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モノクロとオレンジ  作者: 貴堂水樹
第三章 モノクロ

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2.

 映志の自宅は最寄り駅から徒歩十五分弱の住宅街の一角にあり、大きくも小さくもない、よくある一軒家だった。一階にダイニングキッチンとリビング、風呂やトイレと両親の寝室があり、映志と妹の望美がそれぞれ二階に部屋を持っている。駐車場は普通車二台分、片方は空いており、もう片方にはファミリー向けの黒いワンボックスが停まっていた。映志の父は普段電車で通勤しており、車はもっぱら休日に使うのだと聞いた。

 映志にいざなわれるまま、那菜ははじめて訪れる映志の家にやや緊張しながら足を踏み入れた。映志が「ただいま」と言ったあと、那菜も「お邪魔します」と挨拶をする。

 二人の声に対する返事はなかった。映志はひとまず那菜をリビングへ案内し、扉を開けて「入って待ってて」と言った。指示に従うと、映志はひとり別の部屋へ向かった。


 那菜は通された部屋に目を向ける。向かって右側にオープンキッチンとダイニングテーブル、左側はソファやテレビの置かれたリビングになっていた。

 那菜の他にもう一人、部屋に人影があった。胸の下まで伸ばされた真っ黒な髪を両耳に引っかけたその女の子は、ダイニングテーブルにクロッキーブックを広げ、鉛筆を握りしめていた。


「えっと……望美ちゃん?」


 映志の妹が二人いるとは聞いていない。つまり、今那菜の目の前にいる女の子こそ、将来は漫画家になりたいからと絵の練習をがんばっている岸望美だ。彼女はこくりとうなずいた。


「はじめまして。お兄さんのクラスメイトの神谷那菜です」


 恋人の、とは言わなかった。望美はニコリとも笑わないまま「こんにちは」と言った。


「あの……映志にここで待っているように言われて」


 まだ小学三年生の望美に客人のエスコートは難しいと判断し、那菜は自分から望美に話を振っていく。望美はやはり一つうなずいて、言う。


「すぐ来ると思う。お母さんのこと、見に行ってるだけだから」


 緊張しているのか、あるいはもとより無愛想なのか、望美の表情はぴくりとも動かない。淡々と事実だけを那菜に伝えると、視線をクロッキーブックに落とし、鉛筆を動かし始めた。

 映志から聞いていたとおり、望美は絵を描くことが好きなようだ。開かれているクロッキーブックのページにはすでに女の子のキャラクターが一人描かれており、今は二人目の作画に挑戦しているようだった。


 うまいな、と那菜は心の中で素直につぶやく。

 小学三年生にしてはかなりよく描けていると思った。絵のタッチは小学生向けの少女漫画を真似ているようで、からだのバランスこそ不安定だが、顔の印象の要となる大きくてキラキラした目と長い髪の揺れる感じが特にうまく表現できている。着せている衣装は和装と洋装のハイブリッドといった風で、トップスが着物、ボトムスはフリルのついたスカート、足もとはニーソックスにショートブーツだ。

 那菜は自分が小学生だった頃を思い返す。こんなにもうまく描けていた記憶がない。そう思わされるほど、望美は絵の練習に熱心だった。那菜から贈れるアドバイスがいくつあるだろう。


「うまいね」


 望美の描いた絵に吸い寄せられるように、那菜は望美の座る席に近づいた。


「この女の子、自分で考えたの?」


 すぐ隣に立った那菜を、望美は少し恥ずかしそうな目をして見上げる。「うん」と小さく答えながら、望美は那菜が指さした自分の絵を見つめた。


「かわいい女の子が好きだから」

「そうなんだ。服もいい感じだね」


 素直に褒めると、望美がはじめてはにかんだ。あどけないその笑顔に那菜も嬉しくなり、空いている望美の隣の席に座る。

 那菜に見られたせいか、望美は手を止めてしまった。描いているところをジロジロ見られたくないのだろうかと、那菜は望美に提案する。


「わたしも描いていい?」


 望美は嫌だと言わなかった。「いいよ」と言い、那菜のために紙を一枚ちぎって渡してくれた。

 那菜は椅子の横に置いていた黒いリュックから筆箱を取り出す。愛用しているシャープペンのヘッドをノックし、芯を出すと、ひとりごとのようにつぶやいた。


「なに描こうかなぁ」


 那菜も昔は人間の絵を描くのが好きだった。ハマっていたマンガの登場人物を模写したり、いろんなポーズをさせた絵を描いたりすることがお気に入りで、望美のようにオリジナルのキャラクターを生み出すことに取り組み始めたのは小学校高学年になってからだった。

