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モノクロとオレンジ  作者: 貴堂水樹
第二章 カラフル

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2.

 文化祭の準備も三日目に入り、学校内は着々とお祭りムードに染まっていた。授業もなく、生徒、そして教職員の気持ちまでも学校祭に向いている。

 そんな中、クラスの文化祭代表委員から当日のシフト表が配られた。真っ暗にした教室内を五つのコーナーに区切り、日本の妖怪を当時の歴史と絡めながら一体ずつ紹介しつつ来場客を怖がらせる仕掛けを施していくという流れになっていて、那菜はうららたちとともに雪女のコーナーを担当することになっていた。

 雪女チームは六人で、二人一組になって交代で客をもてなす。一人は案内役、もう一人は雪女役で、雪女役は客を驚かすため、衣装をまとい、顔を白く塗って、合図があるまで掃除用具入れに潜んでいなければならない。


「ねぇ、あたしやっぱり案内役がいい」


 できあがった雪女の白い着物を試着したうららが、急に泣きそうな顔でそう言った。


「うまく驚かす自信ない」

「えぇ?」


 桜子が険しい表情を浮かべて声を上げる。うららが雪女に化ける時には、桜子が案内役として配置されていた。配役と組み合わせは、チーム六人で話し合って決めた。


「そんな、今さら言わないでよ」

「だって。ねぇ、代わってよ、桜子」

「私? 無理だよ、私じゃ」

「そんなことない。がんばれば入れるって」

「無理だってば」


 桜子が素直に雪女役を引き受けられないのは、雪女役をやる場合、掃除用具入れに身を隠さなければならないからだ。

 細身のうららとは違い、桜子はからだの線が太めで、デブとまでは言えないけれど決して細くはない体型だった。うららなら楽々入れてしまう掃除用具入れも、桜子が入るとなるとやや厳しい。


「じゃあ、いい」


 うららはすっかり拗ねた顔で言う。


「他の係の子に変わってもらう」

「ちょっと、うらら」


 桜子が、自分たちの前から離れようとするうららの腕を取った。


「待ってよ。それは困るって」

「なにが困るの。別にいいでしょ、他の誰かにまかせたって。雪女の役はセリフがあるわけでもないし」

「そういうことじゃなくて。ねぇ、那菜?」


 桜子がすがるような視線を向けてくる。那菜ならなんとかしてくれるだろうという期待が透けて見えた。

 桜子の言いたいことは、少なくとも那菜には理解できる。文化祭当日までもう日にちがなく、那菜たち雪女チームは演技の打ち合わせをしながらコーナーの準備を進めてきた。それを今になって投げ出すうららの思考も理解できないし、仮に他の係の誰かに代わってもらえたとしてもわだかまりが残ることは避けられないだろう。

 那菜はなるべく表情に出さないように気を配りながら、努めて冷静に言った。


「じゃあ、わたしが代わる」

「え?」


 うららと桜子が同時にそう声を上げた。那菜は続ける。


「うららはわたしの代わりに案内役やって。シフトの時間は変わっちゃうけど、それでもよければ」


 那菜はもともと案内役で、うららたちの次のシフトで役が回ってくる予定になっていた。桜子と違い、一五八センチの標準体型である那菜は雪女役に適している。あとは二人がオーケイと言えば、事は丸く収まるはずだ。


「いいの、那菜?」


 うららが申し訳なさそうな顔を向けてくる。こんな時、映志なら今のうららの言葉が本心かどうかわかるのだろうか、なんてことをふと思う。心ではラッキーと思っているのだろうな、とも。


「わたしはいいよ。桜子はそれでいい?」

「うん……」


 桜子はなにか言いたそうな顔をして、ちらっとうららを見た。映志じゃなくても、桜子の考えていることはわかる。

 本当はうららと同じシフトに入りたいのだ。そうすれば、他のクラスの出し物を回る時にうららと行動をともにできる。

 その点については、那菜にも桜子の気持ちに共感できた。はじめての文化祭だ。那菜もうららと一緒に校内を巡りたかった。

 なぜだかわからない。わがままな面を差し引いても、うららとは一緒にいたいと思えてしまう。彼女のなにが那菜たちを惹きつけてやまないのか、山崎うららという女子高生にはそうした不思議な求心力があった。うららと一緒がいい。うららの親友でいたい。そう思わされるなにかがあるのだ。


