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児童文学/ヒューマンドラマ/恋愛

ヘレネスの虹

作者: 繭美

虹を見るために、石の階段をのぼる。

風が吹き渡り、新緑がこすれる音がする。足元で木漏れ日が揺らぐ。

熊谷天馬(くまがいてんま)は、次の段に足をあげながら、下校前のことを思い出していた。


  ◇◇◇

「虹が逆さまでも、地震は起き……ないよ」

 そのひとことで、六年生の教室がしんとなった。静かになるひとことを言った男の子……天馬はすぐ『よけいなことを言った』と、後悔した。

 地震が起きそうだと騒いでいた子供たちは、三階の窓から虹を見るのをやめて、天馬に視線を集中させた。

 教室の外は晴れていて、空高くには大きな虹がかかっている。それは下向きに弧を描く『逆さ虹』と呼ばれるものだった。

「こんな虹、見たことないぞ? それも雨上がりじゃないのに出た、イジョウキショウだ。……なんでお前、悪いことが起きないって、言いきれるんだよ」

 逆さ虹を不吉だと、もっとも騒いでいた男の子が、天馬をにらんだ。

 天馬は口を開けただけで、何も言わなかった。

 ――逆さ虹は、太陽光が大気の氷に反射することで、発生する現象だ。前にも見たことがある。珍しいが不思議がるほどではない。ましてや、地震の前触れなんかじゃない――。

 頭では言葉が出てきたものの、天馬はそれを外に出せなかった。


「……男子うるさい。もうさ、しらけたし、みんな帰ろう」

 教室の中央に座っていた女の子が、大きくため息をついた。そして教室の女の子たちが先に動き出して、男の子たちもそれに続いた。ランドセルを背負って、教室を出ていく。

 天馬の隣の席にいる男の子はランドセルを背負ったまま、虹と天馬を、交互に見ていた。

「おい、もう行こうぜ」

 隣の席の子が、別の子に呼ばれた。

「うん……」

 隣の席の子は帰る前に、天馬に「じゃあね」と言った。


 椅子に座ったままの天馬に、ひとりの女の子がのんびりと寄った。

「あの、二重の虹を見ると幸せになれるって、知ってる?」

 天馬は首を横に振った。

「今、逆さまの虹の下にね、もう一つ虹がかかっているんだよ」

 天馬は女の子の胸にある名札を、そっと見た。天馬はよそから転校してきたばかりで、まだひと月も経っていないので、クラスメイト全員の名前が言えない。特に女の子たちの名前を覚えていない。

 女の子の名札には『田辺』と書かれていた。

「窓のほうまで行けば、見えるよ。二重の虹」

 田辺さんはにっこり笑うと、教室を出ていった。

 天馬はみんながいなくなったあと、顔を隠すように、キャップ帽子を被った。刈りあげた後ろ頭に指が触れ、みっともないほど冷や汗をかいていたと、気がついた。

 窓から二重の虹を見ないで、ひとりで教室を出る。

 明日から大型連休に入るから、しばらく学校に来なくていい。そう思うと、天馬は気が楽になった。

 

  ◇◇◇

 階段をのぼる。高台が見えてくる。

 今、天馬が目指している高台は、自然公園の中にあるものだ。下校中にさしかかる階段をのぼると、一気に公園内の高台へたどりつく。

 都心部に作られた自然公園は広く、花や木がたくさん植えられている。朝と夕方は自動のスプリンクラーが回る。

 寄り道は見つかれば怒られるが、あの逆さ虹をちゃんと見たい。そう思いながら、天馬は高台に出た。

 空にはまだ薄く、逆さ虹がかかっていた。だけど虹の下にかかっていたという、もう一つの虹は消えていた。飛行機雲があるだけだ。

 天馬は逆さまの虹が薄くなっていくにつれ、教室での出来事を思い出していった。

 虹の仕組みも知らずに騒ぐ子。言葉がうまく出なかった自分。取り残されていく感覚……。重い空気が体に残っているようで、泣きたくなった。


「虹は好き?」

 横から声がした。見ると、すらりとした体型の女の人が、褐色(かっしょく)の髪とロングスカートをなびかせ、立っていた。欧米国を思わせる顔立ちで、表情はどこか苦しげだ。

