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モノクロとオレンジ  作者: 貴堂水樹
第三章 モノクロ

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6.

 来週から前期課程の定期試験期間に入るため、今週はどの科目もテスト前最後の授業になる予定だった。

 一方で、体育や芸術といった技術系の科目はすでに試験に関する座学を終えており、これまでどおり実技の授業をする科目が多かった。

 芸術の科目は音楽、美術、書道の中から選択でき、高校入学時に提出した希望票から学校側が人数などを考慮して決定する。結果、那菜は美術の授業を選択することになった。


 美術以外に選べる科目がなかった。音楽は小学校に上がる前に少しだけピアノ教室にかよっていたけれど、バイエルという作曲家が作成した初心者向けのピアノ入門書を教本に指の使い方を一通り覚えた程度で辞めてしまった。書道も小学生の頃に二年ほど近所の習字教室にかよっていただけで、まったくと言っていいほど自信がない。

 一方で、絵は誰に習うこともなく上手に描けた。描けば描くほどうまくなれたし、褒められた。小学校にかよった六年間はずっと絵が描きたくて仕方がない時期だった。


 それが今では、こんなにも絵を描くことがしんどい。楽しいのに、うまく描けない。中学時代に見た悪夢が時折脳裏をよぎり、手が止まる。

 思いどおりにならないことがストレスで、握っている絵筆を力ずくでへし折ってやりたい衝動に駆られることもあった。それでも絵を描くことをあきらめられないのは、絵が好きという気持ちの火種が心の奥でくすぶり続けているせいだ。那菜自身の意思で、その火に水をかけて消してしまうことを避けていた。


「色塗りは苦手?」


 油絵の具をペタペタとキャンバスに塗りたくっていると、背後から美術教師に声をかけられた。グレーの髪に大きな瞳が特徴的な、まもなく定年退職を迎えるベテランの男性教師だ。


「デッサンはすごくいいのに、色を載せるとなーんかぼやけるね」


 先生は那菜のパレットに青い絵の具を出し、那菜の手からそっと筆を奪った。今那菜たちが取り組んでいる課題は自画像で、夏休み前にデッサンを終えたものに今は油絵の具で色を付ける段階だった。

 先生は青い色を筆に取り、那菜の自画像の頬骨あたりを塗り始める。どことなくのっぺりとしていた顔に陰影がつき、凹凸がよりリアルに感じられるようになった。


「油絵は色を重ねるほど味が出る。もっと大胆な色づかいをしてごらん。今よりずっといい絵になるから」


 短いアドバイスを那菜に贈ると、先生は次の生徒のもとへ行ってしまった。先が青く染まった筆を手渡されたまま握った那菜は、先生が少しだけ手直ししてくれた自画像に目を向ける。

 色を重ねる、か。心の中でそうつぶやいて、先生の手直しの続きを描いてみる。

 パレット上で混ぜ合わせて作った色を任意の場所へ塗っていく水彩画とは違い、油絵は色を混ぜず、暗い色から明るい色へと順に塗り重ねていく技法で絵を完成させる。まず下地を塗り、その上に別の色を重ねて塗り、さらにその上から明るさや光を与えていく。


