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モノクロとオレンジ  作者: 貴堂水樹
第三章 モノクロ

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5.

 武道場に染みついた剣道の防具が放つ独特のにおいは、秋になると夏ほど香らなくなってくる。空気中の湿度が高いとにおいを感じやすくなるらしく、土曜の今日、武道場がいつもよりもにおわないということは、ようやく秋が訪れたと思っていいようだった。


 那菜は土日の部活が好きだった。休日におこなわれるダンス部の練習では放課後より長く時間が取れることもあり、踊りの練習にたっぷり時間を割くことができる。

 入部から半年、踊ることは好きになれたけれど、基礎練習がいつまで経っても苦痛で仕方がなかった。慣れないからだの動きに入部当初は何日も筋肉痛を引きずったり、先輩や先生からの厳しい指導が入り、心が折れそうになったりした。

 しかし不思議と、部を辞めたいと思ったことは一度もなかった。ダンス初心者の那菜にとって、部活のことでヘコまない日はない。けれど、落ち込む那菜に優しく声をかけてくれる仲間が今の那菜の周りにはたくさんいた。

 うららもそう。みなみも、他のダンス部の一年生もみんなそうだ。先輩も、指導に熱が入ることはあっても基本的には後輩に優しい人たちばかりだ。

 自分でもびっくりするほど恵まれた環境だと思っていた。ようやく見つけた居場所を失うのは嫌だった。

 練習は厳しいけれど、それでも那菜はダンス部に居心地の良さを感じていた。このままつまずくことなく、卒業の日まで笑って過ごしたい。そう願ってやまない毎日だった。


「でも、なんで岸だったわけ?」


 体育館の建物がつくる陰の中で涼みながら、うららが唐突に那菜に尋ねた。男子ハンドボール部でマネージャーをしている桜子が部活を終えて合流するのを待っているところで、ハンド部も今日は午前中に練習があり、午後から三人でランチをして、うららと桜子が買った手鏡を那菜も買いに行く予定になっていた。


「なんで、って」


 那菜は頬に熱を感じながらこたえる。うららは「きっかけが知りたい」と言った。


「いつだっけ、那菜が岸の話をし始めたのって。体育祭の時だった?」

「うん。それまでは全然意識してなかった」

「だよね。聞いたことなかったもん、那菜が岸のこと気になってるなんて」

「映志に聞いたんだけど、わたしたち、去年うちの高校で会ってたの。学校説明会の会場で」

「うそ! それってすごくない?」

「ね。わたしはまったく覚えてなかったんだけど、映志はわたしのことを覚えててくれて」

「ははぁん、なるほどね」


 うららは謎が解けた探偵が見せるような勝ち誇った顔をした。


「岸のほうが那菜を想い続けてたってわけか、中学生の頃から。で、体育祭のどさくさに紛れて、思い切って那菜に声をかけた」

「まぁ……たぶん、そういうことかな」


 本当は違う。彼とのはじめての会話は、うららが期待するような甘い内容ではなかった。

 あの日のことをうららは知らないほうがいい。そもそもあれは映志の思い過ごしだったのだ。

 何度でも言う。胸を張って言える。那菜はうららを嫌っていない。それが真実だ。


「でも、岸が那菜に惚れるのは納得なんだよね」


 うららが心のこもった声で言った。


「那菜、優しいもん。気が利くところもあるし、あたしが男でも惚れる」

「そうかな」

「そうだよ」

「うららだって、明るいし、美人だし、選ばなければ簡単に彼氏できそうだけどな」

「あたし? あたしは全然ダメ。ほら、気が強いからさ。引かれちゃって」


 うららは自分で自分を笑い飛ばした。自分のことをよくわかっているところはえらいなと思う反面、「そうかなぁ」と那菜は素直な疑問を呈す。


「うららみたいな勝ち気な女の子に引っ張ってもらいたい男子、けっこう多いと思うけど」

「草食系の?」

「そうとは限らないけど、清楚系の女子ばかりがモテるんだとしたら、わたしだって彼氏なんかできないよ」

「そうだよねぇ。那菜だって根っからの清楚系ではないもんね」


 そうそう、とうなずきつつ、少しだけ心に傷を負う。うららの言うとおり、那菜も可憐で儚い清楚系女子とはほど遠い見た目と性格をしているが、真正面から指摘された時のダメージはゼロではない。


