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モノクロとオレンジ  作者: 貴堂水樹
第三章 モノクロ

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10/17

1.

 放課後の帰り道を、ダンス部の仲間以外と歩くのは久しぶりのことだった。ダンス部は木曜日が定休となっているが、那菜はうららや他のダンス部の友達と学校帰りにそのまま遊びに出かけることが多かった。

 文化祭の翌日におこなわれた後夜祭という名の後片づけも含め、学校祭の全日程が終了してから三日が経っていた。この日はダンス部の練習がなく、那菜は映志とともに帰路についた。


「本当にいいの、来てもらっちゃって」


 映志の自宅まで、電車で三十分ほどかかるという。那菜が乗る電車とは行き先が真逆で、いつもと反対側のホームで電車の到着を待つのが那菜にとっては新鮮だった。


「いいよ、もちろん。わたしが行きたくて行くんだから」


 那菜は迷わず言いきった。それでも映志の表情が曇り気味なのは、今の彼には那菜の声の色が濁って見えていて、本音が感じ取れてしまうせいに違いない。


 那菜と映志は、これから映志の家へともに行くことになっていた。いつしか交わした、映志の妹と一緒に絵を描くという約束を果たすためだ。

 映志の妹、望美も那菜が家に来ることを楽しみにしていると聞いている。なんでも、映志が那菜のことを「絵の先生だよ」と望美に紹介したそうで、かなり期待されているらしい。


「やっぱり、少しハードルを上げすぎたかなぁ」


 なにを気にしているのか、映志はひとりごとをこぼしながら那菜に言う。


「不安? 望美と会うの」

「全然。楽しみ」

「でも俺、望美にきみのことを絵の先生だって言ったよ」

「うん、聞いた。大丈夫、小学生よりはうまく描ける自信あるから」

「そう。それならいいんだけど」

「教えるのはうまくないかもしれないけど、絵が好きな者同士で描くのは純粋に楽しいから、わたしはそれだけで十分だよ。映志の役に立てるのも嬉しいし」


 ここまで言うと、ようやく映志も納得できたようだった。那菜以上に、映志のほうが緊張しているようにさえ見えてくる。

 那菜がついつい笑ってしまうと、映志は少しだけムッとした顔になった。


「笑うなよ」

「だって」


 那菜はいよいよ声を立てて笑った。あまりにも心配性すぎる映志だけれど、そういうところは嫌いではなかった。母性本能をくすぐられ、かわいいとさえ思ってしまう。

 それと同時に、那菜は映志が都合よく勘違いをしてくれていることにホッとしていた。那菜は決して、望美の絵の先生になってほしいと頼まれたことを不安に思っているわけではない。那菜の声の色がいつもと違う風に映志に見えてしまうのには別の理由があった。


「あ」


 不意に映志が隣で声を上げた。彼の視線は反対側のホームに注がれている。


「山崎さんだ」

「え?」


 那菜も反対側のホームを見る。映志の言うとおり、改札口からホームへと下りる階段のほうから、うららや桜子たちがぞろぞろと歩いてくるところだった。

 対岸のうららたちも那菜と映志の存在に気づいたらしい。うららが一番に手を振ってきた。


「那菜ー!」


 うららのつやのある声がホームじゅうに響き渡る。うららに同調するように、桜子たちも次々と那菜に手を振ってくる。

 那菜も小さく手を振り返す。どこか嬉しそうなうららたちとは対照的に、那菜の表情は硬い。

 那菜が手を振ったことに満足したのか、うららたちはなにやら話をし始める。那菜と映志のことを話題にしているようで、噂話を楽しんでいる雰囲気が見て取れる。


「那菜?」


 隣で映志が那菜の顔を覗き込むように見た。こちら側のホームにまもなく電車が入線してくることを伝えるアナウンスが流れ、同じ電車を待つ他の乗客たちが少しずつ白線に近づいていく。


「大丈夫?」


 いつまでも反対側のホームに目を向け続けている那菜のことを、映志はいよいよ心配し始めたようだった。少しずつスピードを落としながら入線してきた車両とともに走り抜けていく風が二人の髪を容赦なく揺らし、那菜は鎖骨に少し届かないくらいの黒髪を右手でそっと耳にかけた。