 青い色で顔の陰影を作り出しながら、このままいろんな色を重ね続けたらどうなるのだろうと思った。

 赤、青、黄を混ぜると黒になるという。油絵でも、やがて黒にたどり着くことになるのだろうか。

 知識もなく、技術もない。そんな人が塗り重ねて描いた絵はいったい何色になるのだろう。

 ぼんやりとそんなことを考えながら色をつけているうちに、気づけば青を塗りすぎて、どうにも顔色の悪い絵になってしまった。




 絵の具や画材を片づけ、授業の終わりとともに友人たちと教室へ戻る。次の四時限目を終えるとようやく昼休みだ。今日は映志とランチの約束をしている日だった。

 日本史を担当する教師が教室に入り、授業が始まる。指定された教科書のページとノートを開き、ペンケースに手を伸ばした。


「あれ……」


 思わず声が出た。

 みんなとお揃いで買い、最近腕からペンケースへつけ替えたミサンガが見当たらない。つけていたはずの場所にない。

 慌てて自分の席の周りを見回す。椅子の下には落ちていない。いつも登校に使っているリュックの中も、机の中も見たが、ない。


 まずい。どうしよう。頭の中がそんな言葉でいっぱいになる。胸の鼓動が一瞬のうちに速まり、体温が上がって汗が噴き出る。

 教師が話す言葉は一言も耳に入ってこなかった。消えたミサンガのことだけを真剣に考える。


 いつからなかったのだろう。定かではないが、三時限目の美術の授業の時にはあった気がした。

 美術室に落としたのだろうか。いや、あの授業ではペンケースを持っていっただけで触っていない。

 しかし、ミサンガだ。自然に糸が切れ、気づかないうちに落とした可能性は十分にある。

 ラッキーなことに、この授業が終わると昼休みに入る。一時間あれば、美術室を往復したルートも含めて念入りに探すことができるはずだ。


 那菜のついた大きな息が、教師一人が淡々としゃべる教室内に溶けていく。

 見つかるだろうか。そもそも、なにがどうなって落としてしまったのか。すぐにでも切れそうな状態ではなかったはずなのに。

 机に左肘をつき、つい頭をかかえてしまう。

 あれだけは、あのミサンガだけは、絶対になくしてはいけなかった。

 那菜にとって、あのミサンガは希望だった。

 中学時代の嫌な思い出を塗り替え、一歩前へ進むための確かな光。


 またため息がこぼれ落ちる。

 最悪だ。取り戻したいものが二つに増えてしまった。




 授業が終わると同時に、那菜は息を殺して教室を出た。誰にも知られないうちに事を片づけたかった。


「那菜」


 廊下に出てすぐ、背後から声をかけられた。映志だった。


「どこ行くの」


 振り返った那菜の顔つきを見て、映志は事の重大さを悟ったようだ。


「なにかあった?」


 答えられなかった。映志にさえミサンガのことは知られたくないし、一方で、嘘をついても映志にはすぐにバレてしまう。

 とにかく、一人で探したかった。振り切る理由には少し弱いが、那菜は答えた。


「美術室に忘れ物をしたみたい。見に行ってくるから、教室で待ってて」

「那菜」


 呼び止められたが、応じなかった。那菜は廊下を走り出し、隣の校舎の四階へと急ぐ。

 映志はともかく、うららたちには絶対に知られたくなかった。

 たかがミサンガかもしれない。でも、那菜にとってはそう簡単に切り捨てられるものではないのだ。


 ようやく取り戻した居場所だった。もう二度と、あんな思いはしたくない。

 たった一日で、いや、ほんの一瞬で、世界はたやすくひっくり返る。

 昨日まであんなに好きだった景色を、今日も好きでいられるとは限らない。


 美術室のある四階の廊下にたどり着いた頃にはすっかり息が上がっていた。整えることもせず、まっすぐ美術室の前まで進む。

 思わず「あっ」と声が出た。誰かに蹴り飛ばされたのか、ミサンガが廊下の壁に押しつけられるように落ちていた。


「あった……!」


 駆け寄り、しゃがみ込み、そっと拾う。「よかった」とつぶやいて、那菜はミサンガを握りしめた。


「那菜」


 背後から映志の声がした。結局那菜のあとを追ってきたらしい。

 振り返り、那菜はゆっくりと立ち上がった。


「映志」

「どうしたんだよ、そのミサンガ」

「うん、美術の授業でここへ来た時に落としちゃったみたいで」

「誰が?」

「え?」


 映志の言葉がどのような意味で放たれたのか、とっさに理解できなかった。


「誰が、って……?」

「そのミサンガは誰のものなのかって聞いてるんだ。そいつに頼まれて探しに来たんだろ?」


 背筋の凍りつく感覚が那菜を襲った。おそるおそる、手の中のミサンガに目を落とす。


 嘘だと思いたかった。嘘でなければいけない。

 今この場所で拾ったこのミサンガは、那菜の落とし物ではなかった。


 そのことに那菜は、映志に指摘されるまで気づかなかった。

 気づけなかった。今の自分の力では。