「ごめんね、那菜」


 白い着物を脱ぎながら、うららが申し訳なさそうに言った。


「ほんとに大丈夫?」

「うん。だけどうらら、案内役もけっこう大変だよ。セリフ多いし、お芝居みたいなこともやらなくちゃいけないし」

「まかせて。あたし、記憶力には自信あるから」


 着物と帯を手渡される。うららの自信たっぷりな笑みは少し怖く、けれどうらやましいといつも思う。

 わたしもうららのように、自分の言動に自信を持つことができていたら。恐れることなく、自分の意思をどこまでも貫き通すことができていたら。

 那菜は手にした着物をきゅっと握る。あの日の言動を間違いだったと認めてしまった自分の弱さに辟易する。

 そういうところがうららに惹かれる理由なんだろうな、と那菜は最近気づき始めた。見方によってはただのわがままなのだけれど、あるいは自分で引き寄せてしまったどんな理不尽も跳ね返せる心の強さを持ち合わせているからこそ、うららは自分の足で立ち、クラスの中心で輝けるのだ。

 それだけの心の強さは那菜にはない。打たれると簡単に折れてしまう。

 そして、今の那菜がいる。

 過去に負け、失われた時間を必死に巻き返そうとしている哀れな自分。


「着てみたら、それ」


 うららが那菜の手の中の着物を指して言うので、那菜は雪女の衣装に袖を通した。制服は左胸に小さく校章が刺繍された白いポロシャツと濃紺のプリーツスカートだが、その上から着物を羽織るとクーラーの効いている教室の中にいても暑かった。


「これで掃除用具入れに入るのかぁ」

「けっこうキツいよね。……ごめん、あたしが雪女やめたせいで那菜が入ることになったのに」

「いいよ。暑いけど、雪女のほうが気楽だし。ほら、セリフとかないから」

「まぁね。でもあたし、やっぱりあのメイクは嫌なんだ」

「白塗りね。わたしはそれも含めて楽しむよ」

「さすが那菜。ありがと」


 那菜はうららにうなずいて返す。暑いからさっさと着物を脱ごうと思ったところへ、ちょうど映志が那菜たちの前を通りかかった。

 すれ違いざまに目が合う。映志は白い着物をまとう那菜を見て立ち止まった。


「雪女だ」

「そう。急遽やることになったの。似合う?」


 着物の袖をそれらしく振ってみる。映志はなぜか困ったように笑った。


「似合うって言ったほうが嬉しいのか、似合わないって言われたいのか、どっち?」

「そりゃあ『似合う』でしょ」

「でも、雪女だろ?」

「あぁ……そうだね、言われてみれば」


 似合うよと言われても、妖怪に化けた姿を褒められているのだから手放しには喜べないかもしれない。紳士だな、と那菜は映志のことを見直した。


「ねぇ、神谷さん。こっちも見て」


 映志は那菜を手招きし、廊下へと連れ出した。一歩教室の外へ出た瞬間、那菜は「わぁ」と感嘆の声を上げた。

 廊下に面した教室の外側の壁一面が、絵の具で黒く塗ったB紙を貼りつけた段ボールで覆われていた。天井のすぐ下には段ボールの骨組みと白い紙で作られた提灯が吊り下げられ、その下には大きくクラス展示のタイトルである『百鬼夜行絵巻~愉快な日本の妖怪屋敷~』という文字が躍っている。『愉快な』という部分が特におどろおどろしい書体で表現され、ほどよく恐怖を煽っていていい感じだ。


「すごい。ちゃんとオバケ屋敷になってる」

「まだ未完成だけど、よくできてるだろ。ほら、これも」


 映志が指さした先には、那菜が下描きを手伝った段ボール製の一反木綿と河童がいた。一反木綿は天井からテグスで吊され、まるで宙を漂うようにぷらぷらと壁の前で揺れている。河童は来場客を出迎える役目を与えられ、『入り口』という文字の書かれた立て札を持ったシルエットを那菜が下描きし、映志が段ボールを切り抜いて作った。


「めちゃくちゃ素敵! うまくできたね、河童も」

「な。色は俺が塗った。どう?」

「うん……いいね」


 一瞬回答に詰まったように聞こえただろうか。けれど、映志が完成させた河童は那菜が下描きしたとおり、骨格の薄気味悪さとお茶目な表情がバランスよく表現されていて、那菜の思い描いた河童そのものになっていた。オバケ屋敷なのだから、もう少し気味の悪さを煽ってもよかったかもしれない。


