3-9
ドクドクと血が流れ、水に溶けていく。海水の塩が染みて痛む。
どす黒い血は水に希釈されてしまい、匂いも軽減される。そのせいで自分がどれだけ血を流したかも分からない。
ああ、これは確かに赤潮の赤とは違うな、なんて今考えるべきでないことまで頭に浮かんでくる。
ちょっとばかり油断した。
いや、予想はできていたことだ。
何となく浜から沖側に誘われていたのは、察していた。察した上で、それでも追いかけざるを得なかった。
魔物は自分を倒す為にわざわざ挑発を仕掛けておびき寄せた。二度目も同じ手が通用するか分からない以上、生きて逃すわけにはいかない。
だから多少無理してでも攻撃を続けるしかなかった。
しかし、判断を誤った。
水位が下がっているから多少沖に出ても問題ないと思っていたが、まさか突然水深が深くなるとは。
内陸どころか王都で育った勇者は、海の事情など知らない。教わっていないことは知るはずがない。
その無知が命を容易く奪う事なんて、とっくに理解しているはずなのに。
痛みが意識を刺す。だが、動ける。
レベルアップで強化された肉体は、常人なら即死の傷でもまだ戦える。
痛みなど、興奮と闘志で押し込めばいい。
勇者はすぐさま波を掻き分け、足の着く位置へと移動し、立ち上がった。戦う気概を見せなければ、敵は更に牙を剥く。
手に着いたぬめる血を海水で洗い流し、剣を握り直す。
タコは逃げる様子も無い。当然だ、勇者が傷を負った今、強者は相手の方。
憎き相手を仕留めるチャンスを、みすみす逃しはしないだろう。
「……なんて利口なんだ、お前等魔物は。」
声が震える。恐怖ではない、昂ぶりの震えだ。
「理知的で、合理的。人には及ばないだろうと高を括れば、直ぐに足元を掬われる。」
タコの目は、やはり何を考えているのか分からない。その黒く割れた瞳孔は、世界をまるで別の法則で見ているようだった。
こちらの言葉など理解しないだろう。だが、構わない。この声を投げかけること自体に意味がある。
「……だが、それでも所詮は魔物。お前、人と魔物の違いが分かるか?」
どうせ返事は返ってこない。体内の魔力を高め、血流を無理やり制御する。筋力を一時的に高め、剣身の切れ味を増す。
タコもその様子に警戒心を高め、触手を構える。トゲを最大限見せつけるようにこちらへ向けて、威嚇をする。
一触即発。ふっ、と勇者は笑った。
「人はな、高度な会話ができるんだ。」
一瞬の破裂音。
その瞬間、破裂音。魔力が弾け、視界が歪む。
タコがそれを音として認識したときには、すでに勇者は背後にいた。
鋭い閃光。水飛沫。タコが半回転して振り向くと、一本の触手が消えていた。
ちゃぽんという軽い音。落ちたものを見なくても分かった。
触手の先が、ない。
一瞬。あの一瞬で、勇者は触手を1本切り飛ばした。
その事実が、タコの怒りを一気に噴出させた。
「来いよ、もう1回戦始めようじゃないか。」
勇者の見え透いた煽りに反応し、海が赤黒く泡立ち、タコは再び襲いかかる。七本の触手が嵐のように押し寄せ、勇者を呑み込もうとする。
触手が1本吹き飛ぼうと、残り7本があれば勇者を十分仕留められる。そう思っての物量攻撃だろうか。
次々に繰り出される連打を勇者は軽い身のこなしで避けていく。
当たれば痛いだけでは済まない。既に怪我を負った身では、更なる傷は致命傷になりかねない。
それでも、引かない。一歩も引かずに、寧ろ果敢に攻めていく。
魔力を纏った剣は剣身が延長され、勇者自身の身長を超える長さを持つ。そのリーチの長さは普通の人にとっては無用の長物であろうが、勇者にとってはその限りではない。
波間を踏み、刃を走らせる。魔力を纏った剣が空気を裂き、伸び上がる。光の剣身は触手の棘を貫通し、奥の筋組織を断ち切った。
タコに声帯は無い。悲鳴を上げることもできず、ただ身体をブルリと震わせ、吸盤が一斉に収縮した。
思わず触手を引っ込め、痛みで新たな触手を突き出すことも躊躇する。その隙を、見逃さない。
水を踏み切り、跳ぶ。水しぶきが弧を描き、勇者の体が宙を舞う。
空中で1回転――薙ぎ払いをかわし、その勢いのままタコの背後に回り込む。
狙うは、頭。
骨のないタコにとって、トゲの無い頭部は弱点である。なんたって硬い骨にも鱗にも守られていない、柔らかい弱点であるから。
『触手へ暫く攻撃した後は、不意打ちで頭部を狙いましょう。最初から頭部を狙えば警戒されてしまいますが、触手ばかり狙えば触手を守ろうと意識してしまうでしょうから。で、隙を突いて弱点を攻撃しましょ!』
