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地下鉄を降り、改札口へ向かう階段を上る。第一志望校だった高校にかよい始めて以来、毎日変わらない景色を見ている。
前を歩くサラリーマン、あるいは同じ高校の生徒の足の動きをぼんやりと見つめ、自分も階段をゆっくりと上る。急ぎはしない。エスカレーターもあるけれど、長蛇の列に並んでまで乗りたいとは思わなかった。
ふと、顔を上げたい気持ちになった。改札の向こうに、会いたい人がいるせいだろうか。
視線を上げると、階段を踏み外すかもしれない。そんな不安がないわけではなかったけれど、今日の那菜は顔を上げて改札へ向かった。
高校生になって半年、駅構内の壁に貼られたポスターに意識的に目を向けたのははじめてだと思う。近隣の歯科医院は駅を出て北へ三○○メートルのところにあり、学習塾では生徒を募集しているらしい。エスカレーターでは歩かず立ち止まるようにと警告され、最近販売が開始されたという新築マンションは一つ隣の駅が最寄りだそうだ。
どれもこれも、モノクロで味気のないポスターだった。背景の写真やイラストに文字がのまれ、読みにくい。
階段を上りきり、改札を出る。屋外の空気は涼しさを帯び始め、いよいよ秋らしくなってきた。
視線の先で、映志が那菜に手を振った。
「おはよ」
包み込むように優しい声に迎えられる。那菜の顔に笑みが浮かび、恋人のもとへ軽く駆けた。
「おはよ」
「よかった、元気そうで」
いの一番に、映志は那菜を気づかった。昨日の放課後、うららや桜子との間に起きたことはまだ詳しく伝えていないけれど、うららと話をしたことだけは映志も知っている。彼に背中を押されたことがきっかけだった。
「うまくいったんだな」
歩き出しながら、映志はそう短く那菜に問う。那菜も短く「うん」とだけ答えた。
「ありがとう。映志のおかげ」
「ちゃんとわかってくれただろ、山崎さん」
「うん。うららも気づいてたんだって、わたしの目のこと」
「そうなんだ。まぁ、そうだろうな。俺より山崎さんのほうがずっと長い時間きみといたわけだから」
「ねぇ、映志はいつから気づいてた? わたしがヘンだってこと」
そうだな、と映志は少し考えてから答えた。
「きみがはじめてうちに来て、望美と絵を描いていた時かな。いや、その前にはもう気になってたかも。学祭の準備中に百円ショップへ行った時とか」
「あの時から?」
「うん。最初は目が悪いのかなって思ったんだけど、望美がコピックで色をつけ始めた時、きみは色を塗ろうとしなかった。そのあともペンの表面の文字をじっと読んでいたり、望美がアドバイスを求めても、色塗りのことに関しては表現が曖昧で、その時はじめておかしいなって思った。この子、ただ目が悪いだけじゃないのかも、って」
そんなもんか、と那菜は妙に納得してしまった。どれだけ偽っても、綻びは必ずどこかに現れる。そして、嘘はいつか明るみに出る。那菜の隠しごとはそれを象徴しているようだった。
結果として那菜のごまかしは、映志にもうららにも、桜子にさえ知られていた。
「ごめんね、文化祭の時は」
唐突に謝る那菜に、映志は小首をかしげる。
「なんのこと?」
「展示の外壁。映志、わたしの書いたオバケたちの色塗りをやってくれたでしょ。どう、って訊かれた時、わたし、困っちゃって」
「あぁ」
映志は笑う。あの時の映志の目には那菜の声の色が濁って見えていて、那菜が映志の塗った色の具合をよくないと思ったのではないかと映志は言っていた。
「そういうことか。きみには色が見えないから、俺の塗った色がどんな風だったのかわからなかったって話だろ」
「うん。よくわかってないのに褒めるのもおかしいし、失礼だと思ったから、中途半端な回答になっちゃった」
「言ってくれたらよかったのに、色わかんないって」
「だから」
当時はまだ、誰にも知られたくなかったのだ。今ではそれも無駄なあがきだったのだとわかる。
歩きながら、映志は那菜のことを見ている。いつになく嬉しそうに笑っていて、那菜としてはなんだか居心地が悪い。
「なに笑ってんの」
「いや」
映志の微笑みが深くなる。
「きみのオレンジが、前より澄んでいるように感じるのはどうしてなのかなって」
穏やかな風が二人の頬を撫でる。肩まで伸びた那菜の髪がふわりと揺れ、那菜はそれを指で耳に引っかけた。
「わたしの声の話?」
「うん」
「変わらないよ、なにも」
「いや、変わった。自分の気持ちに正直な人の声になった」
見ないと決めていたのに、つい映志の目を見てしまう。やっぱり映志は嬉しそうに微笑んでいる。
いつも真剣な眼差しをして、飾らない言葉を使う映志の立ち姿は堂々としている。自分を守るために息を殺して生きているくせに、誰かを守ることには全力になれる。那菜が幸せに生きられる道へ、懸命に導こうとしてくれる。
「……バカ」
そういうところに、いつから本気で惹かれるようになったのだろう。
困った時、弱っている時、真っ先に映志の顔が浮かぶようになった。映志なら問答無用で助けてくれると信じられた。
今度こそ本当に、わたしが映志のことを助けよう。映志はまだ、苦しみの中にいるままだから。
那菜が静かに決意する隣で、さっそく映志のスマートフォンに父親から着信が入った。ため息を漏らしながら電話に出る映志の歩くスピードが心なしかゆっくりになる。
彼の妹、望美になにかあったのか。那菜も一瞬そんな心配をしたけれど、映志の口ぶりからは焦りを感じず、なにか連絡事項があっただけのようで安心した。
通話を終えた映志の耳からスマートフォンが離れる。まだ彼の右手の中にあるそれを見つめる那菜の目が、その時、大きく見開かれた。
「映志」
「ん?」
那菜の足が止まる。驚いた顔のまま、ただ映志の手もとだけを見つめる。
モノクロの世界の中に、一点のオレンジを見つけた。
映志の握るスマートフォンのケース。その縁取りが、ぼんやりとオレンジ色に見える。
「那菜」
映志に声をかけられる。こたえたいけれど、声が出せない。
見えるはずのない色が目の前にある。もしかしたら、もう二度と見ることはないのかもしれないとあきらめていたことに気づかされた。
また、見えるようになった。最初の一歩を踏み出せた。
那菜の目に映る景色が、少しずつ、カラフルな世界に戻り始めた。
大好きな人の隣で。
「オレンジ」
「え?」
那菜は映志のスマートフォンを指さす。映志が自らの手の中を見る。
「それ、オレンジ?」
まるで小さな子どものように、那菜は見たままを言葉にする。映志も目を大きくし、「那菜」とつぶやいて笑った。
「そう。前まで黒いケースを使ってたんだけど、ずっと割れたままだったから替えたんだ」
映志はスマートフォンを嬉しそうに胸の前に掲げた。
「俺の好きな色」
オレンジ。二人をつないだ、あたたかくて優しい色。
映志の目に映る、那菜の色。
校門まで続く緩やかな坂の途中で、一時停止の赤い道路標識を見つける。季節の狭間の涼やかな風が揺らす桜の木が、まだ青々とした葉をつけたままであることを知る。
一つ一つ、大切なものを見落とさないように、那菜は周りの景色に目を向けて歩いた。隣には、はしゃぐ那菜に寄り添う映志の穏やかな笑顔。
那菜の世界が、映志の世界に近づいていく。
二人は今、誰よりもカラフルに生きている。
【モノクロとオレンジ/了】




