漆黒の魔女〜ノクス=キュンティアの星乙女〜
古くから小高い丘の上、大樹の横にある屋敷。
そこは代々の主とともに、人々の移り変わりを見守り続けた場所。
普段は薬を調合し、街の人達に溶け込んで生活してきたその一族の名は
『ノクス=キュンティア』
街から少し離れた場所にある屋敷ではあるが、日が高くなる頃には、人の出入りが盛んになる。
ノクス=キュンティアは質のいい薬を調合し、その人々の賃金事情を踏まえた値段で提供してくれるのだ。
こんなにも良心的な薬師はいない、と、街人は口を揃えて言う。
今日はいつもよりも人の出入りも多い上に、皆、手に何かを持って屋敷を訪れる。
ある人は花束を。
ある人は髪留めを。
ある人はハンカチを。
思い想いのものを持って、屋敷の扉をくぐっていた。
「おめでとう!」
「16才、おめでとう!」
よく晴れた今日。
16年前に生を受けた少女。
名を、アストレア・ノクス=キュンティア。
街の人達からはアストの愛称で親しまれている。
産まれてすぐは、アストレアの赤と青の目を気味悪がっていた者もいたが、今では宝石のようだと褒める者ばかりだ。
「おめでとう、アスト!」
「おめでとう、今日から一人前の薬師ね!」
皆が口々に、アストレアを祝福した。
幼い頃に両親と死別し、この屋敷に祖母と二人で暮らしていることは、街の人たちならば誰もが知っていた。
そして、薬師として働く祖母に憧れ、アストレアが一生懸命に勉強していたことも。
「ありがとう、みんな!これからは私が、皆を守るからね!」
たくさんの笑顔に囲まれて、アストレアも喜びに目を細めた。
こんなにも、気を配ってくれる街の人達。
今までは、守られてばかりだった。
自分の誕生日を皮切りに、ようやく恩返しができるのだ。
今日ここで見た、たくさんの笑顔を絶やすことは絶対にしない。
アストレアは、自らの胸に強く、強く誓った。
やがて日が沈み、屋敷に静寂が訪れる。
夜の帳が下がれば、それは合図。
「アスト、準備はいい?」
「いつでも良いよ、おばあちゃん。」
おばあちゃん、こと、テイアー・ノクス=キュンティアは、満月が照らす大樹の下で、アストレアと向かい合っていた。
テイアーは齢68とは思えぬほど、若々しい容姿を保ち続けていたが、それには理由があった。
「おばあちゃん、本当に私が“漆黒の魔女”を継いでもいいの?」
「もちろんよ。それに、この魔女の正装が着たかったんでしょう?」
「…そう、だけど…。…でも、私が漆黒の魔女になったら、おばあちゃんは…。」
漆黒の魔女。
それがこの、ノクス=キュンティア一族に伝わる最大の秘密。
女神に祝福され、領地の守護を任されており、テイアーが纏う魔女の正装もそれである。
街の人々は言い伝えと思っているが、それこそがこの一族の使命。
その使命を受け持つものは、変わりに不老を得ることができるのだ。
だが、それは一族の中でもただ一人にしか継承されない。
アストレアが引き継げば、テイアーは漆黒の魔女ではなくなってしまう。
不老を得ることができず、急速に老いていくだろう。
「……本当は私の娘であり、貴女の母、エーオスが継ぐはずだったのだから…。私は長く漆黒の魔女であり過ぎたのよ。アストが継いでくれるのなら、安心して引退できるわよ。」
テイアーの黒髪のボブヘアが、サラリと揺れる。
アメジストのような美しさを持つ紫の瞳が、アストレアを慈しむように見つめる。
魔女の正装の裾を蹴って、テイアーはたった一人の、最愛の孫へと手をのばす。
「お、おばあちゃん!?」
「大きくなったわね、アストレア…。」
テイアーはぎゅうっと、ありったけの愛情を込めてアストレアを抱きしめた。
アストレアの、祖母譲りの黒髪。
ノクス=キュンティアでは、女性は黒髪しか生まれない。
その中でもアストレアの黒髪は、一層美しかった。
クルンとした綺麗な巻き髪は生まれつきのもので、腰まであって見事だ。
「あなたのような仔が私の孫で……幸せよ。」
「おばあちゃん…。」
「さあ、始めましょう。」
テイアーはアストレアから離れると、再び向かい合う。
これは崇高な儀式なのだと言うように、紫電の瞳を閉じて深呼吸。
右手をアストレアと翳すと、二人を囲むように地面が光を帯びた。
「我が名はテイアー・ノクス=キュンティア。夜の月の女神の眷属にして、その領地を守護せし者。今宵、9代目・漆黒の魔女の任を退き、10代目たるアストレア・ノクス=キュンティアにその責務を継承せん。」
テイアーが言葉を言い終わると、二人の周りを眩いほどの光が包む。
アストレアは目を開けていられず、思わず強く瞑った。
ようやく光が落ち着いて、そっと目を開くと、アストレアの前には白髪の少しばかり体を丸めた女性の姿。
けれど、アストレアはその瞳を知っていた。
穏やかな眼差しと、損なわれることのない真っ直ぐな光を宿す紫眼。
「……おばあちゃん?」
「ふふふ、よく分かったわね。…似合ってるわよ、魔女の正装。貴女のその、赤と青の目がよく映えるわ。」
アストレアの頬を撫でる指先は、先程までハリがあり美しかった。
今はシワが増えて、カサついていた。
「そんな顔しないでちょうだい、アスト。これが本来の…あるべき私の姿なのだから。」
「……うん、うん。…どんな姿でも、私の大好きなおばあちゃんよ。」
「ふふふ、私もよ。」
テイアーのいつもと変わらない微笑みに、アストライアは安堵して、つられるように笑みを浮かべる。
私の知っているおばあちゃんだ、と。
「さあ、明日からは貴女が館の主。忙しくなるから、ゆっくりお休み。」
「はーい!…寝る前にはちみつミルク、飲んでもいい?」
皆のために、と意気込んでいた新たな魔女は、やっぱり自分のよく知る孫娘だった。
思わずクスクスと笑いをもらしながら、大きく頷いた。
「はちみつたっぷりの、でしょう?今夜は特別よ。」
夜の月の女神の加護の下、誰かに知られることもない。
ありふれた毎日の、いつもと違う特別な夜。
白く輝く月と大樹は、久方ぶりの魔女の誕生を見守っていた。
古くから小高い丘の上、大樹の横にある屋敷。
そこは代々の主とともに、人々の移り変わりを見守り続けた場所。
普段は薬を調合し、街の人達に溶け込んで生活してきたその一族の名は
『ノクス=キュンティア』
またの名を
『漆黒の魔女』