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3-12

 

 タコは泳ぎ続けた。ここで打ち取られてはならない。何としてでも逃げ続け、生き永らえなければ。

 元より自分の命に愛着などない。大事な事は、一人でも多くの人間を害すること。だが、人を害するにはやはり生きていなければならないのだ。

 魔王軍魔物は加減が難しい。普通の魔物とは異なる衝動を内に秘めている以上、命を失う危険には疎い。だからこそ、こんな罠にかかって瀕死になりながら敗走しているわけで。


 それでも、タコは知っていた。人間達は、陸の生き物であることを。

 人は海に干渉する術に乏しい。彼らの輝く金属の乗り物も、鉄の武器も、海の仲間では届かない。普通の肴には鬱陶しい網すらも、この鋭いトゲの前では無力。

 入り江さえ抜けてしまえば奴らは追ってこれない。追えないなら、一度体勢を立て直せる。立て直せれば、また人を襲いに来れる。

 何もこの町でなくともよく、この作戦でなくとも良い。あの男をやれないのは忌々しいが、それでも人を襲えるなら何でも良い。

 今は我慢すべき時だ。


 何やら乗り物の上で人間が鳴いている。

 打つ手がない事を悔やんでいるのだろうか、それとも諦め悪く策を練っているのか。どっちでもいい。

 そろそろ広い海が見えてくる頃合い。海にさえ出れば人は追ってこれない。

 水面を分かつように瞳を半分空中にさらして確認する。やはり、眼前には陸地の無い広大な海が広がっている。

 勝ちだ。タコはそうほくそ笑んだ。


 ふと、背後から音がする。素早く波を掻き分けこちらに寄ってくる姿に一瞬身構えるが、直ぐにその警戒を解いた。

 牙イルカだ。自分が連れてきた、海洋の共犯者たち。安堵に似た感情が、胸をかすめる。

 ここ数週間、実によく働いてくれた。互いの利益の為とは言え、彼らには随分助けられた。

 また彼らと共に人を襲おうか、何とかして繋ぎ止められるだろうか。


 牙イルカの群れに紛れれば、更に人間達は自分には手を出しにくくなる。

 そう思い、タコは牙イルカの群れの中に身を隠そうとした。


 その刹那、タコの身体に激痛が走る。あり得ない、人間達が何か攻撃をしてきたのか

 見れば、共に過ごしてきたはずの牙イルカ達が、白目をむきそうな程恐ろしい目つきで、タコの脚を啄んでいた。


 ---


 水中の標的に攻撃するのは至難の業だ。

 地上から銛で着いたところで深く潜られれば当たらないし、網だって足のトゲが残っていれば破られてしまう。爆発物で攻撃すればこちらの船も危ない。 だからこそ、わざわざ地上側におびき出すという面倒な手を使った訳で。

 しかし相手が水中から出る気が無いのであれば、これも通用しない。 故に、追い付けても何もできない。ただ船でタコの周辺をうろうろする以外何もできない――はずだった。


「本当だったんですね。」

 呆然と船乗りが呟く。ざぶざぶと鳴り響く足元の波は、いつもよりも激しく揺れている。その色は、タコの血で真っ青に濁っている。

 飢えた牙イルカ達。これが、勇者の()であった。


「見ての通りだ。」

 勇者は腹を抑えながらそう言った。そろそろ戦闘時の興奮状態も収まってきたのか、腹がキリキリと痛み始めた。血が流れなければ死にはしない、と傷口を抑え、無理矢理立ち続ける。

「牙イルカが、タコを襲うなんて……奴等は、あの魔王軍魔物の仲間だったはずなのに。」

「仲間じゃない。ただの損得で成り立っている関係だった。」


 牙イルカはタコが連れてきた。ただ、それはあくまで牙イルカを利用して人を襲う為であり、また牙イルカもタコを利用して己の餌を得る為。

 ならば、牙イルカにとっての利得が消滅した時点で、牙イルカはタコへの協力を止めるはず。


 しかし、あの角兎はそれだけでなく、更に冷徹で残忍な手段を考え付いたのだ。

『牙イルカを飢えさせて、あのタコを襲わせましょう!』


 作戦は至ってシンプルだ。

 まずは牙イルカを捕える。そう難しい事ではない、この入り江は既に餌が枯渇していた。そのため、奴らはここ暫く良い餌に在りつけておらず、餌を用意して網にかければ簡単に捕まる。牙イルカは牙が鋭いものの、タコの助けが無ければ単体で網を破ることなど叶わない。

 1匹捕まえられれば、後は更に簡単だ。捕まえた個体をおとりにして、仲間を見捨てられず助けようと度々様子を見に来る仲間の牙イルカ達も、次々と捕えて入り江の一角に閉じ込めた。


