みちる
驚いて「どうして」としか言えないわたしに、岩城みちるは「わたしは、弁論にでるから」とハンカチをわたしの手に押し付けた。
岩城みちるは、わたしがなにも言わないのをどうとったのか
「独唱、とてもよかったです。まっすぐで、芯があった。」
とだけ言って、急いで講堂の方向へ走っていった。わたしは何もいえないまま、彼女の後姿が木々の向こうに消えるのを見送った。
その日は家に帰ると両親はわたしの独唱に驚いたと言ったが、代理の独唱をしたことよりも、岩城みちるにあの姿を見られたことの方がわたしの思考の大半を占めていた。両親には代理で歌っただけだと言い、姉の学級はどうだったのかと話題を変えさせた。正直、岩城みちるがどういう思考で、どんな話をする人物なのか分からなかった。
最終的に、岩城みちるにあの失態をなんと言い訳していいのか思いつかないまま、ハンカチを返すことにした。
わたしがハンカチを差し出すと、岩城みちるは笑って、あの日のことは何も言わずに受け取った。彼女はわたしの目をじっとみている。級友として過ごして知っていたが、彼女は誰に対しても視線を合わせる。
「松山さんは、授業どう思う?」
岩城みちるは、女学校の生徒にしては砕けた口調で、唐突に訊ねた。
わたしは、彼女のことを礼儀正しい才女という目でみていたので、その言い方に内心驚かされた。授業と言うのは、さきほどまでの英語のことだろうか。彼女の質問は、内容が難しいとか進度が早すぎるとかを聞いているわけではなさそうだった。
「どう、とおっしゃられても、授業とはこういうものだと思っております」
凡庸な答えしかできなかった。岩城みちるは、ちょっと考える素振りをみせて、「この授業で習ったことを、どう使えると思う?」と再度訊いた。
「岩城さまはどう思われているのですか?」
たぶん、彼女は自分の意見があるのだ。同じことを訊き返すのが正解だ。彼女はニヤリと笑った。
「わたしは、使えないと思ってる」
あのさ、と彼女はコソコソと秘密の話のようにわたしに話した。
「授業は、先生の言う言葉を復唱させて記憶させているけど、その文章通りに会話することなんてあると思う?」
わたしは彼女の悪戯っぽい大きな瞳を見た。あの林にきて、と彼女は片目を瞑った。
わたしは岩城みちると校舎裏の林で落ち合うと、彼女から英語の「会話」を教わった。
決まった方向がない、その都度移り変わる話の流れ。表現の仕方や、言い方。会話をしながら、彼女は自身のことを話した。士族に連なる家だけれど貧しかったこと、勝気な性格を認められ6歳で米国に国費留学生として出されたこと。米国での生活や風景、出会った人、嫌だったこと、珍しいもの。帰国してから、こちらの言葉を忘れてしまって苦労したこと。
わたしは、彼女がなぜ会話や、彼女のことを教えてくれるのか分からなかった。困惑して訊ねると『だって、美弥子なら会話できるって思ったから』と彼女はあっけらかんと言った。
彼女はわたしのことを美弥子と呼ぶようになったし、わたしは彼女をみちると呼ぶようになった。あくまでも、ふたりだけの時だけ。教室や他の学友と一緒のときに、彼女が至極当然のように丁寧な口調で「松山さま」なんて呼ぶと可笑しく思った。彼女はそういうときの自分を『一張羅を着せている』なんて言っていた。
『一張羅を着て』いるみちるは、以前わたしが思っていた印象と同じく礼儀正しい才女だった。国語は苦手なようだったが英語以外の成績も比較的優秀だったし、なによりも社交的な性格で級友たちに慕われていた。誰からも愛でられる白井徳子とは違い、みちるの慕われ方はどちらかといえば崇拝に近いと感じていた。みちるの背丈はわたしよりも少し低いくらいだったが、彼女の魂がその身体に収まっていないように見えた。
『世界中を旅してみたいと思わない?わたしが見た世界はほんの端っこだけだもの。いつか絶対、わたしの目でみてみたいの』
いつもの林で、みちるは瞳をきらきらさせて、うっとりと詩を口ずさむように英語で言った。
