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モノクロとオレンジ  作者: 貴堂水樹
第三章 モノクロ

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7.

 ずっと、映志のことをうらやましいと思っていた。

 彼の目に映る世界は、常にたくさんの色で満ちている。それを彼はしんどい時もあると言っていたけれど、今の那菜に言わせればずいぶんと贅沢な悩みだ。


 中学三年生の秋、学校祭の終わった十月のことだった。

 ある日を境に、那菜の世界から色が消えた。

 見るものすべてがモノクロで、それまで楽しかったことが楽しいと思えなくなった。




「隠さなくてもよかったんじゃないか」


 映志は涙を止められない那菜の背をさすりながら、優しく言葉をかけ続ける。


「単純に、見間違えただけだったんだろ。落ちていたミサンガの色がわからなくて、きみは自分の落とし物だと思った。それだけのことだ。違う?」


 那菜は首を横に振る。ミサンガを自分のものだと誤認したことは事実だが、問題の本質はそこではない。

 無理やり涙を拭い、呼吸を整え、那菜は震える声で答えた。


「戻ると思ってたの、もっと早く」


 見栄を張っているわけではない。那菜の想定では、色覚異常は突如降って湧いたもので、もっと簡単に癒えるはずだった。こんなにも長く引きずっている理由がわからない。


「中三の頃、突然色がわからなくなったの。朝起きたら、世界が白黒だった」

「なにかきっかけがあったのか」


 映志に問われ、那菜は静かに目を伏せた。


「仲の良かった友達と、ケンカして」


 ただのケンカではなかった。那菜はただ、相手の押しつけてきた理不尽に対して自分の意思を曲げなかっただけだ。

 それなのに、どうしてこんな目に遭わなくてはならないのだろう。今でもまだ、あの日の自分の言動が間違っていたことを那菜は認められずにいる。


「定期テストの勉強を一緒にやろうに誘われたの。同じグループだったその友達に」


 誰かに話を聞いてもらえば、あるいはあの日の正解を知ることができるかもしれない。そんな思いもあり、那菜は訥々と語り出した。


「同じクラスの、同じグループの子だった。普段からその子がグループの中心で、その子の意見は絶対っていう空気があったの。だから、わたし以外のみんなは行くってその場で答えてた。でも、わたしは……」


 当時の那菜は漠然とした危機感に襲われていた。今かよっているこの高校の去年の文化祭を見学し、映志と出会った学校説明会に参加したことで、よりこの高校へ入りたいという気持ちが高まっていたこともあった。

 しかし、当時の那菜は受験に必要な学力がやや及ばない状況だった。合格を勝ち取るためには人一倍努力する必要があり、友達と一緒に勉強するよりも、家にこもって一人でがんばりたい気持ちが強かった。

 そもそも勉強会とは名ばかりで、みんなといるとつい遊んでしまうとわかっていた。行ってはいけないと本能が信号を発していた。


 ――ごめん。わたし、一人で勉強したいから。


 当時仲が良かった同じクラスのグループの中で、那菜だけが誘いを断った。他の何人かも無理をして参加すると返事をしていた様子が見て取れたので、那菜が断ることでその子たちも断りやすい空気になればいいなという思惑もあった。

 けれど、ふたを開ければ他の友人は誰一人誘いを断らなかった。結果として那菜だけが不参加となって、勉強会を提案し、グループの全員を誘った友人は、一瞬だけ那菜に真顔を向け、すぐに笑みを作って言った。


 ――そっか。がんばってね。


 それが、彼女と交わした最後の会話になった。

 翌日、いつもどおり登校すると、グループの全員が那菜を無視するようになっていた。


「その子がみんなに指示したんだって、すぐにわかった。わたしだけ勉強会に行かなかったから、グループをはずされたんだって」


 誰も那菜のもとに残ってくれなかった。誰も那菜の味方になってくれなかった。

 こんなことははじめてだった。一人の女子に周りのすべてを操られ、那菜はひとりぼっちにさせられた。

 たった一度、自分の意思を押し通しただけで。やりたいことを「やりたい」と言っただけで。


「なんだよそれ」


 映志は廊下に腰を下ろしてあぐらをかき、憤りを隠さない。


「たったそれだけのことで、どうして那菜を無視しようなんて話になるんだ。しかも、友達全員で結託して。タチが悪すぎる」

「その子、自分の思いどおりにならないと気が済まないタイプだったの。なんでもかんでも言い訳をして、結局自分の希望を通しちゃう」

「へぇ、まるで女王様だな。誰かさんの話を聞いているみたいだ」


 映志が誰の顔を思い浮かべたか、訊かずともわかってしまった。那菜が察したことに映志も気づき、今度はその名を口に出す。


「ようやく理解できたよ、きみが山崎さんにこだわる理由が。中学時代のいじめっ子と、彼女の影が重なったんだ」


 映志の言うとおりだった。高校に入学した当初、那菜はうららのことが怖かった。


「うららと同じ時間を過ごせば過ごすほど、あの子のことを思い出した。嫌な思い出がどうしても頭にちらついて、うららだけは怒らせちゃいけない、うららの言うことにだけは絶対に従わなくちゃいけない……そう思ってがんばってた時期があった。それは認めるよ。でも」