 望美が女の子のキャラクターを描いているので、那菜は男の子を描くことにした。オリジナルキャラクターではなく、那菜が最近読んでおもしろいと思った漫画のキャラクターにする。アニメ化もされている作品なので、望美も知っているかも知れない。


 絵画教室にかよったことはない。那菜は主に、好きな漫画家の画風を真似ることで自身の画力を上げた。模写をした回数は数え切れない。自由帳は常に模写でいっぱいだった。

 久しぶりに、真剣に自分の絵と向き合っていた。どんな表情にするか、どんなポーズを取らせるか、あれこれ頭を悩ませながらシャーペンをなめらかに動かしていく。


 いつの間にか没頭していて、望美が隣で目を輝かせながら那菜の絵ができあがっていく様子を見ていることに気づくまでかなりの時間を要してしまった。顔とからだの一部まで描き上げたところでようやく望美の視線を感じた那菜は、望美の明るい表情を見て、こんな顔もできるのかと驚いた。


「知ってる? このキャラ」


 望美は那菜の描いた絵に目を向けて「知ってる」とうなずいた。


「すごいうまい!」

「ほんと? ありがと」

「ねぇ、どうやったらこんなにうまく描けるの?」

「うーん、たくさん練習したからかなぁ。好きな漫画の絵をひたすら真似して描いたりして」

「へぇ、そうなんだ。じゃあ、望美も真似する」


 望美は席を立ち、廊下へと続く扉に向かう。望美が扉に手をかけるよりも先に、扉の向こうから二つの影が現れた。

 映志と、薄ピンクのパジャマに茶色いガウンを羽織った映志たち兄妹(きょうだい)の母親だった。


「ごめん、那菜。母さんがどうしても那菜に挨拶するって言って聞かなくて」


 映志が申し訳なさそうに言うすぐ隣で、映志に背を支えられて立つ彼の母が「こんにちは」と今にも消え入りそうな声で那菜に言った。


「映志の母です。わざわざ遠いところから来ていただいたそうで、すみません」

「いえ、そんな」


 那菜は慌てて立ち上がり、その場で深々と頭を下げた。


「神谷です。よろしくお願いします」

「お兄ちゃん、見て!」


 那菜の挨拶が終わるなり、望美が映志の腕を取った。


「那菜ちゃんの絵、めっちゃうまい!」


 望美に手を引かれるまま、映志は母親のそばを離れ、那菜の描いた絵を覗く。映志の目がまんまるになった。


「ほんとだ。プロ級だな。レベルが違う」

「やめてよ。さすがにそれは褒めすぎ」

「なぁ、母さんも見てみなよ」


 映志に手招きされるまま、彼の母親も那菜の描いた絵を見に来る。一歩一歩慎重に歩くその姿に那菜は思わず息をのみそうになった。

 無造作に伸ばされた髪には白髪が交じり、頬はしっかり()けている。同級生の母親とは思えないほど、彼女のからだは線が細く、風が吹けば簡単に飛んでいきそうなほど小さかった。


「ほんとねぇ」


 映志の母は、那菜の絵を見て嬉しそうに微笑んだ。


「上手。望美ちゃん、いい先生が来てくださってよかったね」


 母に言葉をかけられた望美は、目を合わせることもないままリビングを出て行った。映志の母は一瞬落胆の表情を浮かべたが、すぐに那菜に向き直って頭を下げる。


「映志と望美のこと、よろしくお願いします」


 見てはいけないものを見てしまった気まずさを感じつつ、那菜も改めて映志の母にお辞儀をした。「さぁ、部屋に戻ろう」と映志は母に言い、二人もリビングを出て行った。

 去り際に映志は那菜を振り返り、顔の前で両手を合わせた。ごめん、という意味なのだろう。那菜は首を横に振って返したが、うまく笑えた自信はなかった。


 岸家の状況は、那菜の想像をはるかに超えて悪いらしい。映志は共感覚保持者という自分のことを家族優先の理由として挙げていたけれど、それだけではないということがこの数分のやりとりの中から窺えた。

