才能あるひとたち
少女時代のわたしは、甘美を手にするため貪欲に、しかし慎重に努力した。
学問も、習い事も、それ以外の知識や技術も、丁寧に確実に習得していった。けれど、結論から言えば、わたしは一番にはなれなかった。だいたいいつも二番かそれ以下だった。
わたしを阻むものは殆どの場合「才能」だった。文字通り血の滲む努力をしようが、血眼で朝から晩まで書物を読み漁ろうが、彼女たちの持つ才能には歯が立たなかった。それはどうしたって、わたしには手に入らないものだった。わたしは、才能ある彼女たちが羨ましく妬ましく、自分のこの平凡さを歯がゆく思った。でも、その感情を表にすることはしてはいけないと分かっていた。才能ある彼女たちには羨望のまなざしを、わたしの醜い欲望には澄ました顔をした。
もちろん、才能ある彼女たちが努力していないなんて言わない。わたしの知らないところで、同じように頂を目指して努力しているのだと思う。でも、中には努力しなくてもその地位を手に入れることができる人もいる。最たる例がわたしの姉で、彼女は誰もが見惚れる美貌で、いとも容易く私の欲しいものを手に入れるのだ。
いつだったか、姉がわたしの立ち位置を見て「美弥子は器用貧乏なのよねえ」と、いつもの美しい笑顔で言った。何でもそれなりにできるけれど、決して特技や秀でたものがない、埋没する存在。
納得できる言葉だったが、動揺した。人から見ても、わたしは秀でたものがない、価値のない人間なのだと突き付けられたのだ。苦労せずに手に入れられる立場の姉に。わたしは、動揺を読み取らせない顔をして「お姉さまのように秀でたものを持つ人なんてそうそうありません。」と、彼女の欲しい言葉を白々しく吐いた。
高等女学校に行くころには、わたしの感情と表情は完全に乖離していた。感情を読み取らせないことに関しては、もしかしたら一番になれたかもしれない。学友たちと同じように髪に飾ったリボンをゆらゆらさせ、制服の深青の袴で学び舎に向かう女学生に擬態していた。ただ、わたしの背丈は学友の平均よりも高かったので、数人で集まると納まりが悪かった。しかし背は高かろうが、女学校の才能ある学友たちは、私の前に高い壁として常に存在していた。
彼女たちの才能の根本は、たいてい親や一家の特技を受け継いでいた人や、育成環境だった。唱歌が一番上手なのは音楽家の娘だったし、国語の一番は代々和歌や歴史書を編纂する一族の子女だった。機械生産で成り上がった一族の、可愛がられない次女のわたしには超えられない壁だった。わたしは満遍なく二番に甘んじていたけれど、優しい彼女たちは奢ることなく、彼女たちが一番たる技術や知識をこっそり教えてくれる事すらあった。そして常に彼女たちは頂点であり続けた。私は称賛を送り続け、欲望を抑える蓋を厚くしていった。
ただ一度だけ、わたしは感情を溢してしまったことがあった。奇しくも、わたしが偶然ながらも唯一の立場を担った日だった。
女学校では、春と秋に一度父兄を招く行事があった。春は授業の様子を見せ、秋は授業の成果を見せるもので、裁縫の授業で作成した展示物や英語弁論や唱歌を発表していた。英語弁論は一番の成績の岩城みちるという帰国子女が代表だった。展示と唱歌は学級の全員で行うものではあったが、独唱の入る合唱曲は例年よりも少し難しいらしく、唱歌で一番の音楽家の娘の白井徳子も念入りに練習をしていた。どの科目も二番のわたしは、当然ながらその他大勢のなかの一人として、目立たぬようにこの行事を成功させるために尽力するだけだ。
父兄への成果発表会の日は、晩秋で冷え込んだ朝だった。級友たちはいつもと違う雰囲気で、自然といつもより高い声で口数多かった。通常は授業が始まる時間になると、唱歌担当の教師が焦った顔でやってきた。合唱のなかで、独唱をするはずの白井徳子が高熱で歌はおろか、学校にも来られないという連絡だった。
わたしは、独唱する彼女を思い出し、それが今日聴けないことを残念に思った。級友たちも皆、彼女の不在を悲しみ体調を心配し、そして自分たちの唱歌をどうするのかとざわめいた。さきほどまでの浮ついた雰囲気が嘘のように地に落ちていた。
唱歌の教師は、順当に二番目のわたしが彼女の代わりをするように、と言った。
