3-1
キュイキュイ、と聞きなれない鳥の鳴き声で、勇者は目を覚ました。
変な寝方をしたのだろうか、身体がカチコチになっている。起き上がって欠伸をしながら体の節々を回し、固まった体をゆっくりとほぐす。
小石を敷き詰めた乱雑な道路の上で、ガタガタと揺れている屋根付き荷馬車の寝心地は最悪だった。それでも、疲れているのならどこでも寝れる。それが自分の良い所であると勇者は認識していた。
宿屋の布団程疲れは取れなくとも、少なくとも、余計に疲労が溜まることは防げた。
今どの辺りだろうか。それを確認しようと、荷馬車のかけ布をちらりと持ち上げる。その瞬間、眩しい日差しが照り付けるように薄暗い荷台へと差し込んだ。
山や森の中ではあり得ない程に強い光。それが即ち目的地に近いという事を示している。
雲一つない快晴。その空を我が物顔で渡りゆく鳥達。
山の中とは違う、うっすら香る潮風。遠くで繰り返し鳴り響く、壮大な水の打ち付けられる音。
人生で初めて知る感覚。勇者の鉄の心も、この時ばかりは少し昂った。
「ウサギ、そろそろつくぞ。」
その言葉に、荷台の荷物の上で寝転んでいた角兎の身体がピクリと動く。
眠そうに眼を開くウサギに、太陽光が当たるように布を大きく開いてやる。勿論、嫌がらせのつもりで。
「ま、眩しい……」
「お前が散々来たがっていた場所だぞ。ほら、外を見ろよ。」
その言葉に、よたよたと歩きながらもウサギは勇者の元へと寄る。が、開いた布の隙間から外を覗くと、ウサギの目はみるみる大きく広がった。
「わあ……」
無限に広がる水の流れ。山とは違う、平坦ながらも広大な自然。
その深さは全てを飲み込むように寛大であり、恐ろしい。
海。
それが、視界いっぱいに広がっていた。
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「ようこそおいでくださいました、勇者様。」
借りていた荷馬車から降り立った勇者を出迎えたのは、どこか腰の低そうな男爵であった。
傲慢な態度がデフォルトの貴族にしては珍しく、どことなくおどおどとした気の小ささを感じさせるような態度に、勇者は多少なりとも戸惑った。
「このような辺境の地まで来てくださり、ありがとうございます。ささ、どうぞこちらへ。」
男爵自ら勇者を自らの屋敷へと案内する姿勢。しかも屋敷の前ですらなく、そこから少し離れた町の入り口で勇者を待っていたという位だから、おおよそ貴族とは思えない。
勇者は不審がりながらも案内されるままに、男爵の後ろをついて歩いた。
前回訪れた町の様な都会でなければ、町の外と内の境界は曖昧だ。
巨大な城壁どころか小さなフェンスすらもない。ただ家が連なっている中心部から次第に建物の密度が疎らになり、そして大自然の領域へとシームレスに繋がっていく。
要するに、田舎である。
とはいえ、この町は全くの寂れた田舎という訳でもないはずだ。それなりに人流も物流もある。
男爵が治める土地としてはそれなりに良い立地と言えるだろう。税が程よく見込めるという意味で。
なんたって、この土地の最大の特徴は、その地形である。
この辺りは海を囲うように陸地がある。或いは、土地を削るように海が侵食しているとでも言おうか。陸と海が入り混じるその形は入り江と呼ばれており、浅瀬となっている部分には多種多様の海生生物が棲んでいる。
魚介、エビカニ、タコにイカ。人が食べていくのに困らないどころか、国全体に物を輸出する余裕すらある。土地の大半が内陸であるこの国では、貴重な海産物が取れる町にとして有名なほどに。
更に、ここは港町としても有用で、商船の補給所としても知られている。
小さな町ではあるが、大きな都市を繋ぐ海路として重要な場所である。そんな訳で、様々な商人や貴族がこの地を利用させてもらおうとすり寄ってくるのである。
この町の領主は男爵なれど、実際のところその地位はその辺の子爵よりもずっと高い。ふんぞり返って鼻が上を向いていてもおかしくない位だ。
