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「ハイ、カイ」
ジョージと共に社に戻ると受付嬢のシャンナに呼び止められた。
一瞬いつもの誘惑かと思ったが、彼女は笑顔で役員からの言伝を伝えてきた。
「戻り次第部屋にくるようにと」
「わかった。ありがとう」
シャンナは波打つ美しい黒髪の持ち主で、界はその姿を目に入れるたびに緋乃のことを思い出した。あの艶のあるやわらかな髪を。口づけた時の甘い香りを。
この両腕の中で、本当にしあわせそうに笑っていた顔を──。
(──手放すべきでは、なかったんだ)
今までの人生の中で、己の選択を後悔したことはない。
だが、緋乃だけは例外だ。
あの手を離すのではなかった。
どんな時も傍に居て、話を聞いて、抱きしめてあげるべきだった。
彼女がいなければ夢すらも色あせると、もっと早くに気が付かなければいけなかったのだ。
俺が馬鹿で、ガキで、何をしても彼女は離れて行かないと思い込んでいたから。
気が付いた時にはもう取り返しがつかないほど、緋乃を傷つけてしまっていた。
「やあ、カイ。ジョージ。来たね」
役員室にはジョージと共に赴いた。先方がそう望んだからだ。
ヒルデブラントAG(日本で言うと株式会社)の役員には世襲傾向が見られ、創業者の息子が現在の代表を務め、その家族が何名か主要ポストに就いている。
「何か御用ですか? ジーク」
界たちを呼び寄せたのはヒルデブラント一族の長男、ジークフリートだった。
界の実家とは昔から家族のような付き合いをしていたので、正直いまでも上司というよりは兄のような存在だった。
「ああ。ジョージから聞いたかもしれないが、半期イベントの件で」
「……」
半期イベント=緋乃も関わるあのチャリティだ。
界は黙った。
「今回は日本がテーマということで、あちらからもたくさんの後援者を集めている。特に、医療系や製薬系の企業をね。表向きは私たちが主催する私たちのイベントだが、クライアントの意見も聞いて内容を決めて欲しい」
「つまり、僕らがそのお役目を担うと?」
むっつりと口を閉ざした界に代わり、ジョージが代わりに割り込んだ。
専務はにこりと笑ってそうだ、と答えた。
「今度のイベントはクリスマスだろう。まだ八か月ある。必要ならば向こうにも飛んでよいイベントを作ってくれ。必要な人材の手配も君たちに一任する」
「たとえば現地でアルバイトを雇うことは可能ですか?」
「ああ、勿論だ。著名な日本デザイナーは、世界各国でファッションショーを開くとき、現地スタッフのみを雇って作り上げるそうだ」
「若い人を選びたいな。……才能があっても生かすことができないような人たちを」
ジョージは瞳を輝かせて喋っていた。頭が良く人当たりの良い彼は、企画部でも適任だったろうと界は思う。今回のイベントには確かに必要だ。
「それから、カイ」
「──は」
いきなり専務に名を呼ばれたので、界は瞬きをして彼を見た。
グレーの瞳がまっすぐこちらを見つめている。
「わかっていると思うが、国際営業部の君は直接交渉役だ。何度も言っているが接待の技術を磨け」
「……はい」
痛いところを突かれて界はかすかに苦笑を浮かべた。反論はできない。ここがヨーロッパだからまだいいが、たぶん日本では自分は営業として働けないだろう。
「まずはパーティにご招待しよう。ジョージと二人であいさつ回りをするように」
「了解いたしました。特に重要なクライアントは送迎の手配を?」
「ああ、そうだな。リストを作って提出してくれ。必要なら秘書たちを派遣するが、日本