3.
九月もまもなく終わろうとしているのに、教室の窓から吹き込む風はまるで涼しくなかった。
那菜のかよう高校では、クーラーの使用は学校祭終了までと規定されており、次にエアコンが稼働する時には暖房として使われる。来週から徐々に秋らしくなってくるとテレビの天気予報で言っていたのを小耳に挟んだけれど、こんなにも暑いのだからあと一週間くらいつけてくれてもいいのに、と胸の中でつい恨み言をこぼしてしまう。それくらい、今日は暑い一日だった。
「マジで暑くない? 今日」
三時間目と四時間目の間の休み時間に入っている。那菜たちはいつものようになんとなくうららの席の周りに集まり、うららは自分の席に座ったまま下敷きで首から上を仰ぎながらぼやいた。
「汗やばい」
「わかる」
桜子がからだに風を送るように制服の胸もとをパタパタとはためかせた。
「シャツが張りついて不快」
「ねぇ、このミサンガ、はずさない?」
うららがみんなに見せるように手首を振った。うららだけでなく、那菜たちの手首にも色違いのミサンガが結ばれている。
「汗のせいでかゆくなってきた」
「確かに」桜子がすぐさま同意する。
「もうすぐ長袖の季節になるしね。はずそ」
うららたちが一斉にミサンガをはずし始めたので、那菜も同じ流れに乗った。個人的にはけっこう気に入っていたけれど、おそろいのものを一人だけ腕に残したままというのもおかしな気がするし、すでに出来上がった流れに逆らう理由もない。
「これ、どこにつけとく?」
誰ともなく、はずしたミサンガの次の行き先を相談し始める。うららが「筆箱は?」と言って、試しにつけてみてくれた。
「どう?」
黒を基調としたうららの筆箱に、赤いミサンガがよく映えている。「いいじゃん」と言った桜子の意見にみんな同調して、那菜たちもそれぞれ自分の筆箱につけることにした。
「やばい、マジで汗が……」
桜子が一度自分の席に戻り、手鏡とコームを持って戻ってくる。前髪が汗で額に張りついてしまったのを懸命に直す手もとを見て、那菜は「あっ」と声を上げた。
「桜子、その鏡、新しいやつ?」
「そうそう。昨日買ったの。ね、うらら」
「うん。あたしも買った」
うららも自分の化粧ポーチから桜子と同じデザインの手鏡を取り出し、那菜に見せる。「えぇ、いいなぁ」と那菜は思わず心の声を漏らした。
「みんなで買ったんでしょ? わたしも欲しかったなぁ。今使ってるやつ、だいぶボロボロになってきてたから」
「ほらぁ」
那菜が言い終えるなり、うららが桜子を睨むように見た。
「だから言ったじゃん、絶対那菜も欲しがるって」
「だけど、絶対欲しいって言うかどうかわからなかったでしょ、昨日の時点では」
桜子が反論する。会話の内容が掴めず、那菜はうららに尋ねた。
「どういうこと?」
「あたし、この鏡を買う時に桜子に言ったの。那菜も絶対新しいやつ欲しいって言うから、買っておいてあげようって。だけど桜子は、そんなの那菜に聞いてからじゃなきゃわからないでしょって言うわけ」
「だって、そうじゃない?」
桜子もうららと同様、自分の意見に自信を持っているような口ぶりだ。
「うちらが勝手に買っておいてあげたって、那菜がもし必要なかったら那菜は単純に損をするだけでしょ。だから私は、那菜が本当に欲しいと思った時に自分で買えばいいじゃんって言ったの」
「けど、結果的にあたしが言ったことが正しかった」
うららは一歩も退こうとしない。
「昨日買っておいてあげたら、今日この瞬間に那菜も新しい鏡が使えたのに」
「まぁね」
これ以上は不毛な争いと判断したのか、桜子が先に反論の手を止めた。いつもの光景だった。
「ごめんね、二人とも」
意図せず間に挟まれる形となった那菜は申し訳なさそうに言った。
「あたしも昨日一緒に行けばよかったね、買い物」
「いいのいいの」
うららが軽い調子で言い、ニヤリと意味ありげに口角を上げた。
「那菜は昨日、大事なデートだったんだから」
「だから、デートじゃないんだって」
やっぱりうららはニヤニヤしながら、先ほどまでの手鏡の話題に戻した。
「ねぇ、明日の部活の帰りに買いにいかない? 那菜の鏡」
「いいの? 一緒に来てもらっちゃって」
「もちろんだよ。一緒に行こ。どこで買ったか教えるね」
「ありがとう、嬉しい」
那菜は素直な喜びをうららに伝える。明日は土曜日だが、ダンス部は午前中に練習の予定が入っていて、終わったその足で買い物へ行こうとうららは考えているようだった。
これで安心だ。昨日の遅れを取り戻せる。映志と長く付き合っていくことをあきらめたくはないけれど、うららたちとの溝が深くならないようにだけは気をつけていたい。
「いいなぁ、那菜は彼氏できて」
那菜の隣で、桜子がひとりごとのようにつぶやいた。
「私も欲しいなぁ、彼氏」
そう言われても、那菜としては映志との関係について周りからうらやましがられるようなものではないと思っている。けれど、傍から見ると恋人同士であることには違いなく、それだけで羨望の対象になるらしい。お互いに恋人らしいことはまだなに一つ相手にしてあげられていないというのに、だ。今後もできるかどうかわからない。
「桜子、この前言ってたイケメンの先輩は?」
那菜は以前聞いた桜子の体育祭での思い出話を振り返りながら尋ねる。しかし桜子は「全然」と首を振った。
「私、自分から声かけたりとかできないし」
「ハンド部の先輩経由で連絡先交換できたりしないの?」
「それも考えたけど、いろいろあんのよ、うちの部もさ」
桜子は面倒くさそうに苦笑して、「それより」と那菜に別の話を振った。
「せっかく付き合い始めたんだからさ、お昼一緒に食べたりしなよ、岸くんと」
「え?」
「うわぁ、いいなぁ」
那菜が明確な回答をする前から、うららがうらやましがるような素振りを見せた。
「彼氏とランチとか、めっちゃ青春! あたしも彼氏欲しくなってきたー」
「いや、まだ食べるって決まったわけじゃ……」
那菜の言葉を「言い訳がましいぞ」と遮るように、始業のチャイムが鳴ってしまった。
那菜は自分の席に戻りながら、ちらりと映志のほうを見やる。窓際の席に座る彼は、頬杖をついて窓の外に目を向けていた。
そういえば、映志はいつも昼食をどこで食べているのだろう。教室で食べるのか、別の場所へ移動するのか。弁当を作ってきているのか、購買で買っているのか。
映志について、まだまだ知らないことのほうが多い。知りたいと思うことがたくさんある。
後ろ髪を引かれつつ、今日だけは桜子の厚意に甘えて映志とランチを楽しもうと那菜は決めた。
二人で食事ができることを映志が喜んでくれたらいいな、と思った。




