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「雄輔君は元気?」
緋乃が口にしたのは沙絵の恋人の名前だ。要人警護を担当する警察官で、沙絵の実家に配属されている。
すると沙絵は水を飲みながらさらっと答えた。
「あー、うん。この間仕事で怪我したよ」
「えっ。酷いの?」
「ううん。ナイフで切られて、でも私が傍にいたからすぐに応急処置して。割に浅かったから問題ない」
「そう……」
沙絵の実家は由緒ある旧家で、政界などへの出入りも多いらしい。そのため不穏な事件が数限りなく起こるのだ。
何でもない事のように言うが、沙絵の声がわずかに強張ったのを緋乃は感じ、前菜が運ばれてきたのを機に話題の角度を微妙に変えた。
「でも、やっぱり医療の技術があるってすばらしいわね。直接人の命を救える……こんな尊いことはないわ」
「かもね。でも、支えてくれる人がいるからこそ実践できるのよ」
沙絵は目元を優しく細めて緋乃を見る。
「環境が整わなければどんなに優秀な技術も意味をなさない。さっきも言ったけど、緋乃が自分の会社で努力をしてくれているからこそ、私たちも最前線で戦えるの」
「そうね。それは確かに思うわ。社会は、人と人とのつながりの中に成り立っているのよね」
「ワタシさ、最近、働くのっていいなって思う」
沙絵は笑ってまた頬杖を突いた。
「最初の数年は働くより学生の割合が自分の中で強くて、朝起きて仕事に行くのがすごいやだった」
「うん。わかるわかる。くたくたになって帰ってきて寝て、でも起きたらまたすぐ仕事ってのがね」
「そう! でもさ。最近だと、仕事場での自分がなんとなく好きになってきたの。家での自分とは全然違う」
沙絵の言葉に緋乃も笑った。本当によくわかる。
仕事に慣れて、少しずつできることが増えてきて、そんな自分を好きになるのだ。
仕事は自分を裏切らない。努力した分、成長できる。
「ちょっと音楽にも似てる? かな?」
緋乃が言うと、沙絵もそうだね、と同意した。
***
満足度の高いランチを終え、ふたりは食後のお茶を楽しむために近くのオープンカフェに赴いた。
四月になったばかりだが、近頃とみに気温が高い。
二人はともにアイスコーヒーを頼み、緑豊かな庭に面した席に座っていた。
「そういえばさ」
冷たい飲み物をすすりながら緋乃は思い出して言った。
「私今度、海外出張するかもなんだ」
「えー、いいね。どこ?」
「……ドイツ」
微妙に声が低くなったのは、当然、そこに元彼に関する思い出やらあれやこれやがあるからで。
エンリョの無い沙絵は当然、ストレートに突っ込んだ。
「ありゃ。界くんの住む国だ。出会ったりして」
「ないでしょ。ドイツって言ったって広うござんす」
友の軽口にすらどきりと胸を刺されながら、緋乃はごまかすように笑う。
沙絵もいたわるような優しい笑顔でまあね、と答えた。
「で、いつ?」
「まだわかんないの。うちの役員って結構、唐突に言うことが多くて」
「大事なことでも?」
「大事なことでも。指示に対するレスポンスの期限がものすごくタイト」
「やだーそんなの」
ずずっと音を立ててアイスコーヒーを飲み、沙絵は眉をひそめたが、しょせんは他人事である。すぐに笑って言葉をつづけた。
「まあ、お土産買ってきてよ。オーガニックコスメとか」
「考えとくわ。でも今はそれより海外出張のマナーさらっとかないと……」
「ん、呼ぶ側なの? 呼ばれる側なの?」
「呼ばれる側。多分チャリティだと思う」
「あー、日本はお金あるからね」
新緑に太陽の光が降り注ぎ、ふたりの頭上に木漏れ日を落としていた。
白いテーブルにきらきらと影が反射し、まるで海の中にいるようだ。
ふと沈黙が落ち、緋乃は沙絵がどこか一点を見つめていることに気が付いてその視線を追った。
そしてぎくりと肩を揺らした。
(──え)
彼女はカフェから続く小路の先、大通りを見ていた。
否、正確には、そこを歩くひとりのビジネスマンに眼を取られていた。
すらりと背の高く、スーツ姿の良く似合う黒髪の若者だ。
彼はすぐに見えなくなったが、二人はしばらく沈黙した。
「……界くんに、似てたね」
やがて沙絵が呟いた。
緋乃はどくどくと重く脈打つ心臓を感じながら息を吐いた。
「……ん」
「ねえ。まだ連絡取ってないの?」
沙絵は唐突に、緋乃の眼を見て言った。
「まだって、何よ」
緋乃は彼女から眼を反らして失笑する。まったく。
沙絵は、いまだに界と自分が別れたことを信じていないのだ。
というか、受け入れようとしてくれない。
「何で? 取ってるわけないでしょう」
つとめて平静を装ってそう答えた。彼の話題はいやだった。早く終わりにしてほしかった。
なのに沙絵は引き下がってくれなかった。
「だって緋乃、まだ好きじゃん」
彼の影をほんのわずか感じただけでも揺れる胸、それを、友は容赦なく暴く。
ずっとずっと蓋をしてきた感情に名前をつけようとする。
「ずっと引きずってるじゃん。界くんのこと。他の男性から誘われたって、見向きもしないし」
「そういうわけじゃない。ただ、気持ちが動かないだけで」
今や激しく動揺しながら緋乃はそれでも、冷静さを振り絞って喋る。
そうだ、沙絵は間違っている。自分はもう界を好きとかそういうんじゃない。
だって、終わったんだから。
私たちは終わってしまったのだ。
他でもない自分のせいで──
「──あれは緋乃のせいじゃないんだよ」
緋乃が後悔しそうになったのを読んだかのように沙絵が言った。
はっきりと、緋乃から眼を反らすことなく。
「緋乃は頑張ってた。びっくりするぐらい努力してた。ほんとうにえらいなって思ってたよ」
「……さえ」
「ね、だから自分が悪いって思わないで。そんな辛い顔しないでよ」
彼女の白い手が自分の手に触れてくるのを感じて、緋乃は一瞬泣きそうになった。辛い顔、を。
しているのか。自分は。
界を思い出すときはいつも?
(そんなの、いや)
楽しかった。
苦しい時も、寂しい時も多かった。でも。
それよりずっと、幸せだった。