 次に、捕まえた牙イルカ達を飢えさせる。ただお腹が空いたくらいではダメだ、飢餓状態で正気を失うまで腹を空かせる。

 生き物は腹が空けば空く程何かを胃に入れようとする。奴らの目が血走り、共食いを始めそうな程に気が立ち始めた段階で、遂に餌を少しずつ投入した。


 蛸である。

 あのタコ型魔物ではない、通常生物の蛸である。

 人が蛸足を食う位だから、当然イルカだって食う。隣町から取り寄せた蛸を、捕らえたイルカ達に少しずつ与えた。


 腹を満たそうと必死に与えられた獲物を食らい、牙イルカ達は死なない程度に生かされる。

 空腹に耐えながら、与えられた蛸を食らい、蛸の血の臭いを覚える。そうして閉じ込められ続けた彼等は、やがて蛸という生き物を食べ物だと認識するようになる。


 そうすれば、後は簡単だ。

 タコ型魔物が逃げ出した時に合わせ、牙イルカ達を解放すると、飢えた牙イルカ達は餌を求めて探し回る。しかし、周囲の入り江にはもう魚はいない。他の牙イルカ達が食いつくしてしまったから。

 そこに現れたのは弱ったタコ。魔物だろうが、自分達より大きかろうが、そんなものは関係ない。彼らの目に映るのは、自分達に身を差し出す様にやってくる上質な餌。

 飢餓の中で覚えた、美味しそうな臭い。蘇る、あの味。見れば奴は武器である足も失い、頭部に大きな傷も負っている。


 最早牙イルカにとって、タコ型魔物は仲間ではない。餌を与えてくれる共生関係にもない。飢餓がそれを上書きし、今となっては只の餌だ。

 魔王軍魔物でない彼らにとって、生存は何よりも優先すべき事柄だから、容赦もしない。人への影響など、考えもしない。

 生きる、それこそが全てだ。


 残った5本の脚は次々に牙に抉られ、穴が開き始める。タコは必死にトゲを出し、まとわりつく牙イルカ達に刺そうとする。だが、身体を刺された程度で彼らは止まらない。身体に大穴を開け赤い血を流しながらも、ひたすらタコ足を齧り続けている。

 タコは明らかに混乱している。魔物仲間だったはずの牙イルカ達に、文字通り牙を剥かれているのだから、そりゃ混乱もする。


 頭部の薄皮が剥がされ、筋肉が剥き出しになる。体液がじんわりと滲み出し、傷口がキリキリと広がる。

 その体液の臭いに興奮した牙イルカ達が、更に勢いよく食いつく。バタバタと尾びれを暴れさせ、本能の苦しみから逃れるように貪り続ける。


 タコの方が身体は圧倒的に大きいが、牙イルカには数の利がある。囲まれて食いつかれれば逃げるに逃げられないだろう。

 だから、このまま放っておいても問題はない。そう思われた。


 波の下に、暗雲が立ち込めた。

 墨だ。タコが、最後の力を振り絞って、墨を吐いた。先程勇者に吐きかけたのと同じ墨を、牙イルカ達に吹きかけた。

 波の下はよく見えない。だが、水上に伸びた牙イルカの背びれがビクンと跳ねた後、動かなかくなった。


「加速!早く!」

 咄嗟の勇者の言葉に、船乗りは慌ててエンジンを掛けた。重い音を立てた船が再び走り出す。

 方向は分かっている。沖の方だ。奴は絶対に沖に逃げる。


 予想通り、タコは必死に逃げていた。沖へ、海へ、人の来ぬところへ。

 勇者はそれを追いかけた。決して逃がさぬ、と。


「勇者さん!どうしますか、牙イルカはあそこでひっくり返っているし……」

 船乗りが焦ったように言う。その通り、万策は尽きた。だが、タコは生きている。まだ、逃げる気力がある。

 勇者は前方を泳ぐタコを睨みつけた。いや、違う、観察した。敵の様子を、動きを、意思を、見抜くために。


 遅い。イルカに貪られたせいで、まともに泳げていない。

 いける。


 勇者は剣を取った。その素早い動きは、船乗りには見えなかった。

 船がタコに近づく。加速した船がノロノロと泳ぎ続けるタコを追い越そうと横切ったその時、

「勇者様!」

 彼は甲板を蹴って海へ飛び込む。

 剣先が水を裂き、タコの頭を正確に貫いた。


 ぷつり、まずは何かが切れる感触がした。

 多分、皮か筋肉だ。タコの頭の柔らかい組織が金属の剣によって綺麗に切り裂かれ、剣身が身へとずぶずぶ沈んでゆく。

 少し沈んだところで、硬い何かに当たった。勇者はそれを貫くように、力の限り、剣を押した。


 硬いガラスを砕くときのような感触。それが、剣越しに伝わってくる。

 ああ、魔石だ。自分は、タコの体内に隠された魔石を砕いたのだ。

 それを認識したと同時に、荒波は収まった。揺らいでいた触手は動きを失い、不気味な瞳は輝きを失った。


「ゆ、勇者様ー!」

 直ぐに船は旋回して戻ってきたようだ。

 御陰で、勇者は牙イルカに齧られることなく、無事に船の上へと引っ張り上げられたのであった。


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