命の音が聴こえない
5年ぶりに執筆再開しました。
また、書いていきます。
※ペンネーム変更しました。
命の音が聴こえない。
私は多分死んではいない。呼吸もしているし、あったかい。なのに私は死んでいるようだ。
何の音も聴こえない。テレビの音も、両親の声も。
私の周りから音がなくなったのは突然だった。私は慌て、両親は私以上に慌て、近くの耳鼻科から始まり、総合病院、大学病院、何箇所もの病院へ駆け込んだ。
でもどこも結果は同じだった。異常なし、という結果はどこでも揺るがなかった。
そして決まり文句は「ストレスから来ているかもしれないので、心療内科か精神科の受診をしてください」。
私は言われる度に、そんなのありえないって私そんなに弱くないしそんなんで耳が聞こえなくなるなんてありえないでしょ、と頭から否定した。両親は私以上に声高に言った。「怜は強い子です。精神科だなんて、そんなところに行くような子ではありません」と。
でも結局のところ、私の心は壊れていたのだ。薄々分かっていた。最近食欲なかったし、寝付きも悪かったし、その癖甘いものばかり食べてしまっていてニキビが増えた。LINEで友達に期待通りの言葉をかけられなかっただけで呼吸が苦しくなった。
辛いことは特になかった。大学にはあまり行けてないけどそれはそれでゆるりとした日々を送り、両親に怒られるわけでもない、「怜も色々辛かったからね。しょうがないよ」と諦めを口にされても哀しくなんてなかった。そう、諦め。私はもう両親に期待なんてされていないのだろう。
だから、良かったんだ。私に音は必要ない。もう何も聞きたくない。目も見えなくなってしまえばいいのに。何も見たくないし、体重が増えるだけのご飯や鼻が痛くなるような香水の匂いもいらない。ただ、静かな時間が欲しかった。
大学もこのままだと中退することになるだろう。私には何も残らない。私、何で生きているんだっけ?
お父さん納豆ご飯を食べながらテレビを観ている。笑いながら箸でテレビの芸能人を差指し、お母さんが不機嫌そうな顔で何か言っているから、「箸で人を指すのはよくない」のようなことを言っているのだろう。
納豆の臭いが鼻腔を刺激し、匂いも感じなくなればいいのになあ、と思ったら、生きてる意味ってあるのかなと心の中で呟く声がした。それは本当に私の声なのだろうか。それすらも分からなかった。
私は、食べるのが遅くて冷めてしまった鮭の塩焼きとご飯を口に運ぶ。無機質な塩味。白米のぼやけた甘み。美味しさを感じる能力を失って、何ヶ月が過ぎただろうか。甘いものはいい。甘みは強い刺激となって唾液腺を刺激し、舌の上で溶けるチョコと共に辛さも溶けていくようだった。
ふと目がチカチカした。目眩かな?と思ったが、上を向くと部屋の電気が点滅していた。目眩じゃなくてほっとした。これ以上身体症状が増えるのは勘弁してほしいから。今より重症患者にはなりたくない。
「お母さん、電気チカチカしてる」
私はそう口にしたつもりだ。私の声が、私の耳には届かない。まるで、声が空気に溶けてしまったよう。気持ち悪くて心細く、泣き出してしまいたくなる。
お母さんは大きく頷いた。笑顔はなく、真正面から私を見つめ、視線を合わせ、口を大きく動かした。
『わかった』
多分そう言ったのだろう。でもそれすらも私は想像力を働かせないといけない。読唇術なんて数ヶ月でつくわけないし、音が聞こえなくなったからといってわざわざ筆談してくれるほどの友達なんていなかった。
「私、いつ治るのかな」
気付けば口に出していた。聞こえなくなってから話すことも格段に減ったので、きちんと発音出来ているか不安になる。自分の声、アニメ声ってバカにされたこともあったけど、何だかんだ好きだった。アニメのセリフを自分で言ってみたりして、うん、結構声優っぽいじゃんと心を満たす夜もあった。そのアニメ声を「かわい子ぶってキモ」「耳腐りそう」と言う人もいたけれど、もう気にしてないつもりだし、本当にもう、どうでもいいんだ。
お母さんは箸を止めた。眉根を寄せて、哀しそうに笑った。そしてスマホを取り出し、文字を打つ。画面を見せられるまでの間がすごくドキドキして、聴覚障害の方はこういうドキドキをいつも体験して、生きた心地しているのかなと思った。スマホを打つお母さんの手は、微かに震えていた。
お母さんがスマホの画面を見せてきた。片腕でガッツポーズを作りながら。
『大丈夫!お母さんは怜の味方だよ。ゆっくり治していこう』
「何が大丈夫なの」
考える時間もなく、咄嗟に言い返していた。私の声のトーンはどうなっているのだろう。確かめたくても私が今確かめる術はない。
「いつも大丈夫とかそのうち治るとか、そんなこと言ってられないのに。これじゃあ大学だってもう行けないし、仕事だって出来ない。もう、私…」