 那菜は静かに首を振り、今はもう違うのだと映志に告げた。


「うららはあの子とは違った。うららも自分の思いどおりにならないと拗ねちゃうタイプだけど、ちょっと意見が合わないだけでその相手を無視しようとか、いじめようとか、そんな風には考えない。次の日にはけろっとしてるし、その場では不機嫌にはなるけどうららが折れてくれることもあるの。姉御肌で頼りになるし、話していて楽しい。あの子とは、全然違う」


 うららと友達になれたことは、本当に運がよかったと思っている。最初こそつまずきそうになったけれど、うららと一緒ならきっと、長く続いていた真っ暗なトンネルから抜け出せる。そう思うことができた。


 しかし、それももう難しいかもしれない。

 うららと出会って半年が経った今でも、なくしたものは取り戻せないままだ。

 そして今日、うららは那菜のもとを離れた。

 中学時代のあの頃と同じように。

 那菜が色の識別能力を失った、あの日のように。


「中学時代の同級生だったその子はうららと違って、気に入らない子は誰彼かまわず排除しようとするタイプだった。わたしは知らなかったんだけど、中二の時にもその子と同じクラスだった子で、わたしと似たようないじめを受けて不登校になった子がいたんだって、あとになって別の友達から聞かされた。まさか自分が同じ目に遭うなんて、たった一言で友達全員を一気になくすなんて思わなかった。いつもどおりに学校へ行って、友達に『おはよう』って言っても、誰ひとり返してくれない。話しかけても無視される。それで……」


 声が震えるのが自分でもわかった。その日の午後、那菜を無視するよう友達全員に通達したリーダー格の女子から、決定的な嫌がらせを受けた。


「その日、たまたま美術の授業があって。映志もやったでしょ、遠近法を使ったデザイン画」

「あぁ、やったな」

「その絵を完成させることになっていた日だったの。わたしもほとんど完成してて、あとは仕上げの色塗りだけだった。その絵に……」


 例の女子が、筆を洗うバケツを水道に運ぼうとしていた。自分の席からまっすぐ水道へ向かえばいいものを、なぜか彼女は遠回りをして、那菜の座っていた席の脇を通った。

 通りがかりに、彼女はつまずいたフリをして、那菜の絵の上にバケツの水をぶちまけた。

 完成間近だった那菜の絵は、不自然に色がにじんでぐちゃぐちゃになった。


 ――ごめーん、こぼしちゃったー。


 彼女は那菜の目も見ず、美術教師が慌てて駆けつけてかました説教にもまるで動じず、こぼした水も床を塗らした分だけ拭き取り、昨日まで那菜と仲よくしていた友達が横目で笑う姿に自分も笑って、那菜の席から遠ざかっていった。


 この事件のあとの記憶は断片的で、水浸しになったデザイン画がどうなったのか、どうやって家まで帰ったのか、夕飯は食べられたのか、思い出せることがほとんどない。

 わかっているのは、この日の翌日の朝のことだ。

 ベッドの上で目覚めると、世界から色が消えていた。


「お医者さんには、過度なストレスのせいで一時的に色覚異常が出たんだろうって言われた。ストレスの原因を取り除けば、時間の経過とともに見えるようになっていくからって。だけど……」


 当時の那菜にのしかかっていたストレスは、那菜本人や、那菜の家族が思っているよりもずっと重かった。友達をなくしたことに加え、色までわからなくなり、控えていた定期テストは散々な結果だった。

 それもあって、最後の科目のテストが返却された日の夕方、交通事故に遭った。高齢者の運転する軽トラックと交差点で接触してしまったのだが、那菜が不注意で信号を見間違えたことによる、完全に那菜に非のある事故だった。

幸いにしてたいした怪我もせず済んだものの、色が見分けられないことは言い訳にならない、あまりにも情けなくて言葉も出ないできごとだった。こんなことで命を落としたら、後悔してもしきれないだろうと思った。運転手の男性に、那菜は何度も謝罪した。


「いつまで経っても、色は見えるようにならなかった。事故にまで遭った。悔しかった。でも、このままじゃ絶対にダメだって思えた」


 この悲惨な経験が、本来の那菜が持つ意思の強さを発揮させた。


「負けっぱなしで終わるのだけは嫌だった。絶対にこの高校に入って、やり直す。高校でできた友達とうまくやっていけたら、きっとまた色が見えるようになる。そう信じて、死に物狂いで勉強した」