それが、勇者にここまでぺこぺこ頭を下げている。
正直言って、嫌な予感しかない。
「何か、あったのですか?」
そう聞いてみれば、男爵は分かりやすい程に体を跳ねさせた。
「いえね、丁度勇者様に頼みたいことがございまして……しかし長くなりますから、その話は後程……」
何とも歯切れの悪い言い方で誤魔化しながら、男爵は歩きを速めていく。
心の中で、ため息をついた。
町に入れば、そこには小さいながらも活気のある風景が広がっていた――はずであった。
がらんとした建物、人のいない商店街、何より思いつめた顔で下を向く、生気の無い人々。本来ならば新鮮な海産物が売られているであろう魚市にも人はおらず、閑散とした空気が漂っている。
正に、寂れた町というべき姿。
ああ、やっぱり面倒事じゃないか。
次第に領主の屋敷が見えてくる。今まで出会った貴族の例に漏れず、豪華で広いつくりをしている。
その広い屋敷に入り、使用人に出迎えられながらも無言で歩き進める。不愛想な執事に代わって愛想のいい主人に応接室に通された後、勇者に目の前のソファーに座るように促した。
馬車での長旅で凝り固まった尻が癒されるほどに柔らかいソファに、勇者はそっと身体を預けた。
「……魔王軍が、来ているのです。」
領主は思いつめたような顔で、静かにそう口にした。
「そうですか。」
予想はできていた。何も、珍しい事ではない。
戦時中である以上、敵軍が直接攻めてくるのはよくあることだ。それを食い止めるのが、対魔王軍、そして勇者の役目である。
「国には報告を?」
言外に、「対魔王軍に何とかして貰え」と言ってやれば、領主は曖昧に首を縦に振った。
「ええ。……しかし、返事は芳しいものではなくて。」
何とも煮え切らない返事に、勇者は若干苛立った。
「どういうことですか?」
「対魔王軍は北部の防衛で忙しく、こちらには中々来れないと言うのです。」
それは妙な話だ。対魔王軍は王国全土を防衛する軍だ。たとえ北部が忙しかろうと、魔王軍所属の魔物が出没しているとなれば、どこにでも派遣されるはず。
ここが田舎だからといって軽んじられている? それは考えにくい。この町がどれほどの影響力を持っているか、対魔王軍の上層部が知らないとは思えない。
「それは困ると返したら、『それではもう直ぐ勇者様がそちらに向かうだろうから、勇者様に対応を要請するが良い』、と。」
たらい回しのババを引いた。
「……厄介な相手なのでしょうか?」
直球にな質問をすると、再び領主は曖昧な顔をする。
「ええ、まあ。魔物の数自体はさして多くはないのですが……如何せん条件が悪くて。」
「条件が悪い?」
「なんせ、魔物が海の中を自由に泳ぎ回っているのですから。」
勇者はああ、眉に皺を寄せて唸った。
対魔王軍が渋った理由が良く分かる。できれば勇者だって渋りたい。
それ位に、水中戦というのは無謀だ。元より人は水中で戦えるようにできていないし、そんな訓練を受ける人はほぼいない。
生まれてきた時から泳ぎ続けている生き物とは勝手が違う。相手の土俵で戦って勝てる見込みはまずないだろう。
「事情はよく分かりました。……しかし、海洋型魔物ですか。」
「水中における戦闘が困難だという事は重々承知しております!しかし、このまま放置しておくわけにはいかないのです、……あの魔物のせいで、この町は滅びかけています。」
領主は必死の形相で勇者の肩を掴んだ。その手は、強引に押しつけるというより、まるで縋りつくようだった。
「あの魔物は、船をひっくり返すのです。乗っていた人々は海へ投げ出され、そのまま配下の魔物に喰われてしまいます。そんな状態では、まともに船も出せません。海に出られなければ、特産の海産物も採れない。この町を経由していた船も、今ではみな別の港を選ぶようになってしまいました。……そして何より、あの魔物は、人も魚も見境なく喰らうのです。」
「人も魚も?」
「ええ、ご覧になって頂ければわかるかと思います。あの、人と魚の血に染まったおどろおどろしい海を。」