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モノクロとオレンジ  作者: 貴堂水樹
第一章 オレンジ

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1/17

1.

 九月の酷暑は厳しかったが、高校に入ってはじめての体育祭は思っていたよりもずっと楽しい時間だった。


 出番だった騎馬戦の競技が終わり、ほどよい疲労感を全身で受け止めながら、那菜(なな)はグラウンドに設けられた一年六組の控え席へ戻る。ブルーシートを風で飛ばないよう押さえる意味も込めて置かれたカゴの中から水筒とフェイスタオルを手に取り、「暑い……」とぼやきながら木陰を探して移動した。

 グラウンドの中央では、次の競技であるリレーの準備が着々と進められていた。男女混合のチームで学年・クラス別に順位を競うこの競技はご多分に漏れず体育祭の花形で、選りすぐりの快足たちが全校生徒の熱視線を独占し、もとより高いクラス内での地位と人気をさらなる高みへと押し上げられる絶好の機会でもあった。


 水分を摂り、タオルで汗を拭う那菜の瞳が、リレー選手の待機場所から一人の女子生徒を探し出す。クラスメイトであり、同じダンス部に所属する仲間でもあるその友人、山崎(やまざき)うららは、那菜と違ってスポーツ万能の人気者だ。当然ながら足は速く、おまけに背も高くて手足が長い。高い位置でポニーテールにされている黒髪はつややかで、美人を強調するかのようなナチュラルメイクも汗で流れている様子はない。

 うららがちらりとこちらを見た。かなりの距離があったけれど目が合ったような気がして、那菜はタオルを首に引っかけ、うららに大きく手を振った。


「うららー! がんばれー!」


 うららも笑顔で手を振ってくれた。自信家の彼女にはめずらしく、彼女の表情は少し緊張しているように見える。

 挙げられたうららの右手で、夏休みに仲のいいクラスメイト同士で買ったミサンガが揺れていた。那菜の左手にも同じものがある。一人ひとり配色が違っていて、うららは赤、那菜は緑の糸をメインに編まれたものだった。


 うららと友達になれたことはラッキーだった。もともと高校生になったらダンス部に入ろうと決めていたけれど、同じクラスに那菜の他にも希望者がいて、しかも入部直後から那菜たちの学年の中でリーダーのような存在になった子だった。

 ダンス部だけでなく、うららは当然のようにクラス内でも中心的な存在だった。男女問わず、誰にでも気軽に話しかけてしまう高いコミュニケーション能力は、あっという間に彼女をクラスの女子のリーダー格に押し上げた。そんな彼女を否定する者はいない。誰もが認める、一年六組の女子の圧倒的トップだった。


 一緒にリレーに出場するクラスメイトの男子と談笑しているうららの姿を、那菜は誰ともしゃべらず静かに見つめる。

 うららと出会えたことで、高校生活は想像以上にいいスタートを切れた。入学して半年近く経ち、夏休みにはダンス部の合宿などもあって、うららとの仲は日々深まっていると感じている。

 今使っているタオルもうららとお揃いで買ったものだ。うららが()している男性アイドルグループのライブグッズで、高かったけれど、仲のいい友達みんなで一本ずつ買った。

 いちおう那菜にも同グループ内に推しメンがいる。がんばって推している。うららと那菜が手首につけているミサンガの色は、それぞれの推しメンのメンバーカラーだ。

 推し活自体は楽しい。だからなんの問題もない。高校生になって以来、毎日が充実していると強く実感できていた。


 首にかけているタオルの端をキュッと握り、那菜は静かに目を閉じる。

 今のままでいい。このままの調子を維持できれば、失ったものを取り戻せる。

 できることなら、少しでも早く。

 あの日から見続けている灰色の夢を、いつまでも振り切れないままではいられない。


「ねぇ、神谷(かみや)さん」


 不意に左から声をかけられ、那菜は肩をびくつかせた。思考に没頭していて、人影が迫っていることにまるで気がつかなかった。

 顔を上げると、一人のクラスメイトが那菜のすぐ隣に立っていた。


「なんだ、(きし)くんかぁ。びっくりした」


 岸映志(えいし)だった。どちらかというと影の薄い彼だったが、失礼ながら、ここまで薄いとは思わなかった。すらっと背が高くて顔もスタイルもいいほうなのに、どうしてこんなにも目立たないのだろう。不思議だ。

