3.
「ごめん神谷さん、ちょっとそれ取って」
教室の片隅で文化祭用の衣装と小道具を作っていると、クラスメイトの男子から声をかけられた。
「どれ?」
「それ。その赤いやつ」
「赤……」
どれのことを言っているのだろう。なんとなく彼の指さすほうを見るけれど、どれがほしいのかわからない。
隣からうららの手が伸びてくる。手芸用の糸切りリッパーを取り、求めていた男子に渡した。
「はい。これでしょ」
「そうそう。サンキュ」
「ちゃんとリッパーがほしいって言ってよ」
「すまん。逆にわかりづらいかなって思ってさ。リッパーなんて普段使わないだろ、おれくらいしか」
「確かに」
うららは真顔でそう言い、笑った。くだんの男子はアニメのキャラクターの扮装を趣味とするコスプレイヤーだそうで、衣装もすべて自分で仕立てているのだそうだ。「衣装製作ならおまかせあれ」と彼が言うのでお願いしたところ、器用にミシンを使いこなし、あっという間に妖怪・雪女の白い装束を作り上げてしまった。クオリティはむしろ高すぎるくらいで恐ろしい。
那菜たちのクラスは、文化祭の出し物としてオバケ屋敷をやることに決まっていた。進学校らしく、題材には学習テーマを取り入れることが条件で、一年六組は室町時代に数多く描かれたという『百鬼夜行絵巻』について研究し、日本の妖怪が出てくるオバケ屋敷、いや、妖怪屋敷を作り上げることになった。
というわけで、雪女である。那菜の係は衣装と小道具の製作で、今は座敷わらしの衣装用の型紙を作っているところだった。
「すいませーん、誰か手の空いてる人いませんかー」
廊下から教室内へ呼びかけられる。開け放たれた扉から顔を覗かせ、助けを求めて手を振っているのは映志だった。彼の配置された外装班は、廊下の壁に立派なオバケ屋敷に見えるような外装を施すことが仕事だ。大道具班と並ぶくらい大変な係だった。
「はいはーい、行きまーす!」
うららが手を挙げ、映志の求めに応じる。けれどうららは椅子から立ち上がることなく、那菜の肩に手を置いた。
「行って、那菜」
「え、わたし?」
うららは悪い笑みを浮かべ、那菜の耳もとに顔を寄せた。
「岸と話せるチャンスじゃん」
那菜は両眉を跳ね上げる。まんまるにした目をしてうららを見ると、うららはサムズアップした。
完全に勘違いされている。映志のことなんてなんとも思っていないのに、きっとうららは那菜と映志をなんとかしようと考えているのだ。みなみか、桜子か、あのあたりも一枚噛んでいるだろう。学校祭をきっかけにカップルが成立することを『学祭マジック』なんて呼んだりするけれど、うららはそれを狙っているに違いない。
「いや、わたしは……」
「ほら、早く。こっちのことは気にしなくていいから」
「えぇ、ちょっとうらら!」
うららは那菜の腕を取り、無理やり廊下へと引っ張っていく。映志の前に突き出され、「はい、助っ人一名」と言ったうららは、那菜を残してさっさと自分の持ち場へと帰っていった。
「悪いね、神谷さん」
恨みがましい目をしてうららの背中を見送っていると、段ボールカッターを持った映志に声をかけられた。うららのせいで、無駄にドキドキしてしまう。
「さっそくだけど、そこの段ボールの端っこを押さえててもらえる?」
「あぁ、うん。オッケー」
映志の指示に従い、廊下いっぱいに広がる段ボールの脇に膝を突き、端を手で押さえた。映志は「ありがとう」と言うと、下描きされた油性ペンの線に沿って段ボールを切っていく。どうやら大きな一反木綿を作りたいらしいが、誰が描いたのか、あまりうまいシルエットとは言えなかった。
「これ、岸くんが描いたの?」
「そう。いちおう見本を調べて描いたんだけど、やっぱりヘタ?」
「うーん、ヘタではないけど」
油性ペンが廊下の隅に転がっているのを見つけると、那菜は映志に場所を譲ってもらい、ほんの少しだけ手直しした。