『みちる、こんどは冒険小説を読んだのね。先月は恋物語の美貌の王女になりたいって言っていたわ』
『あの話は、結末が悲劇だったの』
みちるは、まだ翻訳されていない物語をよく読んでは、表情豊かに夢の話をしていた。わたしは、彼女がそうやって話す姿を好ましく思っていた。
『わたしは、みちるのように異国に行ったことがないもの。想像できないわ。』
『美弥子は、いつも『想像できないわ』っていうけれど、わたしだって想像しかしてない。』
『そうね。恋したことはないけれど、恋物語ではお姫様だったもの。みちる、この言葉は何というの?』
みちるはちょっとふてくされて『辞書代わりにしないでよ』と言って、わたしの持っている本を覗き込んだ。
わたしたちの校舎裏の林でのやりとりは、もう数年になっていた。当初はみちるが話す会話の速さや難解さについていけなかったけれど、みちるは結構根気よく教えてくれた。
彼女はわたしの質問に真面目に答えた後、少しの間何かを考え、わたしの目を真っすぐに見つめて言った。
『美弥子は想像できないって言うけれど、わたしたちは自由であるべきなのよ』
『想像するのは自由ということ?』
みちるは時々、わたしにとって難解な質問をする。枠の中から弾かれない様にしているわたしには、みちるがどれだけ遠い枠の中心にいるのかを意識させられる。
『もちろん想像も自由だけど、何をするかだとか、どんな考えをもっているとか誰を好きになるのかとか、すべて。どれを選び取るのか、自分で決めるべきだと思うの』
『確かに、心の中まで他人に関与されるわけにはいかないわ。でも、自由になにかをするのは、場合によっては難しい。その、世間の常識とか迷惑とかを考えると』
わたしの言葉はどんどん自信なさげに小さく消えていった。
『美弥子は結構臆病なのね。』
『みちるが規格外なだけだわ。』
わたしは、みちると過ごすあいだ、蓋の奥にある欲が動かないことに気が付いていた。みちるは相変わらず英語の科目で優等生然と一番で、わたしは二番であり続けた。もちろん一番は欲しかったけれど、みちる以外が一番であることは納得がいかなったと思う。たとえ、それがわたしであっても。
わたしにとって、みちるは唯一無二の親友だった。みちるにとってのわたしも、そうであってほしいと思っていたけれど自信はなかった。わたしは、彼女に与えられるものが無かった。わたしは、一番にはなれない器用貧乏で、価値などない。みちるが秘密で会話を教えてくれるのも、単純に彼女の懐かしい言葉での話し相手が欲しかったに過ぎないと疑っていた。
女学校が残り一年になるころ、級友たちの嫁ぎ先が次々と決まっていった。だいたいそれなりの家の子女というのは、もれなく親の決めた家同士の結婚をしなければならないのが常識だった。だから、わたしも何ら疑問に思わなかったし、それが松山家に来ている縁談の二番目候補だったとしても、文句は言えなかった。
一番目はもちろん姉の嫁ぎ先として、両親も祖父も万全の嫁入り支度を進めていた。姉の嫁ぎ先は、近年財力を蓄え勢いのある鉱山王といわれる人だった。よく、ぱっとしない松山家から嫁入りできたものだと思う。縁談をねじ込ませる手腕をみせた父に感心した。でも、姉は嫁入り直前までめそめそしていた。
「だって、旦那さまになるかたはわたしよりも十四も年上なのよ。美弥子はいいわね、縁談のお相手は五つしか離れていないのでしょう。」
姉はその美貌の顔を、この世の悲劇をすべて味わっているかのように泣き濡らしていた。
姉は分かっていない。わたしの縁談は、姉の結婚ありきなのだ。姉が嫁ぎ先で侮られることのないように、松山家を少し底上げするためだけのものだ。事業を始めたばかりの子爵家の長男なんて耳あたりが良いだけで、どう考えても実家からの資金援助目的だろう。姉のように、その美しさを買われて望まれているわけではない。
