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八神の担当を外れてからはまんべんなく課内の仕事をこなすポジションに身を置いていた。
決して暇というわけではないが、第三者の都合で振り回されることがないので驚くほどに仕事がはかどり、緋乃はしばし定時退社の喜びをかみしめる日々を送った。
五時半に上がれれば買い物もできる、家でゆっくり料理ができる、湯上りに全身を念入りにマッサージできる。
「って私地味ですよね……みんなエステとかデートとかしてるのに」
全部家の中のことばっかり! と緋乃が笑って話していると、隣の席でチーフがぼそりと呟いた。
「意外だったな」
緋乃はですよね、と笑ってチーフを見た。
「枯れてますよね、私」
「いやそういう意味じゃないのよ」
「え? じゃあ、なんでしょう」
首を傾げるとチーフは仕事をする手を止めて話し始めた。年齢不詳のたまご肌に照明が当たって輝いた。
「ううん、川村課長がね、いきなり八神支社長の担当から恩納ちゃんを外したでしょ? しかもほぼ無理やり。だから正直恩納ちゃんはもっと寂しがるのかと思ってた、ってみんな言ってるのよ」
「みんな?」
「そう、皆」
「……そんな仲良しに見えてましたか」
緋乃は微妙な気持ちで言った。確かに八神が嫌いなわけではなかった。
むしろあの人の信念が好きだったから尽くしてきた。
だがその気持ちを先に裏切ったのは彼なのだ。
考えると胸が重い痛みに沈む。
黙ってしまった緋乃の表情を別の意味に捕えたのか、チーフは言葉を付けたした。
「あ、違うの、誤解しないでね。変なうたぐりをしてたわけじゃなくてね……。ただ恩納さんはあんなに仕事量多くて、支社長も無茶振りばっかりするのにほとんど文句も言わずに頑張ってたじゃない? だから、支社長のことは嫌いじゃないんだろうな、そうじゃないとついてけないよな~って思ってたのよ」
チーフは考え考えそう言葉を選んで緋乃を見た。
緋乃はまぁ……と答えつつ、でも笑えない自分を感じる。
「でも別に、好きだから仕事する、嫌いだからしないというわけでもないですよ。なかよしクラブじゃないですからね」
「うん。わかるわ。でも私たちの仕事ってさ、少し特殊じゃない」
言いながらチーフはデスクに肘をつき、はあと疲れたように手のひらに頭を乗せた。
「基本、一人の役員に一人の秘書が付いて、短くても一年はその人の担当をする。例外はあるけど朝から晩まで一緒でしょ。恩納さんみたいに、出張に連れて行かれることもあるし、会議や取引先にも着いて行くことが多い。とても長い間一緒に居るのよね。その人と。だから嫌な部分もたくさん見える。どうしたって振り回される。業務を遂行することは簡単だけど、人との相性ってどうにもならないものでしょう。だから続かない人は続かないし、実際に八神支社長の今までの秘書たちは半年以上は続かなかったもの」
「……確かに。そういう意味では、私と支社長は相性は悪くはなかったんでしょうね」
緋乃は認めて、はぁと小さくため息をつきながら首を傾げた。
確かに、楽しかった。
勝手なことばかり言う人ではあったが、八神との仕事は毎日が充実していたしやりがいもあった。緋乃はもちろん、他の秘書たちを思いやって差し入れをしてくれたり、ランチをごちそうしてくれたりと、優しいところもちゃんとあった。
そしていつも褒めてくれた。緋乃を信頼していると口に出して言ってくれた。
(……音楽をやめた私に、あの人は確かに自信をくれたのだ)
緋乃はそう思った。同時に胸の痛みが強くなり、ますます言葉が出なくなってしまった。
「八神支社長、すごい反省してるみたいよ」
チーフは控えめにそう言って、自分のデスクから綺麗な包装のチョコレートを取り出すと緋乃に渡した。そしてやんわり微笑んだ。
「どうせその内他の役員を担当するのなら、支社長ともう一度、話し合ってみたらどう? それが私たち秘書の仕事なんだから」
***
わかっている。
自分に対して八神が取った行動は別に間違ってはいない。
ここは会社で、八神は緋乃の上司である。会社に私情を持ち込むなというのは当たり前のことだし、己の悲願でもある仕事を部下の恋愛などのために台無しにされたくないという気持ちもわからなくはない。
(そういう意味では、間違った行動を取ったのはわたしなんだろうな)
