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モノクロとオレンジ  作者: 貴堂水樹
第三章 モノクロ

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4.

 中庭のベンチに腰かけていると、教室で感じていた強烈な暑さが嘘みたいに思えてくる。

 窓から吹き込んできていた風とはまるで違う、穏やかで気持ちのいい風が肌を撫で、ちょうど木陰になっているおかげで陽射しも遮ってもらえている。心なしか、母が毎朝作ってくれるお弁当がいつもよりおいしく感じられた。本格的に寒くなるまで、毎日ここでランチするのも悪くないなと那菜は思った。

 もちろん、映志と。


「そう言えば、昨日はありがとう」


 互いに弁当箱がからになった頃、映志が思い出したように隣に座る那菜に言った。


「助かったよ。望美もすごく喜んでた」


 映志の家に出向き、彼の妹の望美とともにイラストの練習をしたことについて、改めてお礼をしたいようだった。那菜は胸の奥にこそばゆいものを感じながら「ほんと?」と返す。


「よかった。わたしも楽しかったよ」

「そう。だったらよかった。また時間があったら来てもらえると嬉しいんだけど、どうかな」

「行く行く。次はいつにする?」


 新しい予定が決まっていく。映志の家に行っても映志と遊べるわけではないけれど、同じ空間にいられるだけで嬉しい。居場所を与えてもらっている気持ちになれる。


 昼休みも、週に一度は一緒に過ごそうということで話はまとまった。映志は普段、教室で弁当を食べたあとに図書館へ行き、家では時間が取れず片づけられない宿題をやっつけたり、仮眠を取ったりするのだという。

 なるほど、図書室は基本的に私語厳禁。人の声にあふれた場所を苦手とする映志にとってはうるさい教室よりよほど居心地がいいのだろう。本人は慣れているから平気だと言うけれど、偏頭痛がひどい時には保健室のベッドで休むこともあると聞き、なんだかんだ、彼は声に色がついて見える共感覚という能力に日々命を削りながら生きているのだと那菜は再確認させられた。


「やっぱり週二日にしよっか、一緒にお弁当食べるの」


 ほとんど思いつきで那菜がそう提案すると、映志が不思議そうな顔で那菜を見た。


「どうしたんだよ、急に」

「だって、一人で食べるお弁当なんて味気ないでしょ」


 映志と違い、那菜はこれまでうららたちとわいわい楽しく昼休みを過ごしてきた。映志にはそれが難しいとわかってはいるけれど、それでも誰かと一緒にする食事のほうが絶対においしく感じられる。

 那菜自身にも覚えのあることだ。

 一人で食べるごはんを、おいしく感じられたことはない。


「きみさえよければ」


 映志は控えめにこたえた。


「俺は嬉しいけど」

「やった。じゃあそうしよ」


 那菜が笑みを向けると、映志も微笑み返してくれた。本当は映志のために提案したのではなく、那菜が映志といたいだけなのかもしれないと内心気づいていたけれど、口には出さないでおいた。

 ふわりと穏やかな風が吹く。那菜は少しだけ乱れた髪を左手で耳に引っかけた。

 その仕草を見ていた映志が、「あれ」と小さく声を上げた。


「那菜、左手につけてたミサンガはどうしたの」

「あぁ、筆箱につけ替えたの」

「そうだったのか。なくしちゃったのかと思って、びっくりした」

「ごめん。みんなが筆箱につけるって言うから、わたしもそうしたの。ほら、汗で腕がかゆくなったりするし」

「それはあるよな。だけど、ミサンガって切れたら願いが叶うおまもりなんだろ。簡単にはずしちゃっていいものなの?」

「うららに聞いたんだけど、もともとミサンガって『長く友情が続きますように』っていう願いを込めて、友達に贈るプレゼントだったんだって。だから、みんなで同じものを持っていることに意味があるってわたしは思うことにしてる」

「へぇ、知らなかったな」

「アメリカが発祥らしいよ、ミサンガって。それが日本に伝わって、いつの間にか『切れると願いが叶うおまもり』っていう意味に変わっていったみたい」

「詳しいな」

「うららがね」


 半年ほど同じ時間を過ごして知ったことだが、うららはある意味子どもっぽいというか、好奇心旺盛なところがある女の子なのだ。新しいもの好きとも言えて、どんなジャンルでも新商品が出れば一番に試してみたいと手を挙げるのはうららだし、知らないことはスマホを使ってとことん調べようとする。

 ミサンガの歴史も、上手な編み方を調べているうちにアメリカ発祥のアクセサリーだということを知って、その流れで市販されているかわいいデザインのミサンガにも出会ったのだと話していた。過去に固執せず常に時代を追いかけたがる性格と、みんなの先陣を切っていける度胸を持ち合わせているうららがクラスのリーダー的存在になるのは当然のことだと改めて感じる。


