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3-10

 

「勇者さん、あのタコと戦うなら、入り江の中に誘い込むのが良いかもです。」

 本格的に魔物討伐の計画を立て始めた時、ウサギはそう言った。


「何故?別にわざわざ入り江まで入らなくていいだろう。寧ろ入り江には牙イルカたちが入り浸っているのだから、その辺の浜とかの方が安全に戦えるんじゃないか?」

「いいえ、入り江の中にしましょう。その方が、勇者さんにとって有利に戦えるかもしれません。」

 にやりと笑うウサギ。その笑顔には、いつも通りの得体の知れなさがある。


「勇者さん、覚えていますか?入り江の中で沢山の魚が死んでいたことを。あの海が真っ赤に染まっていた様子を。」

「覚えているも何も、現在進行形で海は赤いぞ。何でも工場の奴等が一向に製造を止めないらしい。ま、漁業が死んだこの町で生きていこうと思ったら、できたばかりの製造業に縋りつくしかないからな。御陰で、海が一向に綺麗になる気配がない。」

「そこですよ勇者さん。」

 ウサギがびしっと前足で勇者の顔を指差す。マナーのなっていない奴だと捻り潰した方が良いかと考えるが、話の先が気になったのでやめておいた。


「何がだ。」

「今もなお、工場は製造を止めず、化学物質が川から入り江へと垂れ流されています。そのせいで変わらずこの海には微生物が大量発生し、魚は呼吸できずに死んでいます。……そう、呼吸です。タコも魚と同じ、鰓呼吸です。」

 そこまで来て、ようやく勇者の頭にも理解ができた。


「……あのタコを、魚共と同じく呼吸困難にしろという事か。」

「そういうことです。」

 成程、よく考えられた作戦だ。人に例えれば、空気の薄い高山地帯に誘い込んで戦うようなものか。


「だがなウサギ、そう上手く行くものか?いくら呼吸がしにくくとも、相手は魔物だぞ?魚のように死んでくれるか?」

「別に呼吸困難で殺すわけじゃないですよ。殺すのはあくまで勇者さんです。ほら、タコって心臓が3つあるらしいじゃないですか。心臓が3つもあるということは、それだけ動くのにエネルギーを使っている証拠です。エネルギーを使おうとすれば、当然その分呼吸はしなくてはならないのです。」

 あれだけの筋肉を骨無しで動かすわけですから、そりゃあ呼吸も大変でしょうねえ、と付け足している。


「……そう上手く行くか?タコは呼吸がし辛い事に気づけばすぐに逃げるだろう。俺だって気づけばそうする。」

「そもそも前提として、息がし辛い事に気づく事自体が難しいでしょう。いつも通り呼吸をした上で、水中の成分が不足していることを実感できるものはそうそういません。」

「だがなあ。」

「勇者さん、人も魔物も、知らないことは知らないんですよ。あのタコが、呼吸し辛いのは水のせいだと一発で気づけるでしょうか?いつもより力が出ない、何故か息が荒い、その事象を水そのものと結び付けるには相当な知性と知識が必要です。」

「タコが赤く染まった海を見て、警戒する可能性は?」

「充分にあります。タコは色が見えないそうですが、それでも海を"汚い"、"混濁している"と認識され、そのまま逃げられる可能性は否定できません。」


 勇者はううん、と顎に手をやった。

「それなら下手な事はしない方がいいのでは?逃げられる方が面倒だ。」

「それはそうですがね。でも、私は逃げないと踏んでいますよ。」

「その根拠は?」

「牙イルカです。」


「牙イルカ?」

「ええ、そうです。あのタコは牙イルカを連れてきていたでしょう?タコ自身は入り江内部に来ることはないものの、入り江の状況を念頭に置いた戦術で町の人々を苦しめている。という事は、牙イルカも情報源の1つとして活用していることが予測できます。つまり、彼らの様子から入り江内部の状態を察することはできるはずです。」


「牙イルカの様子……おい待て、変じゃないか?そう言えば、牙イルカって入り江にいたはずだよな?もしも赤潮で魚が死んで漁ができなくなるほど荒れているのなら、何故あいつ等牙イルカは平気で出入りしているんだ?」

「良く気づきましたね、勇者さん。牙イルカとは、要するに牙の生えたイルカです。私、昔本で読んだことがあるんですよ。イルカは、水ではなく空気を介して呼吸をすると。つまり、我々と呼吸器官の仕組みは同じ、そしてタコとものとは異なるという事です。」


 勇者は息を飲んだ。

「つまり、牙イルカは赤潮とは関係なく動けているという事か?」

「そういうことです。そして、その情報だけがタコの耳に上手く入ることでしょう。」

 タコが最初に赤潮を見たとき、確かに戸惑いはするだろう。だがずっとこの地にいるタコは知っている。イルカが入り江内部を我が物顔で荒らしまわっていることを。

 その記憶が、最も致命的な誤解を与える。


「海は濁っていて明らかに様子がおかしい。が、少なくとも牙イルカたちは問題なく自由に動けている。ならば、濁ってはいても生命活動に支障はでない。そう判断を下すかもしれません。」


「死に絶えた魚は牙イルカのせい。牙イルカと共生関係にあるタコには何の影響もない、とも受け取れる訳か。……一理ある。だが、あくまで想像だ。実際はそう上手く行くとは限らない。」