「お姉さまの旦那様になられる方は、お姉さまを一目見てご結婚を望まれたのでしょう。なんでも、お姉さまのために新しいお屋敷を建てられているとか。」
「そうなの、洋館でとても素敵なのよ。調度品も、わたしの好きにしていいとおっしゃっていて」
姉妹とはいえわたしと違い、蝶よ花よと可愛がられた姉のことは、彼女が嫁す頃になっても遂に理解ができず、あしらい方ばかりが身についてしまった。姉のこの調子は他の家族にも感染するので、わたしはこのような時に家族とわたしの間の膜を意識するようになった。
散々泣き嘆いていた姉は祝言の日は晴れやかな笑顔で、それは美しい花嫁になって嫁いでいった。義兄になった人は、姉のいろいろな言動からどんな熊みたいな人なのかと内心恐怖していたが、恰幅の良い常識がありそうな紳士だった。
『それで、お姉さんの結婚式では美弥子は何の役割だったの?』
『綺麗な振袖を着て、にこにこして、時々お姉さまを褒める役。』
『大役ね。『一張羅を着て』いるし、失敗はできないわね。』
『『一張羅を着た』わたしが失敗なんてしないわ。』
最近は、わたしたちは迫る将来を、軽口を言って紛らわしていた。みちるに対しては、乖離している感情と表情が自然と近くなっていた。
『ねえ、結婚したらずっと『一張羅を着て』いないといけないのかしら。わたし、耐えられない。』
『そうね、軽口を許さない殿方は多そうだわ』
多そう、というより殆どそうだとわたしは思った。わたしの知っている男性は親族しかいないけれど、女が意見を言ったりするのを嫌う人ばかりだった。母と祖母が父と祖父に逆らう姿を見たことがなかった。唯一、祖父に我儘を言っていた姉でさえ、父と祖父によって決められた縁談には従った。
『本当に窮屈だわ』
みちるは空を見上げて嘆いた。両目をぎゅっと瞑って、それからわたしを見た。
『わたし、世界中を見てみたいの。美弥子、わたしとふたりで旅に出よう。』
『女子だけで異国に出られるわけがないでしょう。それに、旅費が莫大だわ』
『それは稼ぐしかないね。でもふたりなら出来るかもしれない』
みちるはいつもの勝気な笑みを浮かべて言った。自信を持って言える根拠は分からないけれど、わたしはみちるならば出来るのではないかと思った。でも、わたしにはできない。
『できないわよ』
『なんで?世界はどんどん変わってる。今すぐじゃなくても、できるようになるかもしれないじゃない』
みちるなら、できるかもしれない。でも。
『わたしは一番ではないから、あなたのように上手くいかない』
わたしは自分が何と言いたかったのか、探せなかった。言いたかったのはこの言葉ではないのは確かだった。みちるは、大きな瞳を零れ落ちそうなくらい見開いてわたしをみていたが、表情の割に感情が読み取れなかった。わたしはみちるから、そっと目線を外した。
『みちる、だって、わたしにも縁談があるし、みちるにも何かお話があるでしょう。わたしたちはきっと近い将来どこかへ嫁がないといけないのよ。そうしたら結婚相手が、そんな勝手なこと許さないわ。許してくれる殿方がいるなんてわたしは思えない。』
『それでも、わたしの人生だわ』
みちるは震える声だった。そして、わたしを軽蔑するように言った。
『わたしは、自分で選べない人生なんて嫌。』
その日以降、わたしは校舎裏の林でみちるをみかけることはなくなった。林で会うのはいつもみちるだけだったから勝手に感情と表情が近づいて、いつかみたいにまた目から零れてしまったけれど、それは前と同じ欲ではないのは分かっていた。
教室では、わたしたちは何もなかったように『一張羅を着て』接していた。みちるはいつものように、礼儀正しい才女だったし、わたしも表情を読み取らせない凡人だった。卒業も迫ったころ、みちるも士族出身の家との結婚が決まったと、人づてに聞いた。それがわたしのように決められたものなのか、それともみちるが選んだ人生なのか知る術がもうないけれど今でも、みちるがいつか世界中を旅することができたらいいと今でも願っている。