級友たちは、白井徳子の代わりがわたしということに、若干の動揺をみせたがすぐに賛成した。級友が動揺をみせた理由は、おそらく曲目が白井徳子のために選ばれたような、朗らかで美しい曲だったからだと分かった。しかし誰もわたしでは不足だということなく、わたしは代理として皆に承諾された。わたしは代理とはいえ、その唯一の役割を与えられたことに歓喜していたが、あいかわらず乖離している表情は突然のことに困惑しつつ冷静に受け入れる顔だった。教師はわたしに、本番までに練習をしようと言い、まだ父兄の集まらない講堂へ連れて行った。
わたしの歌声は、白井徳子のようには決してならない。彼女は佇まいが可憐で明るい性格で、存在がそのまま凝縮されたような澄みきった清らかな声だ。わたしがどうしようと得られないもので、練習しようが変えることなどできない。独唱自体は練習の際に何度も、本物の彼女の歌声を聞いていたので覚えている。彼女がとりわけ強調して歌っていたところも、教師が彼女に求めていた表現も知っていた。何度か練習したところで時間になってしまったが、教師は「どうにか合唱はできそうですね」といって本番を待つだけになった。
級友たちは、不安だったのか本番までの間に次々と声をかけてきた。だいたいは、大変な役を引き受けたわたしへの感謝と、何が役に立つのか分からないけれど「わたくしたちも付いています」という言葉だった。わたしは、頑張ります、というありきたりな言葉を良い、不安そうな笑顔をするように表情筋に命令した。
本番、わたしは失敗することなく、歌声以外は本物の彼女と変わらない独唱をした。客席に、姉のために来ていた両親がわたしの独唱に驚いた顔をしていたのが見えた。
歌唱を終え、学校側の事前の注意に従って静々と教室まで戻った級友たちは、一斉に話し始めた。緊張したけれど、終わってよかったという安堵や、少し間違えてしまったと口々に言いあい、それからわたしの技術と度胸を称賛した。わたしは、欲が潤っていくのを感じていた。渇望していた慈雨が、ようやくわたしの頭上に降り注いでいるのだと思った。わたしが謙遜した笑顔で「歌詞を間違えなくて安堵しました」と言っても、止まない雨。
しかし、誰かが発した「でも、あんなに練習されていた白井さまは残念でしょうね」という言葉から、風向きが変わったようにわたしのもとには雨は降らなかった。彼女の歌声は練習の時から素晴らしかった、さぞやご本人もご両親も残念に思っているでしょうね、あの曲は彼女のための選曲だったようなものですもの、彼女の歌声でなければ。わたしの足元はたちまち干上がっていった。がさがさと乾いてひび割れて、綻びそうになったけれど、わたしは表情を変えなかった。
「ええ、本当に。わたくしも、白井さまの歌声が聴けなくて残念でしたわ。」
わたしは、わたしの墓標を打ち込んだ。乖離していたはずの感情と表情が近づいてしまったのがわかった。級友たちにとって特別ではない人物にすっかり成り下がったころを見計らって、気が付かれないように教室を出た。感情は干上がっているのに、溺れそうに息ができなかった。
校舎裏の林まで行くと、早足で人の目が届かない奥まで進んだ。足元から枯れ葉の音がやたら大きく響いたが、構わずに進む。木々の葉は落ちきって、繊細な枝が瀟洒に空を飾っている。風景は寒々しく空気は冷たいのに、わたしの欲はどろどろと熱く流れ出て、木々を燃やしてしまいそうだった。
俯いてゆっくり深く呼吸を整えた。うっかり溢れてきそうな欲には何重にも蓋をし、表情はいつものように読み取らせない位置まで感情から離していった。今回わたしの得た地位は所詮かりそめだったのだと、本来の称賛が本物に対して向けられただけなのだと言い聞かせた。わたしはまだ、本物の一番を手に入れていないのだから、身の程知らずの甘美を味見させてもらっただけ。いつもの二番目のあるべき姿を思い出した。
すっかり模範的二番目の表情を取り戻して顔をあげたとき、少し前まで漏れていた欲望が目から零れた。溢れてしまったものをどうしたらいいのかと呆然とするわたしは、「あの、」とかけられた声で心臓が止まるかと思った。
わたしの側にハンカチを差し出す岩城みちるがいるのを見て、血の気が引いた。
どうして、だれも来ないはずのここにいるの。