布の揺れるような動きが出るように、足に相当する位置のひらひら感を大きくする。どうせあとから色を塗るのだからと、片目を瞑り、ペロリと舌を出したお茶目な顔を書き足した。オバケ屋敷の看板にはふさわしくない、かわいらしすぎる妖怪になった。
「うまいな」
できあがった下描きを見て、映志は舌を巻いたようだった。
「絵、得意なんだ?」
「うん。昔はよく描いてたかな」
那菜の小学生の頃の夢は漫画家になることだった。ストーリーが作れず挫折して、けれど絵にかかわる職業に就きたいとは思っていた。今では考えもしない、昔の話だ。
那菜は引き直した線を指さし、映志に言う。
「わたしの描いた線に合わせて切ってみて。あとから調整できるように、少し大きめにしといたから」
「了解」
映志が那菜の描いた線に沿って段ボールを切り始める。那菜が端を押さえに戻ると、映志は手を動かしながら言った。
「今は描かないの? 絵」
「うん、全然」
「どうして」
一瞬、答えに詰まった。当たり障りのない回答を用意する。
「気づいちゃったんだよね。わたし、そんなにうまくないなって。それに今は部活も忙しいし、もう絵はいいかなぁって感じ」
映志は手を止め、顔を上げて那菜を見た。視線に気づいた那菜と目が合う。
「なに」
「いや」
「ねぇ、そういうのウザい」
「ごめん。本当はもっと絵を描きたいんだろうなぁって思っただけ」
まただ。また映志は平然と那菜の心を揺さぶってくる。
本当にわかるのだろうか。彼には、那菜が思わず隠してしまった本当の気持ちを察することができるのか。
「どうしてそう思うの」
適当に受け流すこともできたのに、思わず訊き返してしまう。映志はなんでもない風で答えた。
「言わなかったっけ。俺、心と言葉がマッチしていないのがわかっちゃうんだって」
「それは聞いた。嘘つきの声は濁るんでしょ」
「そう。つまり、そういうことなんだよ。絵はもういいって言ったきみの声は濁ってた。今のきみの言葉が本心じゃないってことだ。だから気になった。それだけ」
那菜は大きくため息をついた。勘づいたり気になったりするのは映志の勝手だ。しかし、なぜそれを口や態度に出してしまうのか。
映志に言われたとおり、那菜は今でも絵を描くことが好きだった。
ただ、描けない。描きたいと思えない。
描こうと思えば描ける。しかし、思いどおりに描き、完成させることが難しい。大好きなものを嫌いになってしまいそうで、それが怖くて今はペンを握らないことにしている。
けれど、それを映志に話す必要はない。聞いてほしいとも思わなかった。絵を仕事に、なんて夢を見ていた自分はもういない。今はただ、今が楽しければそれでよかった。
「うちの妹も絵が好きでさ」
映志は那菜の描いた線に沿って段ボールを切りながら、唐突に家族のことを話し始めた。
「将来は漫画家になるんだって言って、オリジナルのキャラクターを量産してる」
「へぇ、すごいね。がんばってるんだ」
「うん。きみの絵を見て、妹のことを思い出しちゃってさ。さっきは余計なことを言ったね、ごめん」
なるほど、それが那菜に絵を描かないのかと尋ねた理由だったわけか。しかし、映志には那菜のことがわかるのに、那菜には今のようにきちんと理由を説明されなければ映志がなにを考えているのかわからないというのは、なんだか不公平な気がした。
心のモヤモヤを抑え込むことができず、那菜は不公平の是正を試みた。
「妹さん、何年生?」
「小三。七つも年下」
「そっか。じゃあやっぱり岸くんが面倒を見てあげないとだね、お母さんの代わりに」
一枚、手札を見せる。映志は驚いた顔をして那菜を見た。
「田口に聞いた?」
「うん。お母さん、病気だって」
「そうそう。妹が生まれて、しばらくしてからおかしくなってさ。調子のいい時もあるんだけど、ここ最近は薬の副作用でほとんど寝てる」