あの晩、緋乃は自分の意志で界に会いに行った。
もし誰かに止められていたとしても、どうしても会いたくて彼の元に走っただろう。
そして八神に釘を刺されていたにも関わらず、彼と一夜を共にした。
(でも、後悔はしてない)
しない。
界との恋が間違っているとだけは絶対に思いたくないから。
だが八神の行動はそう言っている。
──それが、嫌だったのだ。
界ともう会うつもりはない。でも、無かったことにするつもりもない。
たぶん、これから自分は誰も界のように愛することはないと思うし、愛されることも無いと思う。
それぐらい界は……界の愛情は、他の人と違っていた。
そしてまた、自分もそうだったのだと思う。
「恩納ちゃん。ここよ」
定時を過ぎると緋乃は会社から近いジャズ・レストランに足を運んだ。川村に呼び出されていたのだ。
川村は面倒見がとても良い上司で、何かあると相談に乗ってくれるので秘書たちと昼のみならず夜も食事を共にすることが多い。最近は八神の一件のために緋乃をとても心配しているようで、今日も向こうから呼び出された。
「お待たせしました」
「いえいえ。迷わなかった?」
「ハイ。ここ、来たことあるので」
「へー、さすがぁ。私は30を過ぎてからデビューしたわよ、ジャズ」
「友達が好きなんですよ」
コンサートホールのような作りの店内では、実際にミュージシャン達が生演奏を行っている。現在は低くSummer timeが流れていた。ちなみにジャズが大好きなのは友人のマリである。
彼女と、沙絵と三人でここに来た時には大興奮して大騒ぎしたものだ。
緋乃は思い出してくすくすと笑いながら川村の前の椅子を引いた。
「あ、久しぶりに笑ったわね。恩納ちゃん」
「そうです?」
え、と自分の頬に触れながら緋乃は川村を見た。
川村はお向かいの席でうんうんと頷いた。
「そうよ。八神のど阿呆のせいでずうっと悲しそうだったもん。やっぱりここにして正解だったー、音楽好きだと思ったから!」
「……ありがとうございます」
緋乃はお礼を言うのと同時に申し訳のない気持ちになった。課長にはずっと心配をかけてしまっている。
「すみません、何だか。気を遣って頂いて」
「何言ってるのよ、遣ってないわよー! これぐらい当たり前のことでしょー、恩納ちゃんは普段ほんとうによく働いてくれているんだし」
「そんな大したことはしてないですよ」
「残業40時間は大したことよ」
「手際が悪いんです」
「違うわ。他の人なら倍はかかっている仕事よ」
あなたは自分に厳しすぎるわね、とため息を吐いて、仕切り直すように川村は緋乃にドリンクメニューを見せた。
「とりあえず、まずは乾杯しようか」
「そう、ですね。何にしようかな」
緋乃がつい、と指先をメニューに滑らせると、川村は思い出したように声を挙げた。
「あ。体調悪いんだから、アルコールはやめとこっか」
「ん~そこまででもないんですけど。でも確かに、最近あんまりお酒も受け付けないかも」
なんでかなぁと緋乃は呟いてノンアルコールカクテルを選んだ。
丁度ウェイターが通り過ぎたので注文を伝えると、川村がなんだか微妙な表情でこちらを見ているのに気が付く。
最近、よくこの顔で見つめられている気がして、緋乃は彼に聞いてみた。
「……あの、課長? どうかしました?」
「えっ」
「最近よく、私をそうやって見守っているというか──心配そうに見られてますので」
すると川村は百面相をした。
いかつい顔に皺を寄せ、梅干しを口に含んだ時のような表情からわさびを食べた時の表情へ、そして最終的には何故か両の手のひらで頬をパン! と思い切りたたいた。
痛そう! と緋乃が思わずビクリと肩を揺らした時、丁度ドリンクを運んできたウェイターもまたビクリとしていた。
「あ、ごめんなさい」
川村は赤い跡の残った顔で丁寧に謝って、それからキリリと緋乃を見た。
その表情は何か決意を秘めた顔である。緋乃はカクテルを手にしながら思わず姿勢を正した。
「恩納ちゃん、あのね。聞きたいことがあるのだけれど」
「は……はい」
何かよからぬことを言われるのだろうかと緋乃は構えて川村を見た。
しばらくの沈黙を挟んだのち、やがて耳に流れてくる音楽がトランペットの旋律に変わったころ、川村はまっすぐに緋乃を見てこう切り出した。
「あなた──妊娠の可能性はないかしら?」




