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町はどれだけ寂れていようとも、空は青く透き通り、遠方で入道雲が腕を組んでいる。
湾口を歩きながら上を向いていると、足元の石畳で躓きそうになり、慌てて地に目をやる。
「そうか、やはりあの赤は血ではなかったんだな。」
隣を歩いていた男は納得したように、何度も頭を小刻みに縦に振っている。だから俺は違うと思ったんだ、と何やらブツブツと言っているが、そのほとんどは聞き取れない独り言だ。
今は異変のせいで仕事を失い、当てもなく町をぶらついていたところを、勇者が声をかけたのだった。
領主の屋敷を出た勇者は、すぐさま町へ向かった。目的はもちろん、情報収集だ。
しかし、調査は難航した。町には人通りがほとんどなく、出会った人々も皆俯き、暗い表情をしていた。話しかけても、曖昧な返事と小さな会釈だけで、まともに話を聞ける状況ではない。
彼はその中で唯一勇者の言葉に反応してくれた。というよりも、どちらかと言えば、彼は自分の愚痴を聞く相手を探していたという方が正しいだろう。
いずれにせよ、勇者にとっては有難い事だ。
ざっと聞いた中で分かったのは、この町の多くが漁業に従事しているということ。そして、魔物と赤潮の影響で漁ができなくなり、住民たちは困窮しているということだった。
「やはりという事は、気づいていたのですか?あの海が血で染まっている訳ではないことを。」
「そりゃ、俺等がやっているのは魚と向き合う仕事だ。魚の血抜きをしていりゃ、あの海の赤が血ではないことくらいわかるさ。」
「では、何故あんな噂が?」
「港に来てた商人連中がな、真っ赤な海を見て血と勘違いして……それが領主や、血を見慣れていない町の人にまで広まって、ああなったってわけだ。……ま、原因が分からなかった分余計に俺等が混乱する羽目になったがな。」
成程、と勇者はため息をついた。
原因は分からなくとも、あれが血ではないことくらい皆うすうす知っていたらしい。あのお騒がせな領主め。
「しかしまあ、赤潮って言うのか。勇者様は色んなことを知っているんだな。俺等海の住民ですら誰もあの現象を説明できなかったのに。」
「本で読んだだけで、実際に見たのは初めてですよ。」
心の中で領主に対する毒を吐きつつも、勇者は表情を穏やかに保ち、落ち着いた口調で返す。
こういう裏表の使い分けは、戦闘と同じくらい得意だ。
「勇者様は戦うだけでなく、いっぱい勉強もしているんだなあ……ああ、あれだ。」
領主は沖の方へ指を差す。
「あそこに生き物の影が見えるだろう。あれが魔王軍の手下だ。」
指の先を辿ると、その先は入り江から少し離れた海上。一見すればただ波が立っているだけだが、よくよく目を凝らしてみれば、時々黒い影が海中を泳ぎ回っているのが見える。
じっとそのまま見つめていると、急にその影が大きくなり、白い水しぶきと共に空中へと飛び出した。
流線型の大きな体躯に、つるりとした体表。緊急時のホイッスルを連想する高い鳴き声に、突出したヒレ。
その中でも一際異質な、口からはみ出る程の牙。
「イルカ……」
勇者の声に、漁師はああ、と低い声で返事を返した。
「あれは牙イルカって言ってな、イルカ型魔物の一種だ。普通のイルカより力が強くて、群れを成して動く魔物だ。あの巨大な牙は魚だろうが人だろうが関係なく骨まで嚙み千切る。」
牙イルカは海上でキュイキュイと鳴き続けている。次第にその声に呼応したのか、同じような影が幾つも周囲に現れた。
「ほら、見て見ろ。あいつらはいつも群れで暮らしている。牙イルカは普段もっと沖の方で海洋を泳ぎ回るような魔物で、この入り江内に侵入してくることも無かった。それが今や、こうして陸地近くの浅瀬に現れるようになっただけでなく、入り江の内部にまで侵入するようになったんだ。」
「その結果、牙イルカが暴れ回ったせいで人や魚が襲われるようになったと?」
「ああ、そうだ。御陰で俺も生計を立てていけやしない。……海が真っ赤になった理由は分かっても、結局は牙イルカが海を荒らしている以上、漁場は元には戻らないからなあ。」
