8.
放課後の部活動には、いつもうららとともに行く。うららが那菜を引き連れるように、「行こう」と声をかけてくれる。
けれど今日はそうならないかもしれないと思った。だから、那菜からうららに声をかける。
まとめた荷物は机に残し、身一つでうららの席に歩み寄る。まるで那菜がやってくるのを待っていたかのように、うららは椅子に腰かけたまま那菜を見上げた。
視線が重なる。うららの瞳にいつになく鋭い光が宿っている。
大丈夫。怖くない。自分自身に言い聞かせ、那菜は口火を切った。
「話したいことがあるんだけど」
うららは黙って席を立ち、ついてこいと言わんばかりに廊下へ出た。
終業後の三十分は人の出入りが激しい。掃除当番があちこちで掃除をしているし、部活動へ参加する者、帰宅する者、図書室や進路相談室で自習をする者と、それぞれ違う場所を目指す生徒たちが廊下で入り乱れている。
うららは二つの校舎をつなぐ渡り廊下へ出た。清掃活動はすでに終わっていて、細く開けられた窓の向こうから運動部員たちの明るい声が聞こえてくる。
一歩先を歩いていたうららが足を止め、那菜を振り返った。那菜も立ち止まり、再び二つの視線が交わる。
「なに」
うららがにらむように見つめてくる。けれど、もう覚悟は決まっている。
息を吸い、那菜は言った。
「わたし、色がわからないの」
一番知られたくなかったことを、はじめに告げた。
「桜子のミサンガを盗んだんじゃない。わたしも自分のミサンガをなくして、美術室の前の廊下に落ちていたものを自分のだと思って拾ったの。何色のミサンガなのか、わからなくて」
那菜のミサンガは緑の糸がベースで、桜子は青や水色の糸で編まれたものだ。似たような色ではあるけれど、色をはっきりと識別できる人なら絶対に間違えない、しっかり別の色のミサンガだとわかる編み方をされている。
それが那菜にはわからなかった。那菜に見えているモノクロの景色の中には、緑も青も存在しない。
「信じられないよね。適当な嘘でごまかしてるんでしょって言われても仕方ないって思ってる。でも、嘘じゃない。わたし、本当に色が見えないの」
映志の言葉を思い出す。うららは那菜の本音を待っている。
うららなら信じてくれるのではないかと思えた。自分の心にふたをしてきたことは事実だけれど、この半年でうららと築いてきた友情はそう簡単に崩れないと信じられる。
逃げたくない。うららならきっとわかってくれる。
ささやかな自信を胸に宿し、那菜はうららの大きくてはっきりとした目をまっすぐに見た。
うららも那菜から視線をそらさない。驚く様子もなく、二人で話をし始めた時から表情は少しも変わらない。
沈黙の時がしばらく続いた。やがてうららは、小さく息を吐き出した。
「いつ話してくれるのかなって、ずっと思ってたんだよね」
「え?」
「わかってたよ、那菜の目が良くないこと。確証はなかったけど、かなり無理してるってことには気づいてた」
あきれたような笑みを浮かべるうららの前で、那菜のほうが驚かされた。
うそ、と声が出そうになる。あれほど必死にごまかしてきたのに、よりによってうららにバレていたなんて。
「知ってたの」
声が震えた。うららは曖昧に笑い、肩をすくめる。
「まぁ、ほとんど毎日一緒にいるからね、あんたとは」
「いつから」
「さぁ、覚えてない。五月か、六月くらいかな」
そんなに前から。そう心の中だけでつぶやいたつもりが、うららはそれが漏れ聞こえたかのように微笑む。
「あんたが色わかんないせいで戸惑ってるのに気づいてはいたけど、あんたはなにも言わないでしょ。だから、あー、言いたくないんだろうな、って思ってさ。そういうことなら、それとなくフォローするのが優しさかな、って。あんたは気づいてなかったかもしれないけど」
「本当? フォローしてくれてたの?」
「うわ、マジで気づいてなかったんだ」
「……」
「鈍すぎ。でも、そういうとこ、那菜らしい」
いよいようららは声を立てて笑い始めた。驚いてばかりの那菜だったが、よくよく思い返してみると、色がわからなくて困った時にはいつもうららが助けてくれていたのだとわかる。
赤いものを取ってほしいと言われ、それがリッパーだとわからなかった時。みんなでおそろいの手鏡を買った時。それ以外にも思い当たる節がいくつもある。全色盲に苦しむ那菜の隣には、いつもうららが無言で寄り添ってくれていた。
「ねぇ、泣かないでよ」
うららのきれいな指先が、いつの間にか那菜の頬を伝っていた涙を拭う。彼女が傾けてくれる優しさが嬉しくて、那菜の顔がくしゃりと歪む。
「ごめん、うらら。ごめん」
「謝らなくていいって。色が見えなくても、那菜は那菜でしょ。どんな那菜だって、あたしは那菜の友達だから」
うららが抱きしめてくれる。かかえてきた苦しみが、静かに昇華されていくのを感じる。
「もっとあたしを頼ってよ、那菜」