 休み時間も放課後も、もちろん自宅でも。両親に心配されるくらい長い時間、当時の那菜は机に向かった。おかげで第一志望の高校に合格でき、今に至る。

 それでも那菜はまだ、色のわからないモノクロの世界で生きている。


「どうしてなんだろう」


 那菜の瞳に、再び涙の粒が浮かぶ。


「なんで見えるようにならないんだろう。わたし、毎日楽しく過ごせてるのに。うららたちともうまくやってきたはずなのに」


 色を失ったきっかけは、友人関係のもつれだった。はじめて仲間はずれにされ、はじめてあからさまな嫌がらせを受けたことによる強度のストレスが原因だ。

 今の那菜にとって、それはすでに過去の話だ。高校に入学し、うららやみなみといった親しい友達、心強い仲間を得た。

 友人関係さえうまくいけば、失った色を取り戻せると思っていた。そのために多少の犠牲も払ってきた。

 全然痛くない、目的のために必要な犠牲だった。自分の意思より、相手の意思を尊重する。ただそれだけのことができなくて、中学時代は失敗した。

 だから今度は、自分の意思によって輪が乱れないように気をつけた。自分の意思は外へ出さず、相手の気持ちを最大限くみ取り、手を貸せるならとことん貸した。みんなが穏やかな心でいられるように努力した。


 うまくいっていた。うららたちと過ごす毎日は笑顔にあふれ、明るかった。

 なのに、どうして。

 どうして今でもまだ、失った色を取り戻せないままなのだろう。


「本当にそうかな」


 うつむく那菜の隣で、映志がそっと声を上げた。


「さっきの山崎さんの言葉がすべてを物語ってると俺は思うけど」


 那菜は顔を上げ、映志を見る。映志の真剣な眼差しが注がれる。


「うららの……?」

「覚えてる? 彼女がなんて言ってきみのもとを離れていったか」


 覚えている。――本当のことを言って、那菜。


「そういうことなんじゃないのかな」


 ハッとした那菜に、映志は穏やかな声で語った。


「きみはただ、怯えていただけなんだと思う。友人関係で一度失敗しているから、今度は失敗しないように、と思った気持ちはわかる。だけど、そのためにきみがしたことは、自分の心にふたをして、相手にとって都合のいい友達を演じることだった。さっきの山崎さんの言葉がそれをよく表しているだろ。きみは山崎さんに、なに一つ本当のことを言っていない」


 映志の言葉の一つ一つが胸に刺さる。間違いを認めることは難しいけれど、間違っていたことはなんとなくわかる。

 本当のことを話してほしい。友達なら、隠しごとはしないでほしい。

 うららはそう思っているということか。そして、そんなうららの気持ちに那菜は少しも気づけなかった。


 だから今でも色がわからないままなのか。

 居場所を失うことが怖くて、自分の心を隠しているから。相手にばかり合わせているから。


 だとしたら、映志の指摘がすべて正しいとしたら、全部那菜自身の問題だったということになる。

 過去に怯えていたせいで、なにもかもうまくいかなかった――。


「ちゃんと話しなよ、山崎さんに」


 映志が言葉で那菜の背中を強く押す。


「きみが言ったことじゃないか、山崎さんは中学時代のいじめっ子とは違うって。それが本当なら、彼女はちゃんときみの話を聞いてくれるはずだろ」


 そうかもしれない。うららなら、一緒に背負ってくれるかもしれない。

 那菜の心にのしかかる重荷を。負担が少しでも軽くなれば、前に進めるかもしれない。


 映志が那菜の頭を撫でる。自分からそうしておいて、映志は照れたようにはにかんだ。


「俺は彼女のことをあまりよく知らないけど、きみが彼女を信じるなら、彼女はきっときみの味方になってくれる。友達らしい友達のいない俺が言うのもヘンだけど、友達ってそういうものなんじゃないの」


 映志の言葉の一つ一つに説得力を感じた。不思議だ。映志が言うと、雲みたいにふわふわした不確定な事柄もしっかりと輪郭をとらえられる。

 那菜が映志をうらやましいと思っていたのと同じように、映志も那菜をうらやましいと思っていたに違いない。映志には作ることが難しい『親友』を、那菜は自分の気持ち次第で作ることができるのだから。


 映志が望んでも手に入れることが困難なものが、那菜の手の届くところにはある。それを那菜が取りこぼすことを映志は決して許さない。

 互いに心を許せる友達が一人いるだけで、世界は変わる。

 そう映志に言ったのは那菜だ。


「ありがとう」


 改めて顔を上げ、那菜は映志に告げた。


「わたし、うららに話す。色がわからないことも、ミサンガのことも」

「うん、それがいい」

「笑われないかな」

「笑わないだろ。俺は笑った?」

「笑ってない」

「なら、山崎さんも同じだよ」


 映志が那菜の手を握る。伝わる熱が、勇気を与えてくれるようだった。

 立ち上がり、制服についたホコリを払って、二人は教室へと戻っていく。隣に映志がいてくれる、ただそれだけで心強い。


 去年映志と出会えていなかったら今ごろどうなっていただろう。深い闇はどこまでも続き、出口の光を掴めないまま高校生活を終えていたかもしれない。

 教室まで、まっすぐ歩くことができた。肌に残暑の風を感じ、冷えていたからだがもとの体温を取り戻す。


 話をしているうちに、胸に渦巻く不安が消えていることに気がついた。昼休みはまもなく終わってしまう。放課後、うららと話そう。そう決めて、那菜は映志とともにわずかな時間で弁当をかき込んだ。

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