「ごめん」


 映志がやや残念そうに言う。


「色塗りまで神谷さんにまかせたほうがよかったかな」

「え、なんで?」

「いや……」


 映志は言葉を濁し、さらりとした自身の黒い髪をくしゃくしゃとかき乱した。その仕草と表情から、那菜は彼の言葉の真意にようやく気づいた。


「わたしの声の色、濁って見えた?」


 そういうことなのだろう。自覚があるからこそ、気づけた。

 映志の目には、会話の相手の心の変化が映る。那菜は今、口では確かに「いいね」と外壁の河童を褒めたが、頭の片隅で別のことを考えていた。

 そのことが映志に伝わってしまったのだ。それで映志は、那菜が河童の出来映えを不満に感じていると思ったらしい。とんでもない誤解だ。

 映志は小さくため息をつき、「面倒くさいだろ、俺」と言った。


「ほんのわずかな色の変化には気づくくせに、その理由がはっきりと見えるわけじゃない。どうして言葉と心がマッチしなかったのか、そこの部分は俺が勝手に解釈するしかないんだ。で、いつもマイナスの解釈をしちゃう。俺のよくないところ」

「うん、確かによくないな、それは」


 回答をぼかしても、どうせ映志にはごまかしていることがバレてしまう。ならば、と那菜ははっきりと言ってやることにした。


「わたし、この河童の出来映えは本当にすごくいいと思ってるよ。ただ、河童のくせにやたらかわいく描きすぎちゃってると思わない?」

「そう?」

「うん。だから、もう少し気味悪く描いたほうがオバケ屋敷っぽくなったかなと思っただけ。わたしの描いた下絵を自分で反省したんだよ」

「そういうことだったのか。だったら、ごめん。また余計なことを言った」


 映志が謝罪を口にする。彼はもう何度那菜に謝っただろう。

 きっと那菜にだけではないのだろうなとなんとなく察する。映志の共感覚による勘違いや勝手な思い込みは今に始まったことではないはずだ。これまで多くの人に対して彼は謝り続けてきた。それでも人の気持ちを気にしすぎてしまうのは彼の生来の性格によるものなのだろう。


 不意に映志の右手が伸びてくる。細く、色の白い彼の指がそっと那菜の頬に触れ、いつのまにか額から伝い落ちていた汗を親指で拭われた。


「暑い?」

「えっ」

「着物、脱いだら?」


 そう言って、映志はおもむろに那菜の背後に回る。なにをするのかと思ったら、着物の帯をほどき始めた。

 映志の存在を今までで一番近くに感じていた。触れられた頬にはまだ彼の指から伝わった熱が残っている。


 影の薄い、いるかいないかもわからないようなクラスメイトだった。

 けれど今ははっきりと、ちゃんと那菜のそばにいる。互いの胸の鼓動まで聞こえそうな距離に、映志がいる。


 されるがまま帯をはずし、着物を脱ぐ。妙な緊張と恥ずかしさが大きいせいか、窮屈さからは解放されても、もとの制服姿に戻っても暑さは残ったままだった。

 映志は那菜の脱いだ着物を手もとで器用にくるくると丸めて小さくし、那菜に手渡した。


「はい」

「ありがとう」

「雪女の役、本当は誰がやる予定だったの?」


 那菜の目が泳ぐ。「訊くまでもないか」と映志は言った。


「しんどくないの? そうやって、友達のわがままに振り回されて」


 つい、にらむように映志のことを見てしまう。確かにうららにはわがままな面もあるけれど、よく知りもしないでわかったようなことを言われるのは納得がいかない。


「岸くんこそ、つらくないの」

「俺?」

「わたしだけじゃなくて、誰が相手でも同じなんでしょ、その人の心の中が透けて見えちゃうのって。それって、しんどくない?」


 相手の本心を知りたいと思う瞬間はいくらでもある。けれど、知りたくない時ももちろんある。

 映志の場合、知りたくなくてもわかってしまうのだ。相手が声を発すれば、おのずとその人が本心を語っているのか、そうでないのかわかってしまう。


「しんどいよ」


 映志はためらうことなくそう答えた。まだしっかりと夏が香る九月の風が廊下の窓から吹き込み、二人の髪を静かに揺らす。


「誰もがなんでもかんでも思ったままを口にしてくれたらどんなに楽かって、いつも思う。でも人間は、本音と建て前を使い分ける。波風を立てないように嘘をつくこともある。誰かを守るために、とかね。それって当たり前のことだろ。みんなやってる。俺が勝手に反応して、勝手に傷ついてるだけ。あぁ、今この人は俺に対して気をつかっているんだな、とか。本当はこうしたいのに遠慮してるのかな、とか」