言葉が止まらない。思考が止まらない。誰か止めて、と心の中で叫んでいた。
「もう、私、終わりなんだよ」
自分では叫んだつもりだった。アニメ声で叫ぶのはキモイだろうか。今の私には自分の声すら届かないから分からないけど。同級生が私の声を嗤う姿が脳裏に浮かぶ。それは本当の記憶なのか、私の想像なのか、もう分からない。私は私が分からない。
「高校のいじめでこんなことになってるって、先生言ってたけど、そんなの分かんないよ。だってもう終わった話じゃん。もう高校生じゃないのに。もう辛いことなんてないのに…」
苦しい。心を鉛筆で黒く塗りつぶされたかのような圧迫感。息の仕方が分からない。
いじめ、なんて表現するのは大袈裟だと今でも思っている。ただ女子数人に避けられ、聞こえるところで悪口を言われただけ。上履きがなくなることも、教科書に落書きされることもなかった。それでも両親はそれをいじめと呼んだ。だから私もそれに倣っていじめと呼び名をつけたけど、別に私が女子数人から疎まれただけのことだ。なのに、『いじめ』の影は今もなお姿をちらつかせ、私から音を奪っていった。
「終わったことに何で苦しめられなきゃいけないの?私、一生苦しむままなの?それなら、もう、死んじゃった方が楽じゃない!」
過呼吸になってきていた。息が入ってこない。手がしびれてきた。分かりやすいほど私は取り乱している。情けない、と思う。これじゃあ、本当の精神病患者じゃないか。
私は、ただ、音が聞こえなくなっただけなのに。
けれど、部屋で一人でいるとき、部屋のカーテンが揺れたような気がする時があった。カーテンの向こうに誰かがいるような気配がすることがあった。それはきっとかつて私をいじめた同級生なのだろう。そういう確信で頭がいっぱいになって、私はおかしくなっているんだと認めるべきなのだ。
時折理由もなく哀しくなって、消えてしまったら楽なのかもしれないという思考がよぎるのも、おかしいからなのだろう。
「怜」
お母さんは私の名前を呼んだ。聞こえないけど、多分呼んだのだろう。
そして、私の手を取って片手で背中を撫でてくれた。私は椅子に座ったまま前かがみになり、お母さんの胸に身体を預けた。目から涙が溢れて止まらない。私の手を握るお母さんの手は血管が目立って歳を感じさせ、ごつごつと骨が目立っている。お母さんが私を守ってきてくれていた。いじめに遭ったときも、学校に言いに行ってくれた。
お父さんが席を立ち、キッチンへ消えた。お父さん、私知っているよ。お父さんの本棚をちらっと見たら「解離性障害」「身体表現性障害」「トラウマの対処法」「いじめの後遺症」などの本があった。それらの本は昔はなかった。私がお父さんの所有物までも変えてしまった。
お母さんは背中を撫で続ける。目の前にマグカップが置かれた。お父さんが立っていた。お父さんは真顔だった。目尻の皺が深く刻まれ、こんなにおじさんだったっけ、とぼんやり思った。私がもがいてる間にも、両親は歳をとっている。お父さんは柔らかく笑った。ふわっと綿毛が舞うかのような、優しい笑顔だった。
マグカップに口を運ぶ。アイスコーヒーだった。
「普通はこういうときはココアとかハーブティーでしょ」
私は抗議した。そう言いながら、思わず口元が緩んだ。コーヒーの苦味が口の中に広がる。過呼吸になっても動悸はしないものだな、と自分の胸に手を当てた。ドクン、ドクン、という規則的な音。
私の、命の音。
私の身体は生きようと頑張っている。音が聞こえなくなっても、命の音は、今、手のひらで感じている。
耳に微かな振動を感じた。それはやがて輪郭を持ち、ピー、ピー、という音が唐突に耳に入った。私の耳にきちんと届いた。
「もう、お父さん。また冷蔵庫開けっ放し」
お母さんが呆れた声で言ったのもちゃんと聞こえた。お父さんとお母さんが守ろうとしてくれた、高校生の私。私は今、高校生のときの記憶をないがしろにしている。そう、ないがしろだ。気にしていないのではなく、ぞんざいに扱っているだけなのだ。辛い記憶だけでなく、両親が守ってくれた甘い記憶さえも。
アイスコーヒーがマグカップを冷たくし、その冷たさで私の頭はクリアになっていく。言いたい言葉があるはずだ。それを、ちゃんとこの声で言葉にするべきだ。
「ありがとう」
本当に、本当に小さな声で呟いたのに、私の耳にはちゃんと聞こえた。自分のアニメ声、やっぱり可愛くて渡邊は好き。お父さん、ありがとう。お母さん、ありがとう。何よりも、今までの私にありがとう、と思って呟いた。そうしたら常に感じていた『高校の同級生』の気配は少しだけ薄くなり、テレビから流れる流行りの音楽が生き生きとした響きで耳へ届いた。私が高校時代のときは世に出てすらいなかった音楽。あの頃と今は違うんだ、もう高校生の私は過去なんだ、と思ったら、胸で刻む命の音が少し速くなった。