映志はいつもと変わらない口調で言い、段ボールを切る作業に戻る。那菜の想像以上に映志の母の容態は深刻で、かける言葉が見つからない。
「わたしの心配してる場合じゃないじゃん。家のこと、大変なのに」
病気のことには深入りせず、那菜は話の矛先を映志に向けた。けれど映志は涼しい顔で、一反木綿の切り取りを続ける。
「それとこれとは別だよ。神谷さんには一度助けてもらってるからさ。今度は俺が助けになれたらいいなって思ってて」
「え?」
助けてもらった? 話が見えない。那菜はやや前のめり気味で映志に問う。
「助けたって、なんのこと?」
「やっぱり覚えてないか。入学する前の話だしな」
一反木綿のシルエットに段ボールが切り取られる。映志はそれを那菜に見せるように持ち、「どう?」と言った。
それどころではない。那菜のほうが答えを求めるように映志を見つめる。
映志は切り抜いた一反木綿型の段ボールを廊下の壁に立てかけ、別の段ボールを手もとに引き寄せた。
「ちょうど一年前かな。俺、ここの高校の学校説明会に来てたんだ。その時の帰り際に、配られたプリントの束を派手にひっくり返しちゃってさ。高校のパンフレットとか、校門でもらった文化祭のチラシとか、あれこれ全部ぶちまけて、めちゃくちゃ恥ずかしかったんだよ」
笑った映志の姿を見て、那菜はようやく映志の言いたいことにたどり着いた。
覚えている。中学三年生の、ちょうど今ごろのことだ。
夏休みに入ってから、那菜は近隣の高校へいくつか足を運び、学校説明会に参加した。今かよっているこの高校にももちろん来た。映志が言っているのはその時のことだ。
説明会では、学校が独自に作成したパンフレットや入学試験に関する情報など、受験生の那菜たちにとって高校選びに欠かせない情報をまとめた資料が複数配られた。この高校では文化祭の見学も高校説明会の一環で、クラスの出し物によってはお土産をもらえるところもあり、あの日は確かに手荷物が多かった。
そして、偶然那菜の座った席の隣で、配付資料を手からこぼしていた男子生徒がいた。あの時の男子中学生が映志だったのだ。
「そっか、あの時の」
「思い出した?」
「うん。わたし、一緒に拾ったんだ。けっこう遠くまで飛んで行っちゃって、二人で追いかけたよね」
「そうそう。今さらだけど、あの時はありがとう。助かったよ」
恥ずかしそうに礼を言った映志の声を聞いて、ようやく那菜はあの男子中学生が映志だったことを完璧に自覚した。あの日聞いたお礼の声と同じだ。当時の彼も、終始恥ずかしそうに顔を下げていたことを思い出す。彼の顔をはっきりと覚えていなかったのはそのせいだろう。真正面から見た記憶がない。
「ごめん。あの時の子が岸くんだったって、今まで全然気がつかなかった」
「いいよ。あの程度のかかわりじゃあそんなもんだろ。俺、影薄いし」
映志は自虐的に笑う。どう返せばいいかとっさに思いつかず、那菜はうっすらと笑みを浮かべた。
「実は俺も、あの時助けてくれたのが神谷さんだって、しばらく気づかなかったんだ。あの時の子が同じ高校だったらいいなと思って、入学してからずっと探しててさ。そうしたら同じクラスに神谷さんがいて、もしかしたらこの子かも、って思うところまでは来たんだよ。でも、あの時助けてくれた子とは、声の色が違う気がして」
「声の色?」
また映志は意味のわからないことを口にした。しかしすぐに、映志はどうやら色にこだわりがあるらしいというダンス部のみなみが話していたことを思い出す。
「どういう意味、声の色って」
那菜が問うと、映志はまた少し恥ずかしそうな顔をした。
「俺、人の顔を覚えるのが苦手でさ。その代わり、みんなのことは色で認識してるんだ」
「色で?」
「うん。神谷さん、『共感覚』って知ってる?」
「キョウカンカク?」
聞いたことのない言葉だった。漢字も思い浮かばない。
那菜が知らないことを映志は当たり前だと思っているようで、丁寧に説明してくれた。
