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視線

結婚当初、正嗣様は起ち上げたばかりの仕事が忙しいらしく、家にいないことが多かった。

夜遅くに帰ってくることがほとんどで、遠方まで人に会いに行くときは帰らないことも度々あった。帰ってきたときは、本館にある彼の独身時代からの部屋で寝ているらしい。夫にとっては過ごしなれた洋館の一室が寝つきやすいらしく、稀に夫婦の部屋に来ても夜にはその部屋で寝ているようだった。それでも、時折手紙を寄越す律儀さや、稀に休みができると共に出掛けることもあった。


結婚してはじめての春には、川沿いの桜並木が綺麗な名所に連れて行ってくれた。

訪れたとき桜は五分咲きくらいだったけれど、並木の下は花見客たちで賑わっていた。正嗣様は数歩後ろを歩くわたしを時々振り返っては、ちょっと困ったように優しく笑いかけ、わたしはそれがとても幸せで、満たされていくのを感じていた。

もしかしたらわたしが彼に抱いている信頼と夫の抱いているものは違うのではないか、という少しばかりあった疑念が晴れるようだった。まだ冷たい風が頬に心地よく、川面がきらきらと輝いていた。あまりに心地よい風景で、わたしはきっと、いつか死ぬとき、この景色を思い出すのではないかと思った。


帰り道立ち寄った店で、夫は普段使いに良さそうな簪を買い、手ずからわたしの髪に飾ってくれた。

「いつもすまない」と優しそうな顔を悲しげに歪めて、わたしの髪にそっと触れた。夫は、忙しくしていて碌にわたしに会えないことを後ろめたく思っているようだった。なにも謝っていただくことはありません、とわたしが言葉を返すと、夫は安心したように息をついた。結婚したことによって、彼はわたしが渇望していた唯ひとつの場所を、包み温めて用意してくれていた気さえした。わたしは、夫が与えてくれた場所に、何を返していけばいいのか分からなかったけれど、彼が望む限りのことをしようと思った。



正月には、夫婦で新年の挨拶のため松山家に出向いた。わたしは、嫁入りの際に持たされた薄桃色の訪問着を着て正嗣様の数歩後ろをついて歩くが、この妻の位置にいることがどうにも慣れない。正嗣様のことを「旦那様」と呼ぶことも最初はむず痒い感じもしたので、慣れなのだと分かっていても落ち着かなかった。結婚して初めての正月は、まだ祝言を挙げて数か月で、もっとソワソワとしていたので、少しは慣れてきたのだと思うことにした。


久しぶりの生家は、新年と客人の為にいつもよりも清められてはいるものの、ほぼ記憶通りの風景だった。見知った女中が、襖が取り外されて、普段よりもさらに広くなった座敷広間に案内する。新年の宴会の準備がされ、親族も殆ど揃っていた。

夫と共に両親に新年を寿ぐ挨拶をした後、夫は父の隣へ誘われると、待ち構えていたかのように父の隣に正嗣様の膳が用意される。今までは広間の中央には松山家の当主の父のみが座っていたけれど、次期子爵の夫のほうが身分は上になるので、去年も同様のやり取りが見られた。本来であれば夫のみが中央に座るべきだと松山家が事前に問い合わせたが、夫は「松山家主催の宴会の上、まだ自らの爵位を賜っていないので」というので、このようなことになっている。


わたしは父の隣に落ち着いた夫を見てから、他の親族へ挨拶をしにいく。一応わたしは次期子爵夫人のため、以前よりも親族の間で存在が認識されたらしく、慇懃に挨拶をされる。わたしに負い目を感じていた叔父は、相変わらず気の弱そうな雰囲気で、父より十歳近く若いはずなのに白髪がだいぶ増えていた。

一年ぶりに会った弟の恵一は、背丈が高くなり、声変わりしていた。背丈はともかく、「美弥子姉上」と呼ぶ恵一の声がすっかり低く、子供っぽさが無くなりつつあって少し悲しくなった。恵一は姉に似た容姿のため幼少期は女の子に間違われるくらいであったが、成長期の今は、華やかさはそのままだけれど凛々しさが出てきたと思う。


恵一と話をしていると、姉夫婦が広間に入ってきたため一気に空気が華やいだ。

今回もまた義兄好みの新しい訪問着は、相変わらず衰えない美貌の姉によく似合っている。どちらかと言えば華奢な松山一族や夫の中では、目立つくらい背丈も恰幅も良い義兄と一緒にいるので、より注目を集める。

新年の挨拶をする姉を、夫は温度のある目で見つめているのを見て、わたしはこっそり溜息をついた。殆どの人が姉に見惚れるのは慣れているけれど、夫が姉に向ける視線は、わたしを不安にさせた。


親族たちに挨拶を終えて、姉がわたしたちの隣にやってきた。

恵一は年配の親族に絡まれるのが嫌なのか、話し相手がいないからなのか、そのままわたしと姉の会話に参加するようだ。姉もやはり、恵一の声変わりを残念がったが、恵一は「来年には背丈ももっと高くなります」と得意気に笑って宣言した。姉とほぼ同じ身長になって、わたしよりも少し低いくらいなので、きっとすぐに追い抜くだろう。

よく似た姉弟が楽しそうに笑う姿を見ていると、どうにも視線が気になってしまう。華やかな姉弟の間にいるわたしは、皆の視界の邪魔になっているのではないか。広間を見渡すと、夫がこちらのほうを見ているのに気が付いた。しかし夫は、わたしが見ていることに気が付かなかった。夫が見つめているのは、()()()()()ではなく、()()()()だった。


わたしは、この視線がかつて渇望した甘美に似ていると思った。厚い蓋の下には、まだ欲が存在することも知っている。けれど、奥底の欲が動くことも溢れることもなかった。


結婚したはいいけれど、不穏な感じがします。松山家のお正月はまだ続きます。

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