「あなた、どうしてそんな顔を……」

 女の人は長いまつげを伏せた。

 そして首を揺らしたかと思うと、急に後ろに体をくずした。どさりとにぶい音を立てて、女の人は仰向けに倒れた。耳についたピアスと、左手の指輪が、太陽で光る。

 天馬は突然のことに呆然となったが、すぐ我にかえった。

 ――倒れたんだ。この女の人を助けなくては。

「し、しっかり」

 天馬は女の人に呼びかけ、顔をのぞいた。

「大丈夫か。ぼくの声、聞こえてる?」

 顔色は悪く、唇も青い。呼吸は苦しげで、浅かった。

「救急車、呼んだほうがええな」

 呼びかけに返事がなかったので、天馬はランドセルから、携帯電話を取り出そうとした。

「……待って」

 女の人が薄く目をあけた。

「日陰で、休ませて」

 弱々しい声だった。

「熱中症かも」

「わかった」

 天馬は女の人に肩を貸して、大きな木の下へ連れていった。涼しい木陰に女の人を寝かせると、水筒から麦茶を注いだ。下じきで女の人をあおぎながら、誰か大人が通らないかと探した。誰も通らなかった。

 言うとおり、女の人は太陽の熱にやられたようだった。女の人は麦茶を飲みながら体を休め、唇に赤みを戻していった。


 数分後、顔色の良くなった女の人は一転して、明るく天馬に話しかけた。

「今日の虹は逆さまで、長いこと出てたのよ。あなた、知ってる?」

「いいえ」

「でね。私ったら帽子をかぶらないで、ずっと日向に立っていたから」

「はぁ」

「あなたが通りがからなかったら、もっと危なかったわ。ありがとう!」

「……どうも」

「私ね、あさってに引っ越すの。だからこの町、よく見ておこうと思って……」

 天馬は、女の人をうるさく感じ始めていた。

 女の人と並んで三角座りしながらも、どのタイミングで家に帰れるだろうかと、探っていた。

 女の人は天馬に話しかけながら、携帯電話を操作していた。

「今、迎えを頼んだから。もう大丈夫」

「ではぼくはこれで」

「待って。まだ話しましょうよ」

 立ち去ろうとする天馬の腕を、女の人が元気よくつかんだ。

「私はアイリス。二十四歳。あなたは?」

「個人情報は言いません」

「あ、スニーカーに名前」

 女の人はスニーカーに書かれたペン字を見つけ、はしゃいだ。

「六の三の『熊谷(くまがい)』ね。クマさんて呼んでいい?」

「………」

 天馬は返事をしなかった。女の人は木漏れ日の下、童謡をハミングした。

「森でクマさんに会えるなんて、この歌みたい」

「ここ公園」

「私はアイリスだから、リスになればいいかな」

 アイリスと名乗った女の人は、夕暮れの空を見上げた。

「ここは逆さ虹の森ね――森にはたくさん動物がいて、みんななかよく暮らしているの」

「あの……」

 逆さ虹なら消えている。天馬は、どんどん家に帰りたくなっている。

「私はいたずら好きのリスで、あなたは親切なコグマ」

 アイリスは天馬の両肩を、軽々しくたたいた。

「ふたりは大のなかよし!」

「やかましいわ!」

 天馬は大声を出して、アイリスの手を払いのけた。

「あ」

「そんなにグイグイくるなや。ツッコミ待ちか、自分」

「それそれ」

 アイリスは満面の笑みを浮かべた。天馬は耳を赤くして、横に顔を向けた。

「さっき私を助けてくれた時、関西弁だったよね?」

「……ぼく大阪育ちで。今月はじめに引っ越してきたとこ」

「へえ」

「まだこっちの言葉、うまく話せなくて。けっこう戻るんです」

「それで口数が少なかったの」

「まぁ」

 見知らぬアイリスに、警戒していた面のほうが大きいとは、言わなかった。