漁師は悔しそうに唇を噛んだ。
カツカツ、と石畳の上をテンポよく歩いていく。岸を見れば、幾つものの無人の船が杭にロープでくくりつけてある。
本来ならば、この船は漁に使われるはずのものだったのだろう。どれ程の間、使われずにここに括り付けられていたのだろうか。いずれも手入れされることなく寂しそうにぷかぷかと浮いている。
「なるほど、つまり魔王軍の魔物は牙イルカであった、と。」
取り合えず敵の情報はつかめた、と頷く勇者に対し、漁師は首を振った。
「いや、魔王軍の魔物はあいつ等だけじゃない。あいつ等だけなら、どれ程良かったことか。」
「どういうことです?」
「あいつ等にはボスがいるんだよ。この町にやって来た魔王軍を取りまとめる魔物のボスがな。」
漁師がそう言った瞬間、突如海にひときわ大きい影が現れた。まるでタイミングを計っていたかのような登場だった。
牙イルカの細い影とは違った丸い影は、そのまま空に突出するようにその姿を現した。
水中に隠れていた丸い身体が露になり、それに伴って四方八方から長く鋭い槍が空気へ突き刺さり、そして曲線を描いてうねった。
いや、あれは槍ではない。触手だ。触手が球体の周囲をくるりと回り、周囲に水しぶきを撒き散らす。
球体状の左右についた金色の眼球には、黒い横線が1つ。偶蹄目と同じ、横長の瞳孔だ。視線の先は分かりにくいはずなのに、ちらりとこちらと視線が合ったように感じたのは、果たして気のせいだろうか。
2人が言葉を発する間もなく、直ぐにその姿は海へ沈んで消えていき、その場には沈黙だけが残った。
「……巨大なタコ、ですか。」
一瞬だったが、その異質な姿が脳裏に焼き付いた。タコは食用として一般人にも広く知られている。が、あの大きさのタコは見たことも聞いたことも無い。
魔物は一般生物よりも大きくゴツくなる傾向がある。遠目でパッと見た印象としては、まさにその法則を体現したような姿だった。
勇者にとって魔王軍所属の魔物は駆逐対象であるが、一般人にとっては災害にも等しい。町中にあれだけの絶望が漂っている訳だ。
「ああ、あれだよ。あの巨大なタコ。海洋に出る連中も見たことが無い魔物だ。あれこそが今回攻めてきた魔物達の親玉だ。あの巨大なタコ型魔物は牙イルカ達を引き連れて。この町へやって来たんだ。」
「なるほど、状況は理解しました。1匹の巨大なタコが大勢の牙イルカの群れを海洋から引き連れてやってきて、この入り江内部に侵入し、そして手当たり次第に人や魚を襲っていると……」
勇者は手元のメモ帳に乱雑な文字で書いていく。肩のウサギがメモを覗き込むも、その文字の乱雑さに呆れている気がする。
「具体的に、どのように暴れるのです?」
「あの巨大なタコは常に沿岸部で入り江と浜を見張るように陣取り、他の牙イルカたちは入り江内部と沿岸部を出入りしながら泳ぎ回っている。入り江内は牙イルカ達が荒らしているし、その――赤潮のせいで海産物が殆ど取れない。一方で、町から沖へ船を出そうとすれば、タコの触手に引っ掛けられて、手あたり次第ひっくり返される。そのひっくり返された船に乗っている船員たちは皆海へ投げ出され、全員魔物の餌さ。……そんな訳で、入り江内部でも沖でも漁業ができない状態が続いている。」
「魔物の割に組織で戦略的な行動をとるのですね。分かりました。」
取り合えずの情報はこれで集められた。宿屋に戻って整理した後、また気になる点は調査を続けよう。
そう思って一旦はお礼をいうものの、漁師の顔は不安に歪んだままだ。
「なあ勇者様、本当にあの魔物達を討伐できるのか?だって奴等、海の中を泳ぎ回っているんだ。その鎧は海に入れば沈むし、剣だって水中では振れないだろう。船も出せない以上、奴らに攻撃する手段がないんじゃないか?」
「……それはこれから、作戦を立てていきます。」
「勇者様、頼むよ。」
その声は懇願にも、一種の諦めにも聞こえる。
実際のところ、かなり無茶な話には違いない。違いないが、勇者たるもの、魔王軍の魔物は討伐せねばならない。
やれるかどうかではなく、やらなければならない。
勇者は心の中で再度舌打ちをすると、漁師にお礼を言い、その場を後にした。