 映志の声のトーンが落ちる。クラスメイトの男子二人が教室から廊下へ出てきて、その風圧で天井からぶら下がっている一反木綿が揺れ、かさりと無機質な音を鳴らした。

 映志は廊下を行く男子たちの背中を目で追いながら続ける。


「誰かを陥れるために平気で嘘をつくヤツのことも何人も見てきた。そんな風だったから、友達付き合いをすることが怖いなって思っちゃってた時期もあったよ。みんな心では恐ろしいことを考えてるんだって、自分勝手に想像してさ」


 聞いているだけで胸が苦しくなる話だった。相手の心が透けて見えてしまうせいで、映志は心の休まらない日々を過ごしていた。

 那菜の中で、映志への理解がまた一つ進む。

 映志は影が薄いのではない。もしかしたら彼は、意図的に息を殺して生活しているのではないかと思った。

 クラスメイトと行動をともにし、誰かの内に秘めた感情に心が傷つくことを、彼は自らすすんで回避している。他人とかかわらないようにすれば、彼は穏やかな日々を過ごすことができると考えて。

 それが映志の選んだ道なのだとすれば、彼は那菜とは真逆の選択をしたことになるだろうか。

 那菜は今、多くの友達に囲まれることを望んでいる。


「だから、ある意味ではちょうどよかったんだ、母さんのことは」


 映志の口調が前向きなものへと変わった。


「母さんや妹の世話を理由に部活も辞められて、学校が終わったらすぐに家に帰れた。介護や家事は正直楽じゃないけど、誰とも深く付き合わなくてよくなったら、それはそれで、心はずいぶん軽くなった。でも、そうやっていつまでも逃げてちゃダメだよなって思ってもいる」


 映志は廊下の窓から外の景色に目を向ける。昼下がりの空で、小さな白雲がゆったりと泳いでいる。


「母さん、命が危ない時があってさ」


 ほの暗い過去を語っているのに、映志の口調はどこまでも清々しかった。きれいな微笑みさえ浮かんでいる。


「一時はどうなるかと思ったけど、なんとか踏みとどまってくれた。そんな母さんを見てて、人間っていつ死んでもおかしくないんだって思った。どんな形であれ、俺もいつか、もしかしたら明日、突然死ぬかもしれないよなって」


 死ぬ、か――。那菜にも少しだけ、いや、すごくよくわかる話だった。

 人はいつ、どんな形で、大切なものを失うかわからない。それが大切な人の、あるいは自分自身の命でないという保証はどこにもない。


「それ、わたしも思ったことあるよ」


 那菜は自身の経験を少しだけ話した。


「中学の頃、わたし、交通事故に遭ったの」

「え、ほんと?」

「うん。たいした怪我じゃなかったけど、車とぶつかった瞬間、あ、わたし死ぬかも、って思った」

「そっか。怖いよな、死が目の前に迫るのって」


 そう、怖かった。本当に怖かった。

 けれど同時に、死ぬことを怖いと思えている自分に、当時の那菜はどこかホッとしてもいた。あの時、車にぶつかったあの瞬間、このまま死んでしまえたらいいのにと思わなかったからこそ、今日がある。

 そうでなければ、今ごろは。


「だけど、俺たちだっていつかは死ぬ」


 映志は話の続きを口にした。


「明日死ぬかもしれないのに、悔いの残る生き方をしてちゃいけない。最近、そんなことをよく考えるんだ。家のことはどうにもならないし、やっぱり家族が大切だから、俺にできることは全部やる。だからといって、学校生活をあきらめたくはない。俺だって、せめて学校の中でだけは普通の高校生らしく過ごしたい。難しいかもしれないけど、それが俺の希望。友達を作って、それなりに遊んで、青春っぽいこともしてみたい」