「じゃあ、俺も那菜に贈るよ、ミサンガ」


 映志がいたずらっぽい笑みを向けてくる。


「きみとの友情が長く続きますように、って願いを込めて」


 那菜はわざとらしく顔をしかめて返した。


「ミサンガはもういらない」

「あ、そう。じゃあ、違うものにする。なにがいい?」

「プレゼント?」

「うん」

「わたし、誕生日ならだいぶ先だけど」

「いつ?」

「一月二十日」

「一月か。じゃあ先にクリスマスが来るな。その時に渡すよ、プレゼント。なにが欲しい?」


 なにが欲しい、か――。

 那菜は自分でも気づかないうちにあきらめたような笑みを浮かべていた。欲しいものはなにかと尋ねられた時、その問いに対する答えは一つしか持ち合わせていない。けれど、映志には関係のないことだ。那菜の欲しいものは、誰かに与えてもらえるものではない。

 はぐらかすように、那菜は質問に質問で返した。


「映志はなにか欲しいもの、ある?」

「俺?」

「そう。せっかくだからプレゼント交換しようよ、クリスマスに」

「いいね。だけど」


 映志は難しい顔で首を捻った。


「形に残る欲しいものって特にないんだよなぁ、俺。パッと思いつくのは、暇な時間とか、家事代行サービスとか、そんなのばっかりで」

「そっか、映志はそうだよね。まずは自分の時間を作らないと、遊ぶこともできないんだ」

「うん。……ごめん、こんなことをきみに話したってどうにもならないのにな」


 映志が心から申し訳なさそうに視線を下げる。彼が友達付き合いを避けがちなのは、こうしたなにげない会話をうまく成り立たせることが難しい環境で生きているせいもあるのかもしれないなと思った。

 那菜は迷わず首を振り、「わかるよ、映志の気持ち」と言った。


「わたしも一緒だもん。形に残るもの、今はなにが欲しいか浮かばない」

「ほんと? 女の子って、あれこれ買い物するのが好きなのかと思ってたけど」

「好きだよ。だけど、今はいい。友達が買うのを見て、自分も欲しいなって思ったら買うくらいがちょうどいいの」


 映志は「ふぅん」とだけ返してきた。映志に話を合わせているわけではなく、単純に物欲が低下気味なだけだが、彼の目にはどんな風に映っただろうか。


「それに」


 那菜はどこでもない遠くに目を向け、ひとりごとのようにつぶやいた。


「わたしが今一番欲しいものは、お金じゃ買えないから」


 たとえば、誰かに注いでもらえる愛情。たとえば、曇りのない友情。

 どれだけ欲しいと願っても、お金で買えないものはある。

 那菜が取り返したいものもそうだ。お金では解決できない。誰かがくれるものでもない。


 映志にだけは話してしまおうかと一瞬考えた。映志が那菜に心を許してくれたように、那菜も映志に受け止めてほしい気持ちがある。

 映志なら、きっと笑わずに聞いてくれる。


 話そうか。でも――。

 那菜の思考を割るように、スマートフォンが振動するかすかな音に映志が反応した。制服のポケットから取り出したスマホの画面を見た映志の表情が険しくなる。


「ごめん、電話だ」


 立ち上がった映志が木陰を離れる。ベンチに取り残された那菜は、ただならぬ雰囲気をまとった映志の背中を目で追いかけた。

 家族からの電話だろうか。彼の母親は介護が必要な病気で自宅療養中であることを那菜も知っている。事情はわからないけれど、無事であることを勝手に祈った。

 しばらくして、映志が那菜のもとへ戻ってきた。その表情は厳しいままで、一言目に「ごめん」と那菜に言った。


「父さんからだった。望美が早退するって。迎えに行かないと」

「映志が行くの?」

「うん。いつもそう」


 那菜は素直に驚いた。映志だってまだ高校生なのに、望美のかよう小学校においても映志が保護者の役割を担っているなんて。

 弁当箱の入ったバッグを手に取った映志に合わせ、那菜も一緒に教室へ戻ろうと歩き出す。はじめてのランチが思わぬ形で終わってしまったことに落胆したけれど、こればかりは仕方がない。望美が学校で映志の到着を待っている。


「望美ちゃん、熱出ちゃったの?」

「いや」


 映志は珍しく大きなため息をついた。


「たぶん、仮病」

「仮病?」

「今年のクラスに面倒くさい同級生がいるらしい。母さんのことでいろいろ言われるんだってさ」


 不登校にならなきゃいいけど、と映志は暗い声を絞り出す。望美の未来を心配しているというより、自身にのしかかる重荷がこれ以上増えなければいいと願っているような口ぶりだった。

 なるほどね、と那菜は心の中だけでつぶやいた。昨日、望美が母親に対して冷たい態度を取る場面に遭遇したけれど、それにはちゃんとした理由があったのだ。

 実際に望美がどんなことをクラスメイトから言われているかはわからないが、母親が病気で伏せっていることを理由にうまく仲よくできないでいるらしい。彼女が学校から帰ってくると絵ばかり描いているという映志の話も、すべて学校での事情につながることだったようだ。


 教室に戻り、職員室に寄ってから帰ると言った映志を見送る。教室にはうららたちが集まって談笑している姿もあったが、今はその輪に交ざる気にはなれなかった。

 結局、言えなかったな――。

 映志の残像を追いかけるように、那菜は廊下の突き当たりをじっと見つめ続けた。

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