 映志より先に、望美が二階の自室からリビングへ戻ってきた。少女漫画の単行本を数種類、十冊ほどかかえている。


「これ、望美の好きな漫画!」


 望美は嬉しそうに那菜に報告し、単行本の束をダイニングテーブルに置くと、さっそく席について一冊目をパラパラとめくり始めた。


「どれを真似しよっかなぁ」


 望美の顔には先ほどの明るい表情が戻っている。家庭の事情に踏み入るのはよくないと、那菜も望美に合わせて笑みを浮かべ、再び彼女の隣に座った。

 望美は模写を始め、那菜も先ほどの絵の続きを描き始める。どうせなら頭から足の先まで描いて完成させようと手を動かしていると、映志がリビングに戻ってきた。


「望美」


 映志は叱るような口調で望美を呼ぶ。望美は顔を上げないまま「ごめんなさい」と言った。

 映志が次にかけてくる言葉を望美はわかっているようだった。母親に対して取った態度を咎められる。だから映志がなにを言う前に自分から謝った。これが岸家の日常であるらしいと那菜は雰囲気から察する。

 映志は小さくため息をつき、那菜に向き直って力ない笑みを浮かべた。


「うちは毎日だいたいこんな感じだけど、大丈夫?」


 驚かなかったと言えば嘘になる。けれど、映志を助けたい気持ちが揺らぐことはなかったし、むしろ高まったくらいだった。

 那菜はうなずき、「まかせて」と力強く映志に言った。


「こっちのことは気にしなくていいから。やること、たくさんあるんでしょ?」

「うん。悪いな、ほんと。助かるよ」


 言いながら映志はキッチンに立ち、手を洗うとすぐに米を研ぎ始めた。流れるように足を動かし、彼は再びリビングを出て行く。立ち止まって那菜と話をする余裕はなさそうだった。

 忙しなく家事を進める映志とは対照的に、那菜と望美はひたすら机に向かって絵を描き続けた。望美の描く絵のバランスの悪さを改善するため、まずは大まかな形を取るように教えたり、補助線の引き方を教えたりしたら、飲み込みの早い望美はあっという間にコツをつかんでますます絵にのめり込んでいった。


「本当にうまいな、きみ」


 那菜たちの様子が気になったのか、制服の上からエプロンをつけた映志が二人の絵を覗きに来た。那菜が顔を上げると、心の底から感動している目をした映志がそこにいた。


「びっくりだよ。ここまでうまいと言葉も出ないな」

「褒めすぎだってば」

「お兄ちゃん、望美のも見て!」


 望美が自信たっぷりに模写を掲げ、映志に見せた。


「うまくなったでしょ」

「ほんとだ、うまくなってる。那菜に教えてもらった?」

「うん! 那菜ちゃん、すごい」


 兄妹そろって那菜に尊敬の眼差しを向けてくる。居心地が悪い反面、少しだけ気持ちよさも感じられた。

 中学生になった頃から、誰かの前で本気の絵を描くことはなくなった。理由はよくわからない。なんとなく恥ずかしくなった。それだけだった。

 だからといって、絵を描くことが嫌いになったわけではなかった。学校から帰り、時間を見つけては、親にも内緒で絵を描いた。美術の授業でつい本気を出してしまうことも少なくなかった。