ふざけた口調のウサギの言葉が蘇る。正に奴の言った通りで、タコは自身の隙を晒した時、頭部を守らずに触手を引っ込めてしまった。
何故なら、既に感じていた触手の痛みに怯えてしまったから。弱点を攻撃される可能性よりも、目先の苦しみからの解放を優先してしまった。
刃が肉を断つ。
濁った体液が噴き出し、海面に広がる。
タコの身体がのたうち、海が揺れる。
バチャ、と重い音を立てて勇者は水面へと着地する。傷のせいで若干身体がふらつくが、問題ない。ダメージを追っているのは自分だけじゃない。
すっぱりと頭部に大きな斬り込みが入ったタコは、酷く混乱している。傷口から見たことも無いような鈍い色の体液が漏れ出している。そういえば、タコの血は赤くないと聞いたっけ。
タコの瞳が濁る。何度も水を吸っては吐き、苦しそうに体を揺らす。
それでも生きている。吸盤が膨らみ、棘が逆立ち、殺意が露わになる。
殺す。絶対に殺す。その意志が、水の底から響くように伝わってくる。
殺意を向けられるというのは、本来恐ろしいものである。人どころか犬ですら殺す気で威嚇されれば怖いのに、それが自分よりもずっと図体の大きい魔物から向けられればひとたまりもない。
恐怖で動けなくなるのが普通だ。勿論、勇者は普通ではないが。
「そろそろ終わらせようぜ。お前も疲れて来ただろう。」
勇者は殺意を向けられ慣れている。だから、こういう時の対処は慣れている。
殺意には殺意で返してやるのだ。
タコは突如、後ろへひっくり返るように倒れたかと思うと、次の瞬間、脚の中心から鋭いトゲを見せつけるようにこちらへ突き出した。
嘴。脚の根元に隠された、甲冑の継ぎ目のような二枚貝じみた口器。どの触手のトゲよりも鋭く、光を反射して禍々しく輝いていた。
それがゆっくりと開き、真っ黒な空洞を晒す。そしてタコは咆哮のように水を押しのけ、勇者を呑み込まんと突進した。
海水が弾け、波が巻き上がる。速い。重い。広い。この浅瀬では、人間に逃げ場などない。
だが、勇者は避けなかった。
代わりに、小さく息を吸い、腹に力を籠めた。裂けた筋肉が悲鳴を上げるが、構わず剣を構える。
敵が突っ込んでくるなら、それは迎え撃つ機会でもある。このチャンスをみすみす逃すわけにはいかない。
鋭い嘴の隙間の奥、真っ黒な空間。消化器官への入り口――ではなく、そこから少し外れた1本の足の根元。狙いを定め、光を纏った剣で迎え撃った。
タコの飛び上がる音、そして着水する音。その間、金属が触れる様な音は一切しなかった。木枯らしが吹くよりもずっと小さな音が耳元を通るかどうか、その程度の小さな気配だけを残し、勇者の剣は振るわれた。
何だ、狙いを外したか。そう思ったタコは体勢を変え、再び勇者に牙を剥く――はずが、急にガクッと身体が斜めに傾いた。
何故、どうして、慌てて体勢を元に戻して起き上がろうとするが、何故か力が入らない。いや、力が入らないのではない。体を支えるべき脚が無かった。
2本、触手が根元から切り飛ばされていた。
これで三本。残りは五本。
タコは水を激しくかき乱しながら、焦燥に満ちた目で勇者を見た。
なぜ、いつの間にこれほどまでに追いつめられてしまったのかと。
今まではタコの方が優勢であった。勇者だって深い傷を負っている。だと言うのに、当の本人はまるで平気な顔をして剣を振り回しているのだ。
いや、違う。寧ろ、傷を負ってから動きが速く、力が強くなった。理解ができない。
その異様さに、魔物の瞳に恐怖が宿る。必死で弁から水を吸い上げ、乱暴に吐き戻す。荒くなった呼吸を整えようとするが、上手く行かない。
そこで、ようやく気が付いた。いつもよりも、妙に息苦しいと。
タコは普段から動き回っている。自分の体力の限界は理解しているつもりだ。どの程度動き回れば息が上がるか、呼吸をどれ程繰り返せば疲労が取れるか、それ位は熟知している。
だと言うのに、いつもよりも体力が無い。苦しい。水を何度も循環させるが、一向に息苦しさは消えない。
何故?
……そんなタコを勇者は冷ややかに見つめている。というよりも、静かに観察している。水の中で軽くもがきながら必死に呼吸をする様子を見て、寧ろ納得したような表情をした。
ああ、これもあのウサギが言った通りなのか、と。
勇者がわざわざタコをおびき出し、この入り江の中まで呼び込んだ理由。
それが、この海そのものである。