「じゃあやっぱり、素敵な出会いは偶然に身をまかせて待つしかないってことか。あーあ。あたしも彼氏欲しいなぁ」


 うららがぼやきながら天を仰ぐ。今日の青空は高く、うっすらと泳ぐうろこ雲がいよいよ本格的に秋の訪れを感じさせた。

 那菜が映志と付き合い始めてから、うららはしきりに彼氏が欲しいと言うようになった。これまでも恋愛の話は幾度となくしたけれど、昔の彼氏がどうとか、憧れの先輩やカッコいい同級生の話をするばかりで、少なくともうららは具体的に彼氏が欲しいとはあまり口にしていなかった。

 こういう時、彼氏がいるほうの身としてはどう対応するのが一番いいのだろうか。那菜は困ったような笑みを浮かべるだけで精いっぱいで、うららに声をかけることはできなかった。


「ごめーん、お待たせ!」


 五分ほど経った頃、部活を終えた桜子がようやく二人の前に現れた。土日でも高校に来る時には制服を着用しなければならないと校則で定められており、三人とも今日はそのまま制服で遊びに出かける。

 学校の近くにあるハンバーガーショップで食事を済ませ、電車に乗って買い物のできる場所まで移動する。那菜たちが主に買い物を楽しむショッピングモールは、高校の最寄り駅から十五分と気軽に遊びに行ける距離にあった。

 乗った電車が走り出すと、桜子がうららに話しかけた。


「そういえば、昨日話したあのことだけどさ」

「あぁ、あれね。どうなったの、その後」

「それが……」


 那菜の知らない話題でうららと桜子は盛り上がっていた。昨日話した、と桜子が口にしたところから察するに、那菜が映志と昼休みを過ごしていた間に交わされた会話の続きということなのだろう。

 二人とも声をひそめているわけではないので、那菜もわからないなりになんとなく聞いていた。どうやら桜子の周りで恋愛がらみのおもしろいできごとがあったようだ。


 桜子のマシンガントークに、口を挟む余裕がない。桜子もうららも、まるで那菜なんていないかのように話に花を咲かせている。

 映志との仲を深めている間に友達は別の世界へと足を進め、那菜だけが取り残されたようだった。ほんの数十分離れただけで、元いた世界から後れを取る。そこにあったはずの居場所を見失う。

 この感情には覚えがあった。一人で立つ岸辺から波がすぅっと引いていき、永遠に戻ってこないことを知ってしまったような、寒々しい感覚。からだが芯から冷えていく。


 だけど、大丈夫――。那菜はスカートのポケットに手を入れる。すっぽりと納まっているスマートフォンを握りしめると、途端に勇気が湧いてきた。

 映志がいる。今はもう、一人じゃない。

 そうとわかるだけで、前に進む力を取り戻せる。


「ねぇ、どう思う、那菜」


 うららが不意に那菜に話を振ってきた。「えっ」と出した那菜の声が半分裏返る。


「なにが?」

「今の話。どう考えても桜子が悪いよね?」

「あぁ、えっと……」


 まさか話を振られるとは思わず、聞いてはいたものの深く考えてはいなかった。ごまかすことをあきらめ、那菜は素直に謝った。


「ごめん。話、よくわかんなかったから」

「あ、そっか。那菜は昨日いなかったんだ、昼休み。ごめん、那菜もわかってるものだと思って話してた」


 わざと強調するようにそう言われたのか、純粋に忘れていただけなのかは定かではない。しかしうららは桜子の話を要約してくれて、やっと那菜も話題についていけるようになった。こんな些細なことで怯えるなんて馬鹿らしいと思うけれど、今はまだ、自分ではどうすることもできない。


 おしゃべりをしているうちに目的の駅に着き、電車を降りる。三人の目指す雑貨屋はショッピングモールの三階にあり、安価で女心をくすぐるかわいいデザインの商品が全世代の女性から人気のショップだった。