「大丈夫」


 映志にこたえたようで、那菜は那菜自身の心にこたえる。


「まだ、大丈夫」


 脳裏をかすめたほの暗い過去に飲まれるほど、今の那菜は弱くない。立ち直り、前に進むための力はたまっている。

 今日のことだってそうだ。うららたちから遊びの誘いを受ける前から映志の家に行くことは決まっていたけれど、こちらの予定を変更することを真っ先に提案した。


 ――そんなのダメダメ。あたしらなんかよりカレシ優先に決まってんじゃん。

 ――でも。

 ――いいって、那菜。こっちのことは気にしないで、今日はデート楽しんできな。

 ――だからデートなんかじゃないんだってば。


 うららは一度決めたことをまず曲げない。那菜と映志が放課後をともに過ごせるのは、那菜がうららからの誘いを断ったからではなく、うららが那菜に映志とデートをさせたかったからだ。

 だから、大丈夫。ちゃんとうららの意思に従っている。

 あの時と同じ失敗はしない。絶対に。


 電車が止まり、扉が開く。下りてくる人の流れが途絶えるのを待つ間に、那菜は映志に笑みを向けた。


「ねぇ、一緒に手、振ろ」

「え?」


 車両に乗り込み、反対側の扉の窓からうららたちの姿をとらえる。うららも那菜の視線に気づいたようで互いにわざと目を大きくしながら手を振り合った。


「ほら、映志も」

「俺も?」


 那菜の隣で、映志も窓の向こうに手を振った。うららたちがキャッキャと笑いながらみんなで手を振ってくる。

 扉が閉まり、電車がゆっくりと動き出す。入れ替わるように、うららたちの待つホームにも電車がやってきた。


「もしかして、山崎さんたちと遊びに行く予定だった?」


 走り出した電車に揺られながら、映志がなにかを悟ったような声で言う。那菜は首を横に振った。


「映志との約束が先だったの。だから大丈夫」

「そっか。なんか悪いな、山崎さんたちに」

「全然気にすることないよ。うらら、わたしが映志の家に手伝いに行くって言ったら、デートと勘違いしてめちゃくちゃ喜んでくれたから」


 今日に限っては、本当にデートではない。そもそも映志は那菜とデートをしている余裕などない生活を送っている。

 そんな映志のために、那菜は映志が家事に忙しくしている間、映志と、病気で寝込んでいるという彼の母親に代わって、彼の妹と遊んであげるのだ。

 映志が少しでも楽をできるように手を貸すだけであり、こんなことしかしてあげられないことが歯がゆくもある。デートなんてもってのほか。うららが期待しているようなことは起こらない。


「ごめんな」


 映志は懲りずに謝罪の言葉を口にする。


「デート、連れていってあげられたらいいんだけど」


 那菜が残念がっていると思っているらしい。だが、那菜は最初から映志とデートに出かけるつもりなどない。そんなことを求めているわけでもない。


「ねぇ、いい加減謝るのやめてよ」


 那菜は半ばあきれたように映志に言った。


「言ったよね、わたしは映志の力になれたら嬉しいって。だから、デートなんて行かなくていい」

「那菜」

「それに」


 恥ずかしさを隠すように那菜はほんの少しだけ顔を下げた。


「十分だから、映志がそばにいてくれるだけで」


 誰にも手が届かないより、伸ばせばすぐに誰かの手があるほうがいい。映志にも、そんな存在を持ってほしい。

 映志に好きだと言ってもらえた。最初は戸惑ったけれど、とても幸せなことだとすぐに気づいた。

 那菜にとっても、映志が変わらずそばにいてくれる存在であってほしい。そうなれたらいい。

 そうすれば、あるいは。


「ありがとう」


 他の乗客から見えないように、映志は自分のからだで扉側の右手を隠しながら、そっと那菜の左手に触れた。


「俺も、那菜の力になりたい」


 触れた指先から、映志の体温が静かに流れ込んでくる。(じか)に伝わるぬくもりに、那菜の心臓が小さく跳ねた。


「いいよ、わたしは。映志は自分の心配だけしてて」

「そうはいかない。取り戻したいものがあるんだろ、きみには」


 胸の鼓動が、外に漏れ聞こえそうなほど大きくなる。映志との距離が近いせいか、あるいは、不意に昔のことを思い出してしまったからか。

 自分でも気づかないうちに、那菜は映志の右手を強く握り返していた。少しだけ時間が欲しくて、そのまま黙って目を閉じる。


 不意にこうして、目に映る世界のすべてを閉ざしてしまいたくなる時が訪れる。心の底から願うのは、次に目を開けた時、この暗闇からちゃんと抜け出せていること。

 叶ったことは一度もない。この暗闇に迷い込んでから、まもなく一年が経とうとしている。


 いつになったら明るい世界に出られるのだろう。

 こんなにも、こんなにもがんばっているのに。

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