彼にとって今、最も重要なのはそれだった。

 彼は寡聞にして夢から覚める方法というのを知らない上に、とんと見当もつかなかった。ある本では明晰夢の場合、いくつかあるタブーを犯すと目が醒めてしまうというらしいが、彼が最後にその本を読んだのは相当昔のことで、大部分を忘れてしまっていた。


「さて、なんだったか」


 頭を捻って夢から覚めるパターンを思い出していると、背後でガチャリと扉の開く音がした。考え事に集中していたせいか、廊下からの足音には気づかなかった。


「セージロー、昼ご飯できたわよー」


 そう言って部屋に入ってきたのは、一人の少女だった。

 歳は清次郎よりも一つ二つ上といったところか。大人らしい落ち着いた雰囲気に、やや釣り目気味な歳相応のややあどけなさを残した顔つき。少し高めの身長と、途中を髪留めで一つにまとめられた、腰ほどまである長髪が印象的である。


「…………」


 清次郎は驚き、困惑した。いくら記憶を探っても、目の前の少女に該当する人物が思い浮かばなかったからだ。辛うじて薄ぼんやりと何かを思い出すが、それは全く判然としない。


「誰だ?」


 思わずぽろりとこぼしてしまった言葉に、清次郎はしまったと一瞬ひやりとしたが、予想外に少女の反応は自然なものだった。


「ちょっとセージローったら、まだ寝惚けてるの。日曜だからって、少し寝過ぎだったんじゃない?」


 彼女は長髪をいじりながら、苦笑する。


「早く下に降りてきてね。でないとお姉ちゃんのこと忘れられないように、また昔みたいに添い寝しに行くわよ」

「あ、ああ……」


 清次郎の勢いに呑まれての返事に彼女はよしと一つ頷き、髪をいじっていた方の手を振ることで退室を告げ、部屋を出ていった。


 ……姉。姉だって?


 姉を自称する少女が出ていった扉を、信じられない気持ちで見つめる。

 そもそも、清次郎には姉がいない。つまりそれは、彼女がこの夢の世界の住人であるということだ。


「成程、俺の深層意識は姉萌えに目覚めていたのか」


 言ってからしばし黙考し、やはりないなと首を横に振った。

 そこで、ふと清次郎はある記憶を思い出し、同時に焦燥にも似た感覚を覚えた。


 ……思い出した。確か、明晰夢のタブーは――。


 明晰夢のタブー。それは「怖がること」、「驚くこと」、そして「深く思考すること」。つまり、心拍数を上げる行為や脳を活発化させることだ。


「どういうことだ……?」


 彼は窓から下を覗いた時に、空恐ろしさを感じていた。いきなり部屋に入ってきた少女に驚いた。そして、――現状を把握しようと思索していた。

 形容しがたい感情に駆られ、慌てて胸に手を当てた。脈打つ鼓動は、確かに早い。

 それらから類推される事実は一つ。


「これは夢じゃ、ない?」


 そして、清次郎はふとある言葉を思い出す。


 ……胡蝶の、夢。

2011/12/19:読みやすさ重視で台詞と思考の部分を上下一段落下げました。

2012/01/18:表現などを微調整&追加

2012/02/13:指摘された箇所の表現などを調整

2012/05/30:題名を「胡蝶の夢」に変更

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