那菜の背中をポンとたたき、うららは珍しく弱音を吐いた。
「あたしだって、那菜がいなくちゃダメなんだから」
それは那菜も知っている。那菜がうららを助けた数は両手両足の指を折っても全然足りない。
うららに抱かれた腕の中で、那菜は静かに首を振る。
そういうことじゃない。信じ合って、互いに背中を預け合える関係でいたい。うららはそう言ってくれたのだと思った。一方的なパワーバランスではダメなのだ。困った時、二人ともが互いを頼りたい相手だと思える存在。そうなりたい。
うららの言葉の一つ一つが胸にくる。ずっと欲しいと願い続けてきたものが目の前にある。肌に触れて、存在を直に感じられる。
話してよかった。映志の言ったとおりだ。
那菜がうららを信じるなら、うららも那菜を信じてくれる。友達の、親友の定義をはじめて実感できた気がした。
苦しかった。誰かに話してしまえば楽になれることはわかっていた。
けれど、周りと違う自分を認めることが怖かった。色が見えないなんて普通じゃない。普通の女子高生でいたかった。そうでなければ、また仲間はずれにされる。それが怖くて、踏み出すことができなかった。
でも本当は、心の奥ではわかっていた。
自分を信じ、恐れず突き進むことで、未来を切り開くことができる。理不尽な目に遭ったけれど、絶対に高校でやり直す。そう強く願い、全力を出し切ったからこそ、那菜は夏まではあと一歩学力が及ばなかった第一志望の高校に合格することができた。
同じことだったのだ。もっと早く、うららにだけでも話すべきだった。過去に怯えず、色の見えない自分を受け入れ、そして、うららを信じて話していれば、今日のもめごとはきっと起きずに済んでいた。
半年間、間違い続けてきたことが恥ずかしくてたまらない。映志に背中を押してもらえていなかったらと思うと恐ろしい。
周りの人たちの優しい心にどれだけ助けられてきただろう。恵まれていることが嬉しくて、また涙があふれてくる。
「いい加減泣き止め」
うららの右手が、再び那菜の頬を拭う。大小さまざまな感情がぐちゃぐちゃに混ざり合って、笑っているのか、泣いているのか、自分でもよくわからない。
「いつまでもここにいたって仕方ないでしょ。桜子のところに行かなくちゃ」
「桜子?」
「那菜だって気づいてるでしょ。あんた、桜子にハメられたんだよ」
やはり、そういうことと考えるより他にないようだ。
那菜がなくしたミサンガは、おそらく桜子が盗み出した。そして彼女は意図して那菜に自分のミサンガを拾わせ、那菜にドロボウの汚名を着せようとした。いつの間にか、那菜は桜子からひどく嫌われてしまったらしい。
桜子も薄々勘づいているようだ。那菜に色が見分けられないことを。それを利用し、彼女は那菜を陥れようとした。うららを連れて美術室の前に現れたことから察するに、目的は那菜をグループから排除することだったのだろう。
「あいつ、絶対に許さない」
那菜よりも、うららのほうがずっと怒っていた。廊下をきびきびと歩きながら、誰にともなく怒りの言葉をぶつける。
「なんでこんなことすんの。那菜がいったいあいつになにをしたって言うわけ」
「わたしのミサンガ、やっぱり桜子が持ってるのかな」
「そうに決まってる。取り返さなきゃ。で、あいつのヤツは没収して、あいつの目の前で燃やす」
「そこまでしなくても」
「やるよ。当たり前でしょ。あたしを怒らせたらどうなるか、絶対にわからせる」
「うらら、やりすぎはよくないって」
「どこがやりすぎなの。このままやられっぱなしでいいわけ?」
そういうところがやりすぎなんだよなぁ、と思い、けれど口はせず、那菜はうららにバレないように苦笑を漏らす。
なんだか大事になってきた。桜子はとうに部活へ行ってしまっただろうけれど、今のうららなら平気で呼び出して一発かますに違いない。ちなみに那菜たちも今日はダンス部の活動日だが、うららはそれどころではなさそうだ。
「はぁ。マジでむかつく」
うららはどうにも怒りを収められないでいるようだ。
「あたし、あのミサンガお気に入りだったのに。なんでこんなことに使われなくちゃいけないの」
那菜は思わずうららを見る。思い返せば、みんなでおそろいのミサンガを買おうと言い出したのはうららだった。
那菜がそっと微笑んだことに、うららは気づいていないようだ。
嬉しかった。那菜もうららと同じ、あのミサンガがお気に入りだ。
うららと那菜の、切れない友情の証。
息巻くうららの隣を歩きながら、那菜は自分の判断が間違っていなかったことを確信した。
やっぱり、うららと友達になれてよかった。
色覚異常が癒えたら、うららと生きる世界はこの目にどんな風に映るだろう。色が見えていた頃以上に、たくさんの色にあふれた世界だったらいい。
涙はとうに引いていた。
こんなにも前向きな気持ちになれたのは、すごく久しぶりだった。




