1.
家に帰るのが憂鬱だと思ったことはほとんどなかった。
父は優しく、母は心配性で口うるさいところもあるけれど、嫌いじゃない。兄は大学進学を機に家を出た。いてもいなくてもあまり変わらない。兄のほうが、那菜にあまり関心を持たない人だった。
「ただいま」
いつものように、那菜はまっすぐリビングへ向かった。ダイニングテーブルについていた母が「おかえり」と返してくれる。兄がいた頃は顔だけ出してすぐに二階の自室へと上がったけれど、今は我が物顔でリビングのソファに学校用の鞄を下ろすのが習慣になっていた。
「ただいま、お父さん」
「おう、おかえり」
ソファに座ってテレビを見ていた父が言う。最近、那菜より帰りが早い。今日は部活がなかったけれど、最終下校時刻の午後六時三十分まで居残りをして文化祭の準備をしていたから、現在の時刻は普段と変わらない七時三十分だった。
三人揃って夕食を食べる。母が那菜の学校での様子を尋ねてくるのはいつものことで、うっとうしいなと思いつつ、笑顔で「楽しいよ」と答えた。そう言うと、母は安心してくれた。
夕飯のハッシュドビーフを食べながら、那菜は映志のことを考えていた。
映志には小学生の妹がいて、母親は病気でほとんど寝ているという。みなみに聞いた話では、父親も仕事が忙しい人だとか。
那菜たちとは違い、映志は放課後の居残りをせずに帰っていった。「予定がある」と言っていたけれど、家事や妹の世話のために帰ったことを那菜は知っている。
映志の他にも塾や習いごとのために帰ったクラスメイトが何人かいたし、そもそも文化祭の準備に非協力的な人もいたけれど、彼らを咎める雰囲気はなかった。居残りでの準備作業は終始楽しく進められた。
気の毒だな、と那菜は映志を思いやる。
本当なら、映志も放課後の準備に参加したかったかもしれない。塾や習いごとは自己都合だが、映志の場合は違う。家庭の事情で、やむを得ず家事や妹の世話を引き受けているのだ。
目の前に並んだ夕食を見て、思う。わたしは幸せな家庭で暮らしている。
家に帰れば、母の作ったごはんがある。洗濯も、掃除も、ほとんどすべて母がやってくれている。
それが当たり前だと思っていた。どこの家庭でも同じような感じなのだと信じて疑わなかった。
けれど、映志の家は違う。きっと映志は小学生の頃から、母親に代わって家を守ってきたのだろう。那菜が無邪気に友達と遊びに出かけている間に、彼はひとり、家族全員分の夕飯の支度をしていた。
誰かに助けを求めたことはないのだろうか。学校へかよいながら、家事も、家族の世話もこなすなんて、映志はきっと自分の時間をほとんど持てずにいるはずだ。
わたしにも、なにかできることはないかな。
そんなことをちらりとでも考えた自分に、那菜は自分で驚いた。
学校からは離れたのに、どうしてまだ彼のことを考えてしまうのだろう。