「気持ちはわかるわ。私も子供のころは、話すの苦手だったから」

「……なんで?」

「私は日本人とギリシャ人の間に生まれたの」

 天馬はアイリスを、改めてよく見た。

 小顔ですらりとした体型に、濃い褐色の髪。瞳は、かすかに灰みがかっている。欧米の血が混じっていると聞いて、納得する顔立ち。

「母がギリシャ人でね。アメリカの大学で、日本人の父と知り合って結婚。……私と母の会話は、英語と日本語、それからギリシャ語が混じった」

 アイリスはなめらかな日本語で、昔の話をした。

「今は日本語だけで話せるけど。子供のころは、ちょっとね」

「……育ちはずっと、日本?」

「ギリシャ留学もしたわ」

 アイリスは胸をそらした。

「少し話がそれたけど。まわりと違うことを、気にしすぎたら駄目」

「あ、はい」 

「失敗を怖がらないで」

 アイリスの話を聞くと、方言を気にした自分が小さく思えて、天馬は後ろ頭をかいた。


「迎えが来るまで暇だし……練習に、私と遊びましょう」

 アイリスはいたずらっぽく笑った。

「ここは逆さ虹の森で、私たちは大のなかよしなのよ」

 ふたりの間に、風が吹いた。

「私はリス」

 アイリスは地面を探り、色あせたドングリを見つけた。そのドングリは実が大きくて丸い、クヌギの木から落ちるものだ。口に入れるふりまでする。

「それ、まだ続けるん?」

「ええ。私は引っ越す前に、思い出の公園で遊びたいの。クマさんとも、なかよくなりたいしね」

 アイリスはドングリを持って立ち上がった。天馬もそれに続く。

「クマさん言うな。『熊谷』って呼べ」

「クマさんて呼び方、気に入っちゃった」

「……ぼく、天馬って名前がある」

「いい名前ね。なんだ。クマさん、ぐいぐい話せるじゃない」

「誰のせいや。このアホリス」

「アホでかまへんよ」

 アイリスはおどけると、歩道と芝生の境目を示すレンガに、足を乗せた。


「このレンガは、今から吊り橋」

 アイリスはつな渡りをするように、レンガの上を慎重に歩いた。

「今にも落ちそうな吊り橋だから、そっと渡ってね」

 アイリスに続いて天馬も、レンガに足を乗せた。

「当然、吊り橋の下は川で、凶暴なワニがおるんやな」

 天馬はレンガ横の地面を見て、笑った。

「森の動物は、みんななかよしだって……」

「ここは森の外にしよ。落ちたらあかんて思いたいし」

 アイリスは腕を組むと、大きくうなずいた。

「オーケー。橋の下にはクロコダイルを放しましょう。落ちたら最後、骨も残らず食べられる」

 ふたりは縦に並んで、レンガの上を歩いた。

 先にアイリスがめまいを起こして、地面に転んだ。天馬はアイリスの体を心配したが、アイリスは地面の上で、手を叩いて笑っていた。


 その時、アイリスの携帯電話が鳴った。アイリスが携帯電話の画面に触れる。画面から、若い男の人の声がした。

 アイリスは電話の向こうの相手と、外国語で話した。たぶんギリシャ語だろうと、天馬は横で聞きながら思った。

「迎えの人、来たみたい」

「そっか。ぼくも安心して、帰れるわ」

「ねえクマさん。明日の朝、ここで会える?」

「……明日は休日やぞ?」

「暇ならでいいから。助けてもらったお礼を、ちゃんとしたいの」

「まあ、暇なら来るわ」

 天馬は嬉しかったが、表には出さなかった。

「朝、何時に来ればいいんや」

「そうね。九時から予定があるし……あ、おすすめは七時過ぎ!」

「早い!」

「別に時間どおり来なくても、私は待っているから」

 アイリスが立ち上がって、スカートについた土を払った。

「じゃあまた、明日ね」

 アイリスは颯爽(さっそう)と高台から去った。

 