「ええ、そうですね。だから、他の作戦と同時並行で行う必要があるでしょう。あとは、警戒されにくくする工夫が必要ですね。」

「そうだな。……うむ、確かに方向性としては悪くないだろう。後はどんな工夫をするかだが……」


 ---


 水棲動物の生命線と等しい水が。逆にタコの命を削っていく。毒を撒いたわけではない。毒を撒けば入り江の自然を更に破壊することになるから、そんな破滅的な手段を()()()とることはできない。

 思えば、タコもそう言うところまで想定していたのだろうか。だから、これほどまでに怪しく濁った地へと飛び込んできたのだろうか。


 どちらにせよ、これで相手の体力は随分削れた。触手の動きにキレが無くなった。

 一方で勇者は魔力を纏うことで体力を底上げしている。筋力も速度も上昇し、これ以上打ち合えば傷つくのはタコの方だ。


 体を支える脚が減るほど、攻撃も鈍る。この浅瀬で触手を使う攻撃はもう隙だらけだ。結果は見えている。

 だが、タコはそれを認められない。思考の渦が荒れ狂い、焦りと恐怖が絡み合って判断を鈍らせていく。

 思いつく限りの戦法を頭に浮かべているのだろう。それと同時に、こちらも相手の取りうる手段を予測する。タコが必死に戦法を思いつこうと頭を回転させている隙に、勇者はゆっくりと距離を詰める。


 ウサギは言っていた。あのタコは論理的な戦法を取りながら、人の様な感情がある、と。その時は意味が分からないと一蹴したが、今なら分かる。

 感情というものは基本的に生存に必要な能力ではあるものの、複雑な条件下においては逆効果となってしまう。怒り、焦り、恐怖。相手にそれが存在すると分かってしまった今、逆手にとってそれを利用できる。


 こちらへ誘い込んだ時だってそうだ。ウサギの提唱した手法の成功率を高める為に、わざわざこの数週間挑発行為を繰り返し、タコの怒りを高めていた。

 一方で何人かの町人たちは沖から見える桟橋でわざと絶望の声を上げてもらい、それをタコに観測させる。町人に対する優越感と勇者に対する憤怒で奴の感情を乱し、冷静な判断力を奪う。

 そこで、速い船を追わせることで"引く"判断をさせない。プライドがある生き物程一度走り始めた後に止まること、そして逃げていく獲物を諦めるのは案外難しいものだから。


 その作戦は実に上手く行った。結果として、タコをここまで戦闘に引き付けることができた。

 逆に言えば、こちらが抱いている感情は隠さなくてはならない。そうでもしなければ、この知能の高い魔物には簡単に利用されてしまうだろうから。


 じゃぶじゃぶと水面を荒らしながら、静かに歩く。水面をざわめかせ、圧を与え、相手の心を崩すように。

 過度の焦りは集中を阻害し、いつも通りのパフォーマンスを出せなくなる。人への怒りは、敵へ固執させ、逃げるタイミングを失わせる。

 そして恐怖は、相手への攻撃を躊躇させてしまう。


 タコの目が揺れた。断面から流れ出す冷たい体液が海を青黒く染める。

 それでもタコは構えを解かない。その姿はもはや死の淵にあるにも拘らず。


 あと一発。あと一発頭部に大きい一撃を入れれば奴は死ぬだろう。

 だが、タコの頭部は巨大である。浅い水深のせいで体勢を低くしていても、優に勇者の身長の数倍はある。

 それだけ高い位置にある頭部を狙うには、相応の隙が必要だ。

 なんたって、狂暴と噂の魔王軍魔物。ここまで追い詰めても、下手に反撃を一発でも食らえばあっと言う間にお陀仏の可能性もある。


 どうしたものか、と悩んでいると、突然タコが再び動き始めた。

 タコは一瞬だけ静止し、そして覚悟を決めたように体を横倒しにした。脚の間から嘴が現れ、鋭い刃がカチカチと音を立てる。

 挑発の音。決意の音。

 ならば、こちらも応えるまで。再び息を吸い、魔力を込める。多少頭がふらつくが、表に出してはいけない。余裕のある振りをして剣を構え、すっと目線を合わせる。


 タコの前身に力が入り、筋肉が隆起する。嘴を開き、暗い消化器官が顔をのぞかせる。それを見て、同時に剣を構える腕に力を入れる。

 来る。飛んでくる。

 来い、迎え撃ってやる。


 しかし、その先の行動は予想とは違った。

 そのままタコはこちらに飛び掛かってきたが、勇者に飛び掛かるすんでのところでブレーキを掛けたように静止した。何事か、と警戒心を強め、ほぼ振りかぶっていた剣を止める。

 足の間、嘴の丁度下に隠れていたもう1つの気管。筒状に伸びたそれが、勇者の方を向いた。あれは確か漁師達曰く、漏斗と言って――


 咄嗟に勇者はバックステップで後ろに距離を取ると、顔を覆った。敵の面前で顔を覆うなど、本来ならば自殺行為に等しいそれは、この時ばかりは英断であった。

 その瞬間、漆黒の液体が爆ぜ、視界が闇に包まれる。鼻を突く匂い、息を呑むほどの暗黒。


 タコは、墨を吐く。子供ですら知っているそれを、あのタコは最後の最後に繰り出してきた。

 墨は攻撃手段ではない。相手の目をつぶし、視界を奪い、そして、逃げる為の最終手段。


「……おい!船!早く、船を出せ!」

 闇の中で、勇者の叫びが弾けた。

 海風が、血と墨の匂いを遠くへ攫っていく。



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