「青春っぽいこと?」

「そう。これもそうだよね、文化祭」


 映志は自ら作った河童の看板を指で軽くたたいた。


「みんなでわいわい作業できて楽しいよ。欲を言えば、これを機に深い付き合いのできる友達ができたらいいなって思ってるんだけど、これがなかなかうまくいかなくて」

「どうして」

「学校生活の中だけじゃ、やっぱり時間が足りないよ。それに、俺の場合は家のこともある。家族の話をすると、相手はまず間違いなく俺にいろいろと遠慮するようになるからさ。気をつかわないで、ってお願いするんだけど、ほら、俺には見えちゃうから。相手は遠慮してないつもりでも、心のどこかで引っかかりを覚えてると、それがどうしても声に乗って、色になって俺に伝わる。で、俺が勝手に落ち込む。申し訳ないなって。そうしてるうちに、相手とどんどん距離ができちゃう。それのくり返し」

「そっか。難しいね」

「うん。本当に面倒くさいんだ、俺の能力は。俺のもともとの性格のせいもあるのかもしれないけどね」


 それはそのとおりだと那菜も思う。映志は優しい。素の彼が気づかいのできる人だからこそ、余計に相手の気持ちをおもんぱかってしまうのだろう。


「やっぱりわたしの心配してる場合じゃないじゃん」


 那菜は苦笑を浮かべて映志に言う。


「わたしは大丈夫だから。自分のことだけ考えなよ、岸くんは」


 映志の場合は、それでいい。彼は少し、他人のことを気にしすぎだ。難しいかもしれないけれど、もっと自由に、もっと素直に生きていい。

 彼の場合は。


「そうだよなぁ」


 映志の顔にも苦笑が浮かび、わざとついたようなため息が聞こえてきた。


「きみが大丈夫だとは思わないけど、俺が常に誰かに気をつかいながら生きてるっていう自覚はある」


 でしょ、と相づちを打ちながら、那菜はとあることを映志に提案することを思いついた。


「じゃあ、少なくともわたしに気をつかうのはナシにしよ。お互いに事情がわかってる友達が一人でもいれば、少しは世界が変わるんじゃない?」


 青春っぽいことをしてみたいと映志は言った。そのためにも、心から友達と呼べる人がいたほうがいい。

 明確な理由があるわけではないけれど、映志にはもっと毎日を楽しく過ごしてほしいと思った。

 彼の背負う苦労がゼロになる日はきっと来ない。それでも、ほんの少しでもいいから、彼が腹の底から笑える時間が増えてほしい。

 苦しい時間は、一秒でも短いほうがいい。


「お互い、ね」


 映志が那菜の発した言葉を拾う。


「なら、きみも教えてよ」

「え?」

「どうしてきみが、自分の心に嘘をついてまで山崎さんと友達でいようとするのか」


 映志の放ったカウンターを避ける(すべ)を那菜は持ち合わせていなかった。投げかけられた言葉のすべてがまっすぐ胸に突き刺さり、全身がこわばる。

 先日の体育祭で素直に答えなかったツケが回ってきたのか、あるいはいつだったか、映志に対して優位に立とうとした罰か。

 どちらも違うのだろうなと思う。単純に、映志の心配性な一面、つい他人を気づかってしまう性格が垣間見えているだけなのだろう。

 かまわない。映志になら、話してもいい気がする。

 小さな覚悟を決めた那菜は、自分自身に言い聞かせるような口調で言った。


「取り戻したいものがあるの」

「取り戻したいもの?」

「そう。わたしが考えているのはそれだけ。うららと無理して友達でいるわけじゃないし、嘘をついてるつもりもない」


 この言葉にも嘘はない。うららとは無理して付き合っているわけではない。

 言葉のとおり、那菜には取り戻したいものがある。それだけだ。

 そのために、中学時代と同じ失敗をくり返さないよう気をつけている。反発せず、いい子にしていれば、失ったものをきっと取り返せる日が来る。そう強く信じている。

 だから、今のままでいい。映志に心配されるようなことはなにもない。

 那菜は表情を柔らかくし、映志に言った。


「ありがとう、心配してくれて。わたしも、岸くんの力になりたいって思ってるよ」


 心からの感謝と、思ったままを映志に伝える。映志の目にもきっと、今の那菜の声はきれいなオレンジ色に見えているはずだ。

 映志も那菜の微笑みを写したように笑い、「ありがとう」と言った。


「強いね、きみは」


 映志の一言は、彼の意図しない形で那菜の胸に細く刺さった。


 ちっとも強くなんかない。

 わたしが強い人間だったら、こんなことにはなってない。


 そんなことを考えた那菜の表情が一瞬翳る。映志にバレていなければいいなと、那菜は祈るように思った。

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