 天馬はランドセルと水筒を持って、高台と公園の外をつなぐ階段を降りていった。

 そして同級生が歩いているのを見つけて、つい足を止めた。

 階段下の歩道を歩く同級生は、女の子だ。教室の中央に座っている子。

 天馬はその女の子が怖かった。時々きつい言葉を言うから。逆さ虹で、天馬が男の子ともめそうになった時も「うるさい」「しらけた」と言っていた。

 天馬が階段で止まっていると、その女の子は、上からの視線に気づいた。

「……熊谷?」

 女の子は歩道から天馬を見上げて、まばたきした。

「寄り道してたの? 暗くなる前に、帰りなよ」

「あ、うん。ごめん」

「あやまらなくていい」

 女の子はこれから塾だから、とそっけなく言うと、前を向いて歩いていった。

 その子の印象が天馬の中で、少しやわらかくなった。


  ◇◇◇ 

 次の日。天馬が高台に来た時、アイリスの姿はなかった。天馬が携帯電話で時間を確認すると、まだ七時前だった。朝の日差しは弱く、天馬は今、キャップ帽子を脱いでいる。

 四月末の朝は思いのほか涼しく、半袖のシャツ一枚では寒いくらいだった。

 上着を着てくれば良かったな、と天馬が思いはじめたところへ、アイリスがやってきた。紙袋が入った、トートバッグを抱えている。

「おはようクマさん」

 アイリスは今日も、長いスカートをはいていた。そして熱中症にならないよう、つばの広い帽子をかぶっている。アイリスのトートバッグからは、白い湯気が出ていた。

 白い湯気は、食欲をそそる匂いがした。

「……なんかええ匂い」

「はい、どうぞ」

 アイリスはトートバッグから紙袋を取り出し、天馬に渡した。紙袋は底が温かく、中にはパンがたくさん入っていた。

「ぜんぶ焼き立て」

「もう食べてええ?」

「もちろん。散歩しながら、食べちゃいましょう」


 ふたりは高台から、時計がある広場へと歩き出した。

 朝の公園はまだ人通りが少なかったが、ジョギングする人や、犬の散歩をする人々がいた。アイリスは人とすれ違うたび「おはよう」と、にこやかに言っていた。

 まずアイリスは白いテーブルロールを、天馬はゆで卵とハムが乗ったパンを、手に取った。天馬はゆで卵のパンを一口食べると、黙って二口目を口に入れた。

「美味しい?」

「あかん。めっちゃうまい」

 天馬はパンを頬ばりながら、答えた。

 ゆで卵のパンはすぐに食べ終わり、次に、天馬はクロワッサンに夢中になった。

「……こんな朝から開いてるパン屋、あったんや」

「七時からやってるパン屋なの。この公園の近くの店なんだけど、脇道にあるから気づきにくいかな」

 アイリスは白いテーブルロールを食べ終えると、今度はトートバッグから、ペットボトル入りの飲料水を二本、取り出した。その内の一本を天馬に渡す。

「昨日のお礼になった?」

「十分すぎるわ」

 天馬はペットボトルのふたを開けて、水を飲みこんだ。

「良かった」

 アイリスはパンが残った紙袋をトートバッグにしまい、ちらりと携帯電話を見た。

「もう少し、時間があるわね。池のほうにでも行きましょうか」

「ええよ」

 天馬はペットボトルのふたを閉めて、そのまま持ち歩いた。


 アイリスは天馬と話しながら、公園の景色をながめていた。そしてタイルで舗装された川の側に、すらりと立つ、紫色の花を見つけた。

「もう咲いてる!」

 アイリスが花のそばに走った。紫色のグラデーションの花を、嬉しそうに見つめている。天馬が隣に来ると、目を細めて笑った。

「クマさん、この花の名前は知ってる?」

「わからん」

「あやめ」

「聞いたことは、あるなぁ」

 天馬はあまり花に興味がなかった。

「じゃあね。あやめは英語で、なんというでしょうか?」

「いや、知らんねんて。せめてヒントくれや」

