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今でも覚えている。
別れを切り出した時の、彼の、世界に裏切られたような顔を。
──冗談、だよな?
瞳を凍りつかせて、笑みの形に唇を引きつらせて、彼はすがるように私を見た。
ああ。思い出すだけで息が止まる。
いっそあの時、冗談だと返していたら。
そうよと笑い飛ばしてみせるだけの強さと余裕が私にもあったなら。
そうしたら私たちはまだ一緒にいられたのだろうか。
(いいえ。それはきっと無理だったわ)
三年間まいにち考え続けてきた疑問の答えははっきりとNOだ。
自分は後悔していない。
例えあの時自分から別れを切り出さなかったとしても、いつか駄目になっていただろう。
私たちは疲れていた。
夢と仕事に翻弄され、遠い距離に隔てられ、お互いを信じつづけることが辛くなっていたのだ。何よりも。
(……何よりも、わたしが。界に置いていかれることに耐えられなかった)
未熟だったのだ。今ならわかる。
私たちを駄目にしたのは距離や他の誰かではない。私に潜む弱さだった。
いつも、不安で。
いつも、怖くて。
だけどそれを拭い去るための努力が、きっと私には足りなかった──。
「おはよう、恩納さん」
「おはようございます」
「おはようございます、緋乃先輩」
「おはよう。今日もよろしくね」
緋乃の勤める外資系製薬会社は東京に本社を置く。
応募した当初はアシスタント職でいいと思っていたが、所有していた秘書検定と英語・ドイツ語のスキルのために秘書課に来ないかと打診を受け、そのまま結局採用された。
色々大変なことも山ほどあったが、職場環境と業務内容は自分に合っていたようで、今では役員室の秘書を務めている。
デスクについて書類の束に眼を通しながらPCを立ち上げていると、緋乃がほぼ専属を務めている支社長が出社してきた。
「恩納さん。急だが今夜接待が入った。予定を調整してもらえない?」
「はい。何時からでしょう?」
「18時半だ。場所は銀座、相手はAYエージェンシー」
「18時まで千葉支社の視察のご予定ですが、すこし短めに切り上げましょう。全体会議を管理職会議に変更して、時間を短縮すればよろしいかと」
「うーん、そうだな……」
「もしそれで足りないようなら来月の20日の午後が空いております。そこでまた千葉へ行けば宜しいかと」
タブレットと手帳を見比べながら緋乃が提案すると、支社長は少し考えて「そうしよう」と妥協した。
「千葉には私から連絡しておく」
「助かります。では私はAYエージェンシーに連絡と、タクシーの手配を」
「うん。それから手土産も……」
「先方の役員の方はとらやの和菓子がお好きでした。準備しておきますわ」
先回りして微笑むと、支社長は満足そうに頷いた。
***
「相変わらず八神の秘書は完璧だな。まったく羨ましい奴だ、こんな美人を独占して」
「いやいや、本当に僕にはもったいないくらいでして」
「まぁ、身に余る光栄です」
昼は支社長の打ち合わせに同席した。
何故ならお相手が古い友人の父親であったからである。
「時にお嬢様はお変わりないでしょうか?」
緋乃がにこりと微笑んで尋ねると、Sランク顧客である某総合病院の理事長も機嫌よさげに頭を掻いた。
「変わらずですよ。とはいえずっと長野に閉じ込めているので、久しぶりの銀座が恋しいと、先ほど出て行ってしまったがね」
「お嬢様は学生の時分から、無類の銀座好きでしたから。私もよくご一緒させていただいたものですわ」
「それは大変世話になったね。よければ今日も相手をしてやってもらえると嬉しいのだが」
「そうしたいのはやまやまですが……」
「恩納、良い。昼休みの間だけでも行ってきなさい」
そんな風に理事長も支社長も許可を出してくれたので、一通りやり取りを終えると、緋乃は昼食と手土産を買うという名目のもとに社外へ出た。
だが、実はこれは計画通りで、待ち合わせの約束は既にしてある。
「彼女」が何が何でも緋乃を来させてあげる、と断言していたからだ。
「緋乃―!」
丸の内のカジュアル・ビストロの前で着物姿の沙絵が飛び跳ねていた。
初夏の輝くような日差しを浴びて、割に薄手の素材だが、暑そうに見える。
緋乃は笑顔で駆け寄って彼女に飛びつく。
「ごめん! 遅くなって。暑かったでしょ、中に入っててよかったのに」
「大丈夫よー、これ単衣だから涼しいの」
確かに涼しげににこりと笑って、それより、と彼女は緋乃の姿をまじまじと見た。
「すっっごい久しぶり!」
「本当。半年ぶりくらいかな?」
「や、一年は経ってるよ。あんた仕事ばっかりしてるから」
「ごめんて」
喋りながら店内に入り、予約していた個室に案内される。
椅子に腰を下ろすと微かに額が汗ばんできて、ハンカチで軽く押さえていると沙絵がまたこちらを見ているのに気が付いた。
おもわず「何?」と聞くと。
「や。まーた綺麗になったなーと思ってね」
沙絵は行儀悪く肘をついてそう笑った。
普段は良家の令嬢として猫をかぶっているが、彼女は緋乃の前だとけっこう蓮っ葉なところを見せる。
その変わらなさが嬉しくて、緋乃もまた笑って答えた。
「そう? ありがと。それより、お父様もお元気そうで良かったわ」
「ああ、うちのおやじ、また無駄話ばかりしてたでしょ。緋乃のこと気に入ってるから」
「とんでもない。いつもご贔屓にしてくださってありがたいばかりですわ」
「んっふふ、いえいえ、こちらこそ。大和ファーマさんが良いお薬を作ってくれるおかげで、良い医療が提供できるのですもの」
上品ぶって笑う沙絵は、大学を卒業後実家に戻り、家業である病院経営を手伝っている。いつのまにか看護師の資格も取っていて、実際に医療現場で働くこともあるようだ。
同じくメディカル業界に進んだ緋乃とは、公私ともにますます良い付き合いを続けていた。
二人はそれぞれにランチを頼むと、さてさて、と久々のお喋りに本腰を入れた。