「共同の『共』に、感覚器官の『感覚』で、共感覚。二つの知覚現象が同時に起きる体質のことなんだけど……言ってる意味、わかる?」
わからない。那菜は素直に首を横に振った。「だよね」と映志は笑った。
「人間の五感って、普通はバラバラに働くだろ。目で見えるものと、耳で聞こえるものを別々にとらえる。だけど、俺たちみたいな共感覚を持っている人は、ある感覚でとらえた現象を、別の感覚でも同時にとらえる。たとえば、ピアノで弾いた音を耳で聞くと、ドの音が赤、レの音が黄色、みたいに、その音に視覚的な色も同時に感じるとか」
「へぇ。そんな人がいるんだ」
「うん。他にも、なにかを食べると、その味に対して手の中になんらかの形を感じてしまうとかね。さっきのピアノの話は、聴覚と視覚が連動してる例。今の話は、味覚と触覚が同時に働いてるってこと。なんとなく掴めそう?」
「うん、なんとなく。ということは」
那菜なりに、今の映志の話をかみ砕いて解釈していく。
「さっきの岸くんの話だと、岸くんは人の声に色を感じるってことなんだ。つまり、聴覚と視覚が連動してる」
「うん、だいたいそんな感じ。俺の場合、具体的に色がはっきりと目に映るわけじゃないんだけどね。共感覚には何百っていうパターンの例があるらしくて、俺の場合は、人の声に色を感じるっていう話」
へぇ、と相づちを打つだけで精いっぱいだった。そんな能力を持つ人がこの世界には何百と存在して、そのうちの一人が映志だということか。やはりどこかピンとこない。
映志も端から那菜の理解を得ようとは思っていないらしく、さらりと流すように続ける。
「中には、人の会話が頭の中ですべて数字に変換されてしまうような大変な思いをしている人もいるみたいだけど、俺はそれほど深刻じゃない。人の声に色を感じると言っても、日常生活には支障ないしね」
「でも、人の顔が覚えられないんでしょ? それって、色の印象が強すぎるせいなんじゃないの」
「まぁ、そう指摘されればそのとおりなんだけど。色のことばかりが気になって、顔の印象が薄くなっちゃうわけだからね」
映志の右手が、床に転がった段ボールカッターに伸びる。二人とも話に夢中になっているけれど、手を止めていては与えられた仕事がたまる一方で、文化祭に間に合わなくなる。
「じゃあ、中学時代に出会ったわたしを探したのって」
「そう、きみの声の色を頼りに探した。きみのオレンジはすごく澄んでいてきれいだったから、よく覚えてて」
「オレンジ」
その一言が、那菜の中に眠る記憶の一つを呼び起こさせた。
――きみの声は、もっときれいなオレンジなのに。
「あの時の、そういうことだったんだ」
「あの時?」
那菜のひとりごとに映志が首を傾げる。那菜は「なんでもない」と言い、話をそらした。
「大変だよね、やっぱり。苦労するでしょ、クラス替えの時とか」
「そうでもないよ。時間はかかるけど、最終的にはちゃんと顔と名前が一致するから問題ない」
映志は手もとの段ボールを折りたたまれた状態から一枚の帯状になるように切り始める。今度はなにを作るつもりなのか。
「そういうわけで、俺はあの日に聞いたきみの声の色を頼りに、きみを探した。ちゃんとお礼を言いたかったからね。だけど、なかなか見つからなくてさ。顔もぼんやりとは覚えてて、声と照らし合わせながら一年生の教室を全部回ったんだけど、それでもしばらくは神谷さんだって確信が持てなかった」
「どうして。わたし、同じクラスでずっと一緒に過ごしてきたのに」
「言ったでしょ。きみの声が、あの時の声とは色が違って見えたって。心で思っていることと違うことを無理やり話すと、声が濁るんだ。正しく言うと、声の色が濁って見える。俺にはね」
「色が濁る」
「そう。たとえば声の色が緑をした人が、本当は全然楽しくないのに『楽しい』って口に出して言うと、その人の緑はコケが生えたみたいなモヤッとした緑になる。本来の色に別の色が混ざって濁る。不思議だろ」