「これこれ」


 うららが指さした先の陳列棚に、丸形のコンパクトミラーが並んでいた。手のひらサイズで、モチーフに採用されているネコの大きな瞳がかわいらしい。


「かわいいね」


 那菜は一つ手に取ってみた。裏側に表示された値段は高すぎず安すぎず、おこづかいの範囲で十分手が出る。うららたちが一目惚れして買ったのも納得だった。


「那菜はどれにする?」


 桜子が嬉しそうに尋ねてくる。那菜は桜子からもう一度手鏡の陳列棚へと視線を戻した。

 モチーフのネコの表情はどれも同じで、違っているのはネコの背景に描かれている模様だった。花、星、シャボン玉のような丸いデザインなど、それぞれ少しずつ個体差がある。


「うーん……」


 那菜は背景の模様が花柄になっているものを一つ手に取る。


「じゃあ、これ」

「えぇ、うららとオソロにするってこと?」


 桜子の指摘で、うららの買ったものとまったく同じデザインを選んだことに気づく。とぼけたわけではなく、純粋にうららの持っていたもののデザインを忘れていただけだ。


「ごめん。うららの、これだっけ?」

「うん。あたし、赤がよかったから。別にオソロでもいいんだけど」

「えぇ、マジでオソロにするの? 那菜とうらら」


 桜子が恨めしい気持ちを声にも顔にも隠さず出す。


「そしたら私だけ違うのになるじゃん」

「そっか。じゃあわたしは……」

「那菜は緑のにしなよ」


 桜子が顎で陳列棚をさす。


「色違いならまだ許せる」

「あぁ、うん。そうだね」


 那菜が改めて陳列棚を見つめると、うららが那菜よりも早く緑の手鏡を取り、那菜に差し出した。


「じゃあ、那菜はこれね。これなら文句ないでしょ、桜子」


 圧をかけるようにうららが言い、桜子は納得したようにうなずいた。

 緑は那菜の推しているボーイズアイドルのメンバーカラーだ。こうして推しメンの色の持ち物が増えていくことを、実のところ那菜はあまり気に入っていなかった。推しメンは好きだけれど、緑という色がどうにも好きになれなかった。

 本当は、うららが買った赤のような暖色系のものがよかった。できれば、オレンジ色のグッズを増やしたかった。

 映志に指摘された、那菜の声の色。映志には恥ずかしいから言っていないけれど、那菜は幼い頃からオレンジが好きだった。

 うららから受け取った手鏡を見つめながら、無意識のうちに映志のことを考えていた。いつからだろう。こんな風に、ふとした拍子に映志の顔が頭に浮かぶようになったのは。

 うららや桜子たちとともにレジへ向かう。聞けば桜子も推しメンのカラーを意識して水色の鏡を選んだというので、それなら那菜は緑を選ぶしかない。不本意ではあるものの、モチーフのネコがかわいいからまだ許せた。


 エスカレーターで一つ下の階に下りる。一列に並んだ三人のうち、那菜は一番後ろにいた。

 前を行く二人がなにかを話している。モール内に流れるガイダンスのおかげでよく聞こえない。

 なにげなくスマートフォンを手にすると、映志からメッセージが届いていた。


〈望美がまた那菜に絵を描きに来てほしいって言ってるんだけど、暇な日ある?〉


 無意識に笑みがこぼれ落ちる。ちょうど映志に会いたいと思っていたところだ。

 返事を打ち込みながらエスカレーターを降りると、桜子が悪い笑みを那菜に向けた。


「なにニヤニヤしてんの、那菜」

「えっ」


 ニヤついていたつもりはなく、那菜は思わず頬に手をやる。桜子は冷ややかな目をして那菜に言った。


「どうせ岸くんからでしょ」

「うん……まぁ、そう」

「いいなぁ。自慢?」

「全然! ごめん、あとにするね、返事送るの」


 返事を書きかけた画面のまま消灯し、スマートフォンをスカートのポケットに突っ込む。理由もなくうららの顔色を窺うと、やけに真剣な顔をしたうららと目が合った。


「ねぇ、那菜」

「うん」

「岸はさ……」


 そこまで言って、うららは静かに口を閉ざす。那菜が先を促すように小首を傾げると、うららは表情を和らげた。


「ごめん、やっぱりなんでもない。行こ」


 那菜が言葉を返すのを待たず、うららは先陣を切って歩き出した。桜子がすぐあとに続き、那菜は二つの背中を少し後ろからそっと見つめる。


 うららはなにを言いかけたのだろう。

 そのことばかりが頭を支配する。岸は――。映志のことでなにか気になることでもあるのか、それとも。

 それとも。


「那菜」


 うららが振り返って那菜を呼ぶ。立ち止まったままで思考に耽り、前の二人とすっかり距離が開いてしまった。

 那菜はうららたちに駆け寄り、「ごめん」と言った。二人は那菜に笑いかけ、再びモール内を歩き出した。

 なにごともなかったかのように、休日のショッピングは続く。

 その日は最後まで、うららが映志の話題を出すことはなかった。

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