「そうか」


 映志が悟ったような声でつぶやいた。


「きみ、やっぱり……」

「ちょっと、那菜」


 二人の立つ場所から少し離れたところから、桜子が那菜の名を呼ぶ声がした。


 那菜と映志が顔を向けると、そこにはうららの姿もあった。桜子がにらむような目をして那菜に言う。


「なんであんたが私のミサンガ持ってるの」


 ミサンガを握る那菜の右手に力が入る。残暑の熱がこもる廊下で、那菜の頬に嫌な汗が伝った。

 ようやく悟る。那菜の拾ったミサンガの持ち主は桜子だった。


 ミサンガの色は緑ではない。青だ。


「あの……」


 言葉が出てこない。なにを言っても裏目に出る気がした。

 それでも、黙っているわけにはいかない。黙っていれば、相手の思いどおりに事が進んでしまう。


「ミサンガをなくして……ここかもしれないと思って探しに来たら、桜子のが落ちてて」

「は? あんたもなくしたの、ミサンガ」


 いつもより低い桜子の声が鋭さを増す。


「私もなんだけど。そんなことあり得る? 二人同時にミサンガをなくすなんて」


 そのとおりだ。百に一つ、千に一つの確率だろう。桜子の言うことが本当なら、言い訳をしているのは那菜のほう、ということになってしまう。

 桜子が一歩那菜に歩み寄った。


「まさかとは思うけど、それ、盗んだんじゃないよね?」

「違う! わたしは、ただ……」

「正直に言ってくれたら許す。なんでこんなことしたの」

「ちょっと待てよ、小田中さん」


 那菜が答えるよりも先に、映志が仲裁に入った。


「嘘をついているのはきみのほうだろ」

「は?」


 桜子はいよいよ映志をにらみつけた。


「なんであんたにそんなこと言われなくちゃいけないの」

「見えるから、俺には。きみが嘘を言っているって」


 見える。映志の目には今、桜子の声の色が濁って見えている。

 映志のその一言で、那菜は事のすべてを悟った。


 はめられたのだ。桜子に。

 どうしてそんなことをしようと思ったのかはわからない。だが桜子は、那菜をドロボウに仕立て上げようとした。


「意味わかんない」


 桜子は納得いかない様子を隠すことなく言う。


「人のもの盗んどいて、彼氏にかばってもらうわけ」

「那菜はなにも盗んでいない」


 映志も退くつもりはないようだ。


「嘘だってついていない。きみのミサンガを拾ったのも、那菜は……」

「やめて」


 那菜が声を絞り出した。三人全員の視線が那菜一人に注がれる。


「お願い、映志。もうやめて」

「那菜」


 足に力が入らなくなり、那菜はその場にへたり込んだ。

 顔を上げられない。瞳は潤み、やがて一粒の涙がこぼれ落ちた。


 もうダメだ。隠し通せない。

 知られたくなかったのに。いつかもとに戻ると信じていたのに。


 うなだれる那菜の前に、一つの影が歩み寄った。足もとだけを見て、それがうららであることを悟り、顔を上げる。

 うららににらみ下ろされる。息をのんだ那菜に、うららは言った。


「本当のことを言って、那菜」


 たった一言、うららの言葉はそれだけだった。那菜が答えるまで、他になにを言うつもりもないようだ。

 那菜は再びうつむいた。


 言えない。自分の口からは、どうしても言いたくない。


 状況は理解できている。このまま弁解せず黙っていてはドロボウ認定されてしまう。映志は桜子が嘘をついているとはっきり言ってくれたけれど、それを証明する手段はないし、那菜が嘘をついていないことの証明もできない。

 八方塞がりだった。絶対に言いたくないのに、言わなければこれまでの努力が水の泡と化してしまう。


 どうしてこんなことに。

 みんなで買ったミサンガは、友情の証だったはずなのに。


「言えないんだ」


 うららが冷めた声で言い、那菜の手から桜子のミサンガを奪った。


「言えないってことは、そういうことなんだね」


 那菜が桜子のミサンガを盗み、どこかへ隠そうとしていたところを見つかったため、とっさになくしたと嘘をついた。うららはそう結論づけようとしている。

 那菜はなお黙っている。うららのため息が頭の上に降ってきた。


「行こ、桜子」

「うん」


 二人が那菜の前を離れていく。手の中にはなに一つ残っていない。ミサンガも、これまで懸命に築き上げてきた時間も。

 涙が止まらない。悔しくてたまらなかった。

 また失敗した。中学時代の汚点に足を取られた。

 最悪だ。本当に最悪。

 高校でも、ひとりぼっちになってしまった。


「ようやくわかったよ、きみが必死になって取り戻そうとしているものが」


 うららと桜子が立ち去った廊下で、映志が那菜の隣にそっと片膝をついた。


「きみ、色が見分けられないんだろ。それこそが、きみの取り戻したいものだ」

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