映志は笑う。切り終えた段ボールを広げ、カッターからさっき那菜が使った油性ペンに持ち替えた。
「次は河童を作りたいんだけど、神谷さん、せっかくだから描いてよ。切るのは俺がやるから」
映志がペンを差し出してくる。那菜はそれを受け取るけれど、キャップははずさず、両手できゅっと握りしめた。
「嘘がわかるの」
「え?」
「岸くんは、人の嘘が見抜けるの」
にわかには信じられないことだった。声に色がついて見えるなんて。
けれど、やはり彼が出まかせを言っているとも思えなかった。今聞かされた話をまとめると、映志は人の声を耳で聞くと同時に視覚的な色も見え、その色の変化によって声を発した者の心情がわかる、ということだ。自分の心を偽って、想いと違うことを口に出すと、彼にはそれがわかってしまうという。
「嘘かどうかまではわからないかな」
映志は言葉を慎重に選びながら語った。
「ただ、我慢してる人の声はわかりやすく色が濁るね。本当は嫌いなものを好きって言ったり、本当はやりたいことを遠慮してやらないって言ったりするタイプの嘘は、わかる」
映志はそれ以上言及しないが、まるできみみたいに、と言われているような気がした。自分で訊いておきながら、相づちを打つことさえままならない。
図星を突かれている自覚があった。少し、いや、多くの場面で那菜は自分の心を隠している。
けれど、そんなことは那菜に限った話ではない。誰でもそうだ。対人関係を円滑に保つために、人は自分を偽る術を持っている。人は時に、なにかを守るための嘘をつく。
つらいと思ったことはなかった。日々の生活に満足している。友達付き合いもうまくいっている。なにもかも、那菜が高校入学前に思い描いたとおりに進んでいる。
那菜の視線がかすかに泳ぐ。映志に心配されることなんてなにもない。
わたしは今のままでいい。うららの前でも、気負わず自分の思いどおりに生きている。
そう答えるだけでいいのに、口を開くこともできない。口に出せば、映志に「嘘だ」と言われることを知っている。
そう、わたしは嘘つきだ。
けれど、嘘をつく相手は自分だけ。
失ったものを取り戻すまでは、今の状況を死守する必要がある。けれどそれは、映志には関係のないこと。
自分だけが知っていればいい。
誰にもしゃべるつもりはない。映志にも、うららにも。
「ヒーローを気取るつもりはないけど」
黙ってしまった那菜に、映志はどこまでも穏やかな口調で言った。
「俺は、中学時代のきみが今よりももっと澄んだオレンジの声をしていたことを知ってる。それと、人間は無理が重なると病気になることも知ってる。うちの母親がそうだから」
那菜が顔を上げると、映志に微笑みかけられた。
「俺にできることなんてないかもしれないけど、なにかあった時には頼って。俺、友達いないし、愚痴りたくなった時の聞き役にはちょうどいいかも。きみから聞いた話を漏らす相手がいないから」
きれいな微笑が、くしゃりと崩れた笑みに変わる。それを見るだけで、映志が悪い人ではないことは伝わる。
彼は本気で那菜を心配してくれている。そんな気持ちは必要ないと突っぱねることができないのは、心のどこかで救われたいと願っているからなのだろうか。
馬鹿らしい。強張っていた那菜の表情が諦念に導かれて和らぐ。
救いなんてないし、神様だっていない。
この世界にあるのは、人の悪意と、灰色の現実だけだ。
「どんだけお人好しなの、岸くんって」
複雑な感情が胸の奥に渦巻くのを感じながら、那菜は映志にわざと憎まれ口をたたいた。
「自分のほうが苦労してるくせに」
「俺? そうでもないよ、俺は」
「強がり」
「強がってないって」
那菜は鼻であしらうと、油性ペンのキャップを引き抜き、段ボールに河童の絵を描き始めた。
強がりなのはどっちだよと、心の中だけでつぶやいた。