 アイリスは笑顔で「ヒントは私」と答えた。天馬はうなった。

 頭に何も浮かばなかったが、アイリスがしきりに「私、私」と繰り返すので、やっと検討がついた。

「……『アイリス』か?」

「ええ。アイリスは、ギリシャ神話にも登場する花よ」

 アイリスは、自分と同じ名前の花に、顔を近づけた。

「アイリスって名前だと思うと、違う花に見えるな」

「そう? もっと、こんな話をしましょうか?」

 アイリスは、あやめの近くで生い茂る、ぎざぎざした草を指さした。

「あの草の名前は知ってる?」

「それは大丈夫や」

 天馬は自信を持って答えた。

「ヨモギ」

「正解。学名はアルテミシア。ギリシャ神話の月の女神、アルテミスさまが由来よ」

「嘘や」

「嘘だと思うなら、あとで調べてみて。ヨモギは女の人の体にいい、世界に広がるハーブなの」

 天馬はけげんそうな顔で、ヨモギの前にしゃがんだ。

「ヨモギなんて。(もち)か、ショウブ湯のイメージしかなかったわ」

「ショウブ湯?」

「アイリスの家は、ショウブ湯せえへんか?」

「ええ。でも話は知ってるわ……」

 アイリスは首をかしげた。天馬は笑って、ヨモギの葉にさわった。

「確かショウブ湯って、お風呂にショウブの葉を入れるんでしょう? 五月の子供の日に」

「せや。ぼくの家ではショウブと一緒に、ヨモギも風呂に入れるねん。魔除けになるとかで」

 アイリスは拍手をした。

「さすが女神アルテミスさまね。一緒にお風呂に入ることで、子供たちを守るなんて」

「なんか、わざと嫌な言い方してへん?」

 アイリスはハミングしながら、立ち上がった。ひとつ伸びをして、スカートのポケットから、古いドングリを取り出した。やや高い声を作って、天馬に話しかける。

「クマさん、それより早く、向こうの池まで遊びにいきましょう」

「おい」

「このドングリを池に投げるとね、願いごとが叶うから」

「もうええ。頼むから、そのリスキャラやめて」

「えー。つまんないの」

 アイリスは丸いドングリの実を、側の川に投げた。水音をたてて、ドングリは川に流れていった。


「……クマさんの頼みなら、もうやめるけど」

 アイリスが作り声をやめて、背筋を伸ばす。穏やかに、天馬に話しかけた。

「可愛いじゃない。森で、動物がなかよく暮らしていたら」

「動物はしゃべらんし……みんななかよくとか、無理やろ」

 天馬はまだ、あやめとヨモギの近くにしゃがんでいる。

「子供っぽいわ。ぼく、もうそんなん好きやない」

「物語を楽しみたい時は、夢を見たい時でしょう? ……どうしてそんなに、つっかかるの?」

「………」

「昨日は土の川で、ワニを想像したくせに」

 天馬は黙り込み、小川のせせらぎを聞いた。


 アイリスはほほえんだ。川から離れて、時計がある広場へと歩いた。

 アイリスが水の入ったペットボトルを取り出して、空にかざした。反射した太陽光が地面にあたる。太陽は、ふたりが出会った時よりも、上昇していた。

 アイリスはペットボトルを手で回しながら、天馬を呼んだ。

「こっちに来て」

 天馬はアイリスの側に寄った。白い反射光が地面で揺れるのを見た。

 アイリスは天馬が来ると、ペットボトルを土の上に置いた。そしてペットボトルの影を見るよう、天馬にうながした。

 ペットボトルの底に反射した太陽光が、影の中で鮮やかな弧を描いていた。

「虹や」

 つぶやき、天馬は、影にある小さな虹を見つめた。

 朝の太陽とペットボトルの水で現れた虹は、手のひらより小さかった。ペットボトルを傾けると、その影の中で、小さな虹も傾いた。天馬は手に持っていたペットボトルを、アイリスが置いたペットボトルの横に並べた。ペットボトルの影と小さな虹がふたつずつ、地面に並ぶ。