 映志は少し困ったように、けれど穏やかな微笑を浮かべた。


「ごめん、驚かせちゃったね」

「平気。なんだった?」

「あのさ、ずっと()きたいと思ってたこと、訊いていい?」


 突然なにごとかと思えば、彼はなにか那菜に質問があるらしい。

 やや身構えつつ、那菜はイエスと返答した。


「いいよ。なに?」

「たいしたことじゃないんだけどね。どうしてきみがそこまで山崎さんにこだわるのかなーと思ってさ」


 質問の意図をうまくくみ取れなかった。那菜は無意識のうちに眉根を寄せる。


「どういう意味?」

「こだわるっていうか、なんで無理して仲よくしようとするんだろうって、不思議に思ったというか」


 心臓が一つ大きく跳ねる。思わず生唾をのみ込んだ那菜は、かすかに呼吸を震わせた。


「わたし、無理なんてしてないけど」

「そう? でも神谷さん、山崎さんのこと嫌いでしょ」


 那菜は唇を薄く開いたまま固まった。からだがこわばり、体温が一気に下がるのを感じる。


 ――嫌いでしょ。


 耳をふさいだつもりはないのに、遠くに聞こえていたはずのクラスメイトたちの声が一切聞こえなくなっていた。頭の中が真っ白で、けれどこれまでほとんどしゃべったことのない映志がその原因になったことへの苛立ちだけは感じていた。


 ――山崎さんのこと、嫌いでしょ。


 なにを言い出すかと思えば。

 那菜のことなんて、あるいはうららのことだって全然知らないくせに。

 映志にいったいなにがわかると言うのだ。回りくどい言い方すらして、わかったような口を聞いて。


「なにそれ」


 心に覚えた動揺が、じわりじわりと怒りの感情へと変わっていく。


「なんでそんなこと言うの。わたし、うららとは友達だよ」

「ごめん。悪気はなかった。きみたちの友情を否定するつもりもない。ただ」


 那菜が怒っていることを察したのか、映志は控えめに、けれどやはり納得できないといった風に言う。


「俺、見えちゃうんだよね。きみが山崎さんと話す時、すごく無理をしてるのが。本音を隠してるっていうか……山崎さんに意見を合わせるために自分の気持ちを押し殺してるのが、見える」


 映志が言葉を紡ぐたびに、指先が氷のように冷え固まっていくのを止められなかった。冬の足音など当分聞こえそうもない炎天下で握りしめた拳が信じられないほど冷たい。


「……別に」


 絞り出した声の小ささに、那菜は自分で驚いた。


「わたしは」


 それ以上、言葉が続かなかった。映志に言われたことのすべてを否定したいのに、汗が頬を伝うばかりでまともに口が動かない。

 自分に嘘なんてついてない。本音を隠してなんかない。

 見えるってなに? きみになにがわかるの?

 そう言ってやりたいのに、言葉が喉につっかえて出てこない。


「ひどい声だな」


 うつむく那菜に、映志はひとりごとのように言った。


「本来のきみの声は、もっときれいなオレンジなのに」


 那菜が顔を上げた先に、まっすぐな眼差しを那菜に向ける映志の真剣な顔があった。これから体育祭のメインイベントが始まるというのに、気持ちはどんどん祭りの盛り上がりから遠ざかる。


 ぶつかる視線が絡まり合ってほどけない。映志に投げかけられた言葉たちが思考回路をめちゃくちゃにしてくる。

 振り払うために絶叫したい衝動に駆られた。映志に言われたことのすべてがわからなかった。彼の話には素直に理解できるところが一つもない。


 一つ強めに息を吐き出すと、少しだけ冷静さが戻ってくる。リレーがまもなく開始されるとの放送が遠くに聞こえた。

 どうせ目をそらせないならと、那菜は映志をにらむように見る。


「意味わかんない」

「だよね」

「なに、オレンジって」

「きみの声の色」

「は?」


 おちょくられているのかもしれないと思わないでもなかった。けれど映志にふざけている様子はなく、怒りにまかせて押しのけてしまうのは対応として間違っているような気がしてならない。