 絵が好きだった。描くことそれ自体も、自分で描いた絵も好きだった。

 どんな形であれ、絵に携わる仕事がしたいと本気で考えていた。こうして絵を描いていると、その時の気持ちが蘇ってくる。


「ねぇ、那菜ちゃん」


 望美が話しかけてきて、那菜の思考は途切れた。


「この那菜ちゃんの絵、望美の部屋に飾っていい?」

「えぇ、こんな適当に描いたやつを?」

「適当じゃないでしょ、ほんとは。こんなにうまいのに、適当なんて嘘だよ」


 望美の察しの良さに、さすが映志の妹だなと那菜は敗北を認めざるを得なかった。キッチンに戻った映志がクスッと笑う。

 望美の言ったとおりだった。選んだキャラクターこそこだわらなかったが、描き上げたイラストとは真剣に向き合っていた。表情もポーズもキャラクターを壊さないようなものを選択し、一本一本の線に気持ちを込めた。久しぶりに描いたにしてはうまくいったなと自分でも思えるのは、そうした本気のおかげだった。


「そうだ」


 望美がなにか思いついたように背筋を伸ばした。


「せっかくだから、色も塗ってよ」

「え?」

「望美、誕生日にお父さんにコピック買ってもらったの。持ってくるね!」

「あ、ちょっと……!」


 軽快な足取りでリビングを出て行った望美の背中を呼び止めることは叶わず、那菜は生唾をのみ込んだ。

 コピック。那菜も持っているけれど、プロのイラストレーターも使う有名なカラーペンのことだ。絵の好きな望美が欲しがるのはよくわかる。

 そんなことはどうでもいい。那菜の吐き出す息が震えた。

 忘れたいと願う記憶が、身勝手に那菜の頭をよぎる。一生懸命描いた絵に、望まない色がにじんでいく。


 ――ごめーん、こぼしちゃったー。


 世界が真っ黒に染まり出す。二度と聞きたくないセリフが耳の奥でくり返される。


 ――行こ、みんな。


 一人、また一人と、那菜の前から消えていく。

 たった一度、選択を誤ったせいで。


「那菜」


 映志の声と、肩に触れられた手の感触で我に返った。いつの間にか額に玉の汗が浮かんでいて、那菜は慌ててそれを拭った。


「大丈夫?」

「うん、平気。色まで塗るなら、もう少ししっかり線画を描かないとね」

「那菜」


 シャーペンを握り直した那菜の手に、映志が自らの手を重ねてくる。


「無理しなくていい。顔色悪いよ」

「大丈夫。ちょっと嫌なことを思い出しちゃっただけ」

「それって、きみが絵を描かなくなったことに関係ある話?」


 那菜は不格好な笑みを浮かべる。映志が那菜を心配する理由はきっとそれだけではない。

 自分でもわかる。今の映志には百パーセント、那菜の声の色が濁って見えているだろう。

 苦しい胸のうちを隠している自覚がある。けれど、昔のことだ。映志には関係ない。映志が知る必要はない。

 望美がカラーペンを持ってリビングに戻ってくる。彼女の弾ける笑顔を見て、少なくとも今は過去に流されている時ではないと足を踏ん張る。


「よぉし、望美ちゃんのためにがんばるかぁ」

「やったぁ、楽しみ!」


 望美が嬉しそうに那菜の隣に座る。那菜もすっかり調子を取り戻し、望美にある提案を持ちかけた。


「ねぇ望美ちゃん、よかったら色塗りは望美ちゃんがやってみない?」

「え、望美が?」

「うん。線画はわたしが仕上げるから、色は望美ちゃんの好きな色で塗って。そうすれば、わたしと望美ちゃんのコラボ作品になるでしょ」


 コラボという言葉により嬉しくなったのか、望美は今までで一番嬉しそうに「うん、やる!」と言った。そうと決まればさっそくそれぞれの作業に取りかかり、那菜の描いたイラストが仕上げの段階へと進み始める。


「見て、那菜ちゃん。どう、この色」

「うん、いい。すごくいいよ」

「もっと抜いたほうがいいかな、ここの青」

「あぁ……えっと、細かい塗り具合は望美ちゃんの好みでいいと思う」

「そっか。じゃあ、このままでいいや」


 望美は意気揚々と作品に色をつけている。那菜に褒められ、余計にやる気が上がっているようだ。

 二人の作業が盛り上がる中、映志は夕飯の支度をしながら那菜のことを見つめていた。

 その視線が険しい色を帯びていることに、那菜が気づくことはなかった。

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