3-7
勇者が町に到着してから数週間。
勇者は今日も海を眺めていた。
彼が熱心に調べものをしていたのは、最初の数日だけだった。それ以降は「作戦を考える」と言って部屋に籠もるか、こうして海をただ眺めるばかり。
時折、船乗りたちと何やら話をしているようだが、その内容までは自分には分からない。いちいち耳を傾けるほど、こちらも暇ではないのだ。
だが町は日に日にやせ細っていく。海産物が取れねば、人々は生きていけない。
焦燥だけが募り、心に積もっていく。
そんな切迫した状況でも勇者は未だに陸から動かず、魔物討伐に向かおうとしない。領主である自分の堪忍袋も、そろそろ限界に近づいていた。
「勇者様。そろそろ、何とかしていただけませんか。」
言葉遣いだけは丁寧を装ったが、声には苛立ちがにじんでいた。
当然だ。領民は今も飢えと恐怖に喘いでいるのに、勇者は何一つ手を下していないのだから。
「人々が苦しんでおります。怯えるお気持ちは分かりますが、どうか勇者様のお力を示していただきたい。」
「……ええ。」
勇者は生返事を返すだけで、視線を海から外さない。その瞳に何が映っているのか、自分には皆目分からなかった。
「勇者様、何を見ておられるのです?」
答えのない沈黙に苛立ち、彼の目線を追う。
見えるのは何の変哲もない水平線。穏やかな波が寄せるだけの海――。
だが違う。海面の下には、赤黒いものが蠢いていた。
あれは赤といっても熟れた果実のような鮮やかさではない。血を連想させる、澱んだ赤黒さ。
実際、あの魔物は幾人もの血を啜っている。討たねば町は滅びる。
どうすれば良いのか――その問いに押し潰されそうになりながら、ここひと月ずっと考え続けてきた。
「……そろそろか。」
海風に掻き消されそうな、かすかな声。それでも自分の耳には、やけに意味深に響いた。
「そろそろ……何がです?」
勇者は答えず、立ち上がる。
「討伐ですよ。」
「……ようやく、その気になってくださったのですか。」
思わず声を強めると、勇者はきょとんとした顔をした。
「ようやくも何も、最初からそのつもりでしたよ。」
「ご冗談を。それなら今まで何をしていたのです。安全な陸から眺めていただけではありませんか。」
「まあ、そう見えてしまうでしょうね。ですが、必要なことは済ませていました。」
「……必要なこと?」
「ええ。魔物退治のための準備ですよ。」
そう言い残し、勇者は返答を待たずに足早に立ち去っていった。
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作戦を立てるのに3日、準備に2週間。
「ここまで粘れば大丈夫でしょう。」
「本当だな?お前を信じるぞ。」
「魔物を信じてくれるとは光栄ですね。」
「その言葉で信じれなくなってきた。不安だ。」
ケタケタと笑うウサギに、勇者はデコピンで返してやった。人の身とは思えない程に怪力な勇者のデコピンは、非力なウサギを身体ごとぶっ飛ばした。
「勇者さんが死んでも私に得は無いですから。寧ろ、貴方が死ねば私だって死ぬ可能性が高いんですよ。この町の人に兎鍋にされるか、上手く町から逃げ出しても野生で生きていくことはできないでしょうし。」
「だろうな。お前は合理に基づいて行動するから、裏切るようなことはしないだろう。……と思ったが、お前が魔王軍魔物で、俺を殺そうとしている可能性もあるな。やはりお前は信用できない。」
「もし私が魔王軍魔物なら、前回経験値ファームに乗り込んだ時に上手いこと殺してますよ。勇者を殺すならレベルが低いうちじゃないと、殺せなくなっちゃいますからね。」
確かにな、と勇者は笑った。
「ま、作戦を信じるかは勇者さんに任せますよ。どうせ私にできることはもうありませんから。」
「ああ、上手くやるさ。」
何も盲目的に信じている訳じゃない。ウサギの話を聞き、実験と議論を重ねた上で決めた作戦。
ウサギの意見はあくまでアイデアとして取り入れたまで、主導権はこちらにある。
いつもより軽い鎧を身に纏い、細身の剣を握る。
ふう、と息を吐き、気合を入れる。
緊張はする。負ければ死ぬから、勝たねばならない。