「虹は好き?」

 アイリスは、昨日と同じことを天馬に聞いた。

「……うん。好きや。綺麗やから」

 天馬は虹を見たまま答えた。

「ぼくは昨日、好きなもん悪く言われたみたいで、腹たったんやな」

 天馬は深呼吸をして、昨日教室であったことを、アイリスに話した。

 教室から逆さ虹が見えたこと。教室がにぎやかになって、地震の前触れだと騒ぐ子もいたこと。それが嫌で口出しして、男の子に怒られたことまで。

「たぶんその子は、怖い話が好きだったのね。本気で地震が起きるとは、恐れていない」

 アイリスは天馬の話を聞き終えると、そう言った。

「クマさんは虹が好きで、その子は虹より怖い話が好きだった。だからクマさんに水を差されたように、思ったのかも」

「……せやな。好きなもん悪く言われたら、誰でも嫌やな」

 天馬はペットボトルの水を飲んだ。喉がうるおって、気持ちが落ちついた。

「おおきに。えっとな、リスが話を聞いてくれて、助かったわ」

「どういたしまして」


 ふたりはしばらく、広場で話をした。話しながらチョコレートと苺が乗ったデニッシュパンを、半分にわけて食べた。天馬はアイリスといるのが、すっかり楽しくなった。

 広場の時計が八時を示そうとしたころ、アイリスの携帯電話が鳴った。

Parakalo(パラカロー)

 アイリスはまたギリシャ語で話していたので、内容は天馬にわからなかった。

「そろそろ朝食のパンを持って帰ってこいって、言われちゃった」

 アイリスは笑って、トートバッグにある紙袋を見た。

「なぁアイリス。明日、どこに引っ越すん」

Hellas(エラス)……っと、間違えた。ギリシャよ。テッサロニキって都市」

「……思ったより、遠いな」

 会いにいけない距離。そう考えた天馬は、下を向いた。 

「なんでギリシャ?」

「それは――」

 風が吹いた。アイリスは帽子を押さえた。左手の薬指で銀の指輪が光る。

「――クマさんには本当のことを、話していこうかしら」

 アイリスの顔から、ほほえみが消えた。

「私が虹の女神だからよ」


「私は虹の女神で、人々と神々をつなぐ、伝達の女神なの。ギリシャの神々に、さまざまな話を伝えに戻らなくちゃいけない」

 天馬は突然の話に、耳を疑った。アイリスは帽子を深くかぶり直す。

「私はもともとは、神につかえる侍女だった。だけど全能の神であるゼウスさまに、愛をささやかれてね。ゼウスさまはすばらしい神だけど、女とあれば愛をささやくような方で……私はそれが嫌で、ヘラという女神さまに『遠くへ逃がして』と頼んだ。ヘラさまは私にお酒をふりかけて、神にしてくださった。……そして」