「ちゃんと説明して。なにが言いたいの?」


 食ってかかるように那菜は言うが、映志はただ首を横に振るだけだった。


「ごめん。今のは全部忘れて。単純に俺の興味で訊いてみただけだから」

「なにそれ。逃げる気?」

「そう、逃げようかなって」

「ちょっと待ってよ」


 こんな中途半端な形で逃げられては困る。那菜の右手が、那菜に背を向けかけた映志の左の手首を掴んだ。

 映志が動かした足を止める。那菜の手が、映志の手首からそっと離れる。

 わずかな沈黙の時を経て、那菜が先に口を開いた。


「一つだけ教えて」

「うん」

「どうしてわたしがうららを嫌ってると思ったの」


 実際のところ、うららのことは嫌いではない。うららとは友達になりたくてなったのだし、これからも仲よくしていきたい友達の一人だ。関係性も決して悪くない。

 なのにどうして、映志には那菜がうららを嫌っているように見えたのだろうか。出会って半年、うららとは一度もケンカをしたことがない。


「確信があったわけじゃない」


 逃げることなく、映志は誠実に答えてくれた。


「ただ俺、わかっちゃうんだ。人の声を聞くと、その人が本心を語っているか、無理をして本音を隠しているか、わかる」

「本音を?」

「うん。なんとなくだけどね。心で思ってることと違うことを言っている人の声って、濁るんだ。それが俺にはわかる。嘘つきの声は、濁る」


 声を聞けば、その人の言葉が本音か否かがわかる。嘘つきの声は、濁る。

 それこそ嘘みたいな話だった。そんなの、まるで超能力だ。

 けれど、映志がデタラメを言っているようには見えなかった。彼の真剣な表情は先ほどから少しも変わっていない。からかわれているわけではない。


「わたしがそうだって言うの? 本音を隠してるって?」

「というより、きみが無理をして彼女とつるんでるんじゃないかって思う」

「無理って」

「そうとしか表現のしようがないんだよ。特に山崎さんに対して、本心とは違うことを口にしてるところをよく見かける。本当は同意したくないことに同意して、無理やり話を合わせてるっていうか。だから不思議だなぁと思ったんだよ、どうしてそこまでしてでも山崎さんと友達でいようとするのかなって。同じ部活だからって常につるんでる必要はないわけだし、あの子以外にも女子なんていくらでもいるのに、なんで山崎さんと話を合わせようとがんばるのかなぁってさ」


 胸を締めつけられるような感覚に襲われた。心拍数が上がり、顔が熱い。

 映志の口から容赦なく紡がれる言葉たちを受け止め、自分の足で立っているのに必死だった。そんなことない。そう一言言い返せば済む話なのに、気道が狭まり、呼吸がうまくできなくなる。

 映志の指摘を否定できない。脳裏に二つの顔が浮かぶ。

 一つは、うらら。そして、もう一つは。


「違う」


 那菜は首を横に振る。

 違う。そうじゃない。

 無理をしているわけではない。自分で選んだ道を走っているだけ。

 そうしなければならない理由があった。

 那菜にはどうしてもやり遂げなければならないことがある。


「関係ないでしょ、岸くんには」


 失いかけた意識を取り戻し、那菜は毅然とした態度で映志に言った。


「わたし、無理なんてしてない。うららはわたしの友達だから」


 那菜がそう答えることをわかっていたかのように、映志はうなずき、「そうだよな」と言った。


「ごめん、嫌な気持ちにさせちゃった。もう忘れて」


 映志は足早に那菜の前から遠ざかる。まるで煙のように、存在どころか残り香も温度も消し去っていった彼の背中を、那菜は目で追わなかった。


 我知らず、強く奥歯をかみしめる。

 無理なんてしていない。正真正銘、うららは友達だ。いい友達がいて幸せだと思っている。

 うららと出会えてよかった。そう思える未来を手に入れる。

 そのための努力は惜しまない。ただ、それだけのことだ。


 那菜は目を閉じ、タオルで顔を覆い隠した。映志の言葉を頭の中から追い出そうと、脳内でうららたちと一緒に応援しているアイドルの曲を再生させた。

歯の浮くような甘いセリフも、キャッチーなフレーズの歌にしてしまえば自然と受け入れられるのが不思議だといつも思う。どんな現実も同じように、なんのためらいもなくするりと受け入れられたらいいのにと強く思う。


「那菜?」


 別の誰かが那菜の名前を呼んだ。聞き覚えのある、かわいらしい女子の声。

 右を向くと、クラスメイトの小田中(おだなか)桜子(さくらこ)が那菜を心配そうに見つめながら近づいてくるところだった。


「大丈夫?」

 桜子は那菜の顔を覗き込む。もともと色素が薄く、パーマのような自然なうねりも地毛だという桜子のボブヘアがふわりと揺れた。


「顔赤いよ。熱中症?」

「違う違う。平気」

「ほんと? 先生呼んだほうがよくない?」

「いいの、本当に。もうリレー始まるよね。行こ」


 那菜は木陰を一歩離れる。陽射しでグラウンドの色が変わったところへ出た瞬間、まぶしさと、ジリリと肌が焼けるのを(じか)に感じた。首にかけていた黒地に白と蛍光ピンクのロゴが入ったタオルを広げ、肩に羽織る。

 一年六組の控え席で、那菜は桜子や他のクラスメイトとともに声を張り上げ、リレーの応援に励んだ。うららの番で一つ順位を上げた一年六組は九クラス中三位と健闘し、控え席には歓喜の渦が巻き起こった。


 ごく自然に、那菜はクラスの輪の中に溶け込んだ。「やっぱりうららはすごいね」なんて話を桜子たちと笑顔でする。

 映志に言われたことは気にしない。忘れてほしいと映志も言った。

 そもそも、これまでろくに話したこともない男子からの指摘だ。真に受ける必要はない。そう決めつけ、やり過ごすことにした。

 リレーを終えて戻ってきたうららを、那菜はとびきりの笑顔で迎えた。

 偽りの笑みじゃない。うららのような子と友達になれて、心から嬉しいと思っている。

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