だが、そんなのいつものことだ。経験値ファームの時だってそうだった。
これからもそうだ。この先ずっと、このやって生きていくし、慣れて行かねば。
「勇者様、行けますか?」
「はい、行けますよ」
不安そうな船乗りが、震える手で操縦席に乗り込んだ。彼にはこの町にいる間ずっと世話になった。御陰で良い作戦が立てられた。
レバーを引き、小さな船が動き出す。エンジンのけたたましい音と水泡のくぐもった音がシンクロし、身体を揺らす。
「やるしかないよなあ。」
気乗りはしない。成功する保障はない。
やる価値はある。いざという時の撤退方法も残してある。
必要なのは、覚悟だけ。
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その魔物、タコはうねる触手を携え、海からじっと陸を見つめていた。
陸では毎日のように人が嘆き、苦しんでいる。それを眺めるのが、タコにとっての幸せであった。
何か理屈がそこに在る訳ではない。生まれた時からそうだった。
感情に、理屈を考える必要はない。何故なら感情とは、自然が既に理屈を考えた結果であるからだ。
しかし、その幸せを脅かす者がいる。
あの男だ。
剣を持ち、鎧を纏った若い男。船乗りとは違う臭いを纏っている。
あれは、魔物の血の臭い。強者の臭い。
それが、度々タコの領域を荒らす様に船に乗っていた。
タコは、己が賢い事を自覚している。
殺せる者は殺すが、殺せない者は殺さない。それだけでなく、殺すよりも価値がある方法を選ぶことだってある。
思考とは、目の前の時間軸を超えることであり、過去を踏まえて未来を予測する事である。
将来的に見てより多くの人を殺せる方法を、そして同時に己の快感を得る方法を、タコは経験的に知っていた。
人は生き物であり、他の生き物と同様に、食べねば生きていけない。
海辺に住む人は奇妙な乗り物を使い、魚を獲って生きている。だから、魚を獲る手段を奪えばゆっくりと餓死していく。
そのはずが、突然現れたあの妙な男だけはぴんぴんしていた。それが、気に食わなかった。
あの男はたまに岸に現れてはこちらを挑発してくる。こちらには手も足も出ない癖に、やたらと威勢よく何かを叫び、魔力を発散する。
タコに人の言葉は理解できぬ。だが、馬鹿にされていることくらいは分かる。
一方で、あの男以外は嘆き、苦しむ様子が伺える。たまにこちらへ同情を誘うように叫ぶ者も居る。
その様子を見て、タコは快感を感じる。だからこそ、あの男の所作だけが完璧でなく、余計に苛ついた。
どう調理してやろうか。
そんな殺意を滲ませていた時、遂にチャンスが訪れた。
いつものように粗末な船に乗り、こちらに近づいてくる。
しかし、奴が居る位置はいつもとは少し異なっていた。
奴はいつも、岸からやってくる。岸から来て、こちらが追うと岸へ逃げかえる。
それが、今回ばかりは入り江からやってきたのだ。
まるで、自らを入り江へ誘うように。
罠であるとは気づいている。
あの男は、自分を殺す気だ。そのために、奴が戦える土俵へと手招いている。
行けば、殺される可能性がある。
しかし、それは逆に言えば、奴を殺すチャンスですらある。
奴は決して海には来れない。自分は陸に上がれない。
住処が異なる我々が唯一交わるチャンスが、今だ。
奴を追う。ひたすらに追う。
今までひっくり返してきた船よりもずっと小さい分、軽く早い。魚を獲る装備を持たないせいか。こちらが全力を出して追っても、中々追い付かない。
奴は賢い。油断をするな。
やがて、水深は徐々に浅くなり、船の進みが悪くなる。船が座礁するかと思われた次の瞬間、奴は勢いよく船から飛び降りた。
船が傾く程のジャンプ力。その脚力で、男は砂浜へと飛び降りた。男を下ろした船は颯爽と逃げて行ったが、今はそんな小物に興味はない。
水深は奴の股下程度。自分は空気中の重力で動きにくく、奴は水の抵抗で動きにくい。
そういう意味で、丁度ここが公平なラインだろう。
良かろう、ここで決着をつけるとするか。
死ぬかもしれない。それでも、リスクを取らねばならない。
生まれた時から決まっている。
自分がやるべきことは生き残る事ではなく、殺すことだ。