 アイリスは天馬に背を向けて、あやめの花へと歩いた。

「その時、私の体からこぼれたお酒のしずくが地上にふりそそいで、美しい花となったの」

 アイリスが花の側に座った。両手を茎にそえて、薄い花びらに口づけをする。

「それがこの花、アイリス。ギリシャ語で『虹』という意味」

 アイリスが笑わず、低い声で話すので、天馬は口を挟めなくなった。どうにか唾を飲み込むと、悪態をついた。

「……あほ、言うな」

「信じられない?」

「当たり前や」

「真実なのに」

 朝の光を背に、アイリスが立ち上がる。帽子の下から、まっすぐな瞳で天馬を見た。天馬もじっとアイリスを見つめた。

「では今から、私の力で虹をかけましょう」

 アイリスは薄く笑った。

「……でもね、私の力をもってしても、影のできる方向にしか虹は現れない。だからクマさんはそこから動かないで。後ろの芝生を見ていて」

 天馬は顔をしかめて、うなずいた。アイリスは天馬に気づかれないように、時計で時間を確認した。

「傷ついた心は虹の女神によって、よみがえる。Hellenes(ヘレネス)……古代ギリシャでは、そう信じられてきた」

 時計の針が午前八時を示した。時刻を知らせる音楽が公園に響く。

「だから天馬の心も、私の虹で復活する」

 音楽に重なって、水の吹き出る音がした。

 芝生の上でスプリンクラーが回り出したからだ。四方に吹き出た水は宙を舞い、そして色鮮やかな帯を一瞬でかけた。

 天馬はその、芝生の上にかかった虹に、目を奪われた。


 八時の音楽が止んだ時、天馬はくぐもった声を後ろから聞いた。振り返ると、アイリスが帽子で顔を隠して、肩をふるわせていた。  

「……笑うなや」

「だって……熱中症で倒れる神さまなんて、いる訳ない」

 アイリスは帽子をかぶり直すと、声に出して笑った。

「今の話、ちょっと本気にしたでしょ? まだ子供ね!」

「やかましいわ!」

 アイリスは涙目になるまで笑った。笑いがおさまると涙をぬぐい、天馬の正面にいった。そっと両肩に手を置く。

「覚えておいて。スプリンクラーの時間は、朝の八時と、夕方の四時」

「………」

 虹がかかる時間だとは、言わなくても通じた。天馬は小さくうなずいた。

「じゃあね」

 温かな手が天馬の肩から離れた。アイリスは昨日と同じように颯爽と去っていった。

 天馬はアイリスに向かって、もう一度「おおきに」と言った。アイリスは笑顔で応じた。

 天馬はアイリスが見えなくなるまで、その後ろ姿を追った。

 そのあとしばらく、スプリンクラーの虹を見つめた。手に残ったペットボトルで、もう一度、小さな虹も作ってみた。

 二重の虹を見ると幸せになれる。そう教室で聞いたから。


 天馬は、高台と公園の外をつなぐ階段を降りていく時、階段下に同級生がいるのを見つけた。

 今日いるのは、ふたり。隣の席の男の子と、二重の虹の話を教えてくれた女の子、田辺さんだった。

 隣の席の子はパン屋の袋を持っていて、田辺さんは小犬を連れている。ふたりは立ち話をしていたが、隣の席の子が天馬に気づいて、手を振った。

 天馬もふたりに手を振った。これから何を話そうか、考えた。


 パンの話か。連れている子犬の名前か。今までふたりが何を話していたか。

 公園で聞いた虹のことを、自分から話してみるのもいいだろう。

 ギリシャに行くアイリスとは、明日から会えない。だからこそ出会いを無駄にしたくない。一期一会。確かそんな言葉があったはずだ。

 ペットボトルの虹と、スプリンクラーの虹。――あの女神がかけた虹を、吉にするか凶にするかは、自分次第なんだ。


 天馬はふたりのところに行くために、石の階段を降りていった。

 若葉の香りを含んだ風が、吹き渡った。


Parakalo(パラカロー)……ギリシャ語で『お願いします』。電話の挨拶にも使う。

Hellas(エラス)……ギリシャ人の自国の呼び方。ギリシャ国。

Hellenes(ヘレネス)……古代ギリシャ人の総称。

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― 新着の感想 ―
[一言] 私も逆さ虹の森の作品を書いたのですが同じ題材でもこうも変わるんですね!! 名前にも意味があって、ギリシャ語に繋げるなんて素敵すぎます!
[良い点] リスとクマ。こんな使い方もあったのね、と感心しました。虹の使い方も素敵です。竜巻テディもそうでしたが、小学生の心を見守る作者様の眼差しが、とてもあたたかで心地いいです。 それと冒頭の描写が…
[良い点] きれいな文章と、日常の中の非日常をうまく映し出したシーンの数々が、とても素敵でした。 [気になる点] 早朝の焼きたてパン…! [一言] 石河様の活動報告で紹介されていて、気になったので読み…
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