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モノクロとオレンジ  作者: 貴堂水樹
第二章 カラフル

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4.

 中学生だった頃、那菜はこの高校の文化祭の盛況ぶりに憧れ、受験することを決めた。

 生徒たちの熱の入りようはもちろん、客が各クラスの展示を心から楽しんでいる様子がとにかく輝いて見えた。人気テーマパークを楽しむ人々のそれと雰囲気がよく似ていて、いつか自分もこの中に入って高校生活をエンジョイしたい。そう強く思ったことを今でもよく覚えている。


 念願叶い、那菜は今、この高校の生徒として文化祭に足を運んでくれた客をもてなすことを心から楽しんでいた。一悶着あった雪女の役も、衣装を着てメイクを施せばそれだけで気持ちが乗ってきて、客の驚いた顔を見るごとに、同じシフトに入っている桜子と笑い合った。

 懸念されていた那菜のクラスの展示の目玉、巨大すべり台も、補修と強化のかいあってなかなかの好評を博していた。小学生くらいの子どもが二回、三回と遊びに来てくれたりして、二度目の那菜の雪女を見て「全然怖くない」と言われたりもした。それはそれで微笑ましく、驚かす側として終始楽しい時間を過ごすことができた。


「お疲れ、那菜」


 交代の時間になり、次のシフトに入っているうららが雪女のコーナーにやってきた。


「ありがとね、代わってくれて。どうだった?」

「楽しかったよ。ね、桜子」

「うん。那菜、めっちゃなりきってて笑えた」

「マジで? 見たかったなぁ、那菜の雪女」


 うららのリクエストに答え、那菜は雪女になりきり、掃除用具入れから登場してあげた。部屋を暗くしてあることもあり、うららは「やば。迫力すご」と那菜の本気を笑ってくれた。

 その場で衣装を脱ぎ、脱いだ衣装で頭を覆いながら教室を出る。桜子とともにトイレへ行き、雪女のメイクを落とすと、今度はいつも少しだけしている自分のメイクをした。ファンデーションを塗り、眉を描き、睫毛(まつげ)を上向け、マスカラを塗る。チークは薄めで、リップグロスで唇につやを出すことを忘れない。


 午後一時を回っている。人の波は収まらず、ただでさえ狭い廊下は混雑でさらに狭くなっていた。那菜たち一年六組の展示の前には客が列を作っていて、その様子を見られただけで満足だった。

 桜子や他の友達と一緒に、他のクラスの展示の列に並ぶ。ダンス部のみなみのクラスで、展示タイトルは『弁慶と牛若丸』。時代劇っぽく、刀で敵を斬り倒したりするバトル系アトラクションだと聞いている。おもしろそうだ。


「そういえば、那菜」


 桜子がふと思い出したように那菜に尋ねた。


「岸くんとは一緒に回らなくていいの?」

「え?」


 唐突に出てきた映志の名前に、那菜はわかりやすく動揺した。


「いや、特に約束とかしてないけど」

「えぇ、なんで。せっかくの機会なのに」

「せっかくって」

「ほら、とりあえず連絡してみなって」

「えぇ、今?」

「そう、今」


 桜子が目を輝かせながらかけてくる圧の強さに負け、那菜はスカートのポケットから取り出したスマートフォンでひとまず今日のクラス展示のシフト表を確認した。誰が何時にどの係を担当するかすぐにわかるようにと、事前に配られたシフト表を写真で撮影しておいたものだが、こんなことのために役立つとは思わなかった。

 那菜と同じく、映志もこの時間はフリータイムであるようだ。クラスメイトの誰かと一緒にいるか、あるいは、一人で時間をつぶしているか。


 列が少し進む。あと三組入った次が那菜たちの番だ。

 映志にメッセージアプリから連絡を入れてみる。つい先日、一緒に百円ショップへ買い出しに行った時に連絡先を交換した。


〈今どこにいる?〉


 シンプルに、それだけを送る。返事はすぐに来た。


〈体育館で休憩中。もうすぐ演劇が始まるところ〉


 体育館では、三年生がクラス展示の代わりに一クラス一演目の演劇を上演している。映志はそれを鑑賞するつもりのようだ。


「体育館にいるって、映志」

「映志?」


 桜子の顔にいよいよニヤリと悪い笑みが浮かんだ。


「知らなかった、いつの間に名前で呼ぶようになってたの、岸くんのこと」

「あ、いや……」

「まぁいいや。行きなよ、彼のところへ」

「でも」

「まかせといて。みなみにもちゃんと事情は説明しとく」

「ねぇ、本当にそういうのじゃないってば」


 桜子にぐいと背中を押され、無理やり列から離される。「がんばれ~」と手まで振られると拒否することは難しく、那菜は桜子たちのもとを離れ、体育館へ向かった。



 体育館の中には、外気とほとんど温度の変わらないムッとした空気が充満していた。クーラーの導入はまだ先のことになるらしく、大型の扇風機を複数台導入しても熱風がぐるぐるめぐっているだけで、とにかく暑い。演劇を上演するにあたり、窓は開けてあるものの暗幕代わりのカーテンがすべて閉まっているため、余計に熱がこもってしまうという悪循環が起きていた。

 映志を探すと、すぐに見つかった。ステージから見て半分より後方、前方の席との間にある通路を挟んだ一番前の、入り口からもっとも遠い端の席に座っていた。


 歩み寄りながら声をかけようとしたが、彼の両耳にはしっかりとワイヤレスイヤホンが装着されていた。スマートフォンから音楽を流して聴いているのか、那菜は声をかけることをあきらめ、彼の右肩をトントンとたたいた。

 映志はたいして驚く風でもなく顔を上げ、「やぁ」と朗らかに那菜に笑いかけながらイヤホンをはずした。


「お疲れ。どうだった、雪女」

「うん、楽しかったよ」


 那菜は空いている映志の隣の席に座る。次に上演されるのはダンス部の先輩がいるクラスの劇で、あと三分ほどで開演時間となる。ちなみにその先輩はキャストではなく裏方なので、ステージには上がらないと聞いている。


「もう展示は見て回ったの?」


 ケースにしまったイヤホンをポケットに入れている映志に尋ねる。映志は涼しい顔で「全然」と言った。


「シフトの時間以外はほとんどここにいた」

「ずっと演劇見てたの?」

「うん。すごい人混みだろ、校舎は。ダメなんだよ、俺。人酔いしちゃって」


 そうなんだ、と相づちを打とうとして、やめる。少し思うところがあった。


「それって、共感覚のせい? いろんな人の声の色が混ざるから?」


 映志には、人の声に色がついて見える。もしかしたら、それが人混みを苦手とする原因なのではないかと思った。

 映志はふっと表情を緩めた。


「頭が痛くなるんだよ、人の声であふれてるところに長くいると。もともと偏頭痛になりやすいっていうのもあってさ」

「そっか、頭痛持ちなんだ」

「うん。イヤホンをしたり、考えごとをしながら歩いたりしてなるべく声を拾わないようにするんだけど、そんな努力をするくらいなら最初から人混みを避けたほうが早いだろ。誰もいないところなら、頭に色が浮かぶこともないし」


 なるほど、理に適っている。

 けれど。


「そんなんじゃ楽しめないじゃん、文化祭」


 映志が那菜をちらりと見る。見つめ返す那菜の目は真剣だった。

 青春らしいことをしたいというのが映志の希望だったはずだ。映志がこの高校を選んだ根本的な理由はわからないけれど、彼は昨年の学校祭に足を運び、学校説明会にも出席している。学校祭に力を入れている学校だと知った上で入学したことは疑うまでもない。

 あの日――那菜と映志がはじめて言葉を交わした日、映志も那菜と同じことを感じたはずだ。

 この高校でなら、きっと楽しい三年間が過ごせるに違いないと。

 それがどうして、映志は年に一度のお祭りを棒に振ろうとしているのか。


「そうだな」


 映志は那菜から視線をはずし、笑った。


「全然楽しめてないよ」


 笑顔とは裏腹に、言葉は正直だった。誰もが思ったままを口にしてほしいと願う映志らしく、彼は苦しい心を隠さない。

 那菜が黙って立ち上がる。映志がキョトンとした顔で那菜を見上げる。


「行こう」

「え?」


 那菜は映志の手を取り、引いた。無理やり立たされた映志はまだ状況を飲み込めていないらしい。


「ちょっと、どこ行くの」

「校舎」

「えぇ?」


 映志を連れて、体育館を出る。建物の中から、上演開始のアナウンスが聞こえてきた。

 映志と手をつないだまま、那菜は言った。


「わたしが隣でずっとしゃべっててあげる。わたしの声だけを聞いていれば、酔わずに済むんじゃない?」


 映志が人酔いする原因は、多くの人の声を同時に聞いてしまうことだ。けれど人間の耳というのは、聞きたいことを脳が自動的に判断して、それ以外の音を排除した上で聴覚が作用するようにできている。

 つまり、映志の脳が那菜の声だけを聞きたいと思ってくれれば問題は解決する。映志の耳が那菜の声だけを聞いていれば、頭に思い描かれる色は那菜の声の色だけになるのだから。

 色が不用意に混ざらなければ、酔ってしまうことはない。頭が痛くなることもない。

 那菜の声で、映志を不本意な能力から守ってあげられる。映志を助けてあげられる。


「あぁ、そうかもしれない」


 離すタイミングを失っていた那菜の手を、映志が優しく握り直した。那菜の顔に、自信に満ちた笑みが浮かぶ。


「でしょ」

「うん、ありがとう。じゃあ、行こうか」

「えっ」


 映志が歩き出そうとする。が、さすがに手をつないだままというこの状況には那菜も戸惑う。


「このまま行くの?」

「ダメ?」


 映志が甘える子犬のような目をしてくる。恋人はいらないなんて言っておきながら、これはいったいどういうことなのか。


「カノジョは作らないんじゃなかったの」


 自分でも顔が赤くなっているのを知りながら、那菜は問う。映志はより強く那菜の手を握った。それが答えだった。


「やっぱり、ただきみを好きでいるだけじゃ嫌だ」


 視線が重なる。映志が笑い、那菜も微笑む。

 映志の手を、那菜もそっと握り返した。それが答えだ。映志と一緒にいたい。一緒がいい。


 二人並んで校舎に入る。今日の文化祭終了時刻まで残り一時間。いくつ展示を回れるだろう。

 取り戻したいと強く願うものの影はまだ見えない。

 けれど今は、映志の隣にいられる時間が楽しい。そう思えるだけでよかった。


 たわいない話で会話をつなぎながら、那菜は映志を笑い合う。

 今だけは、悪い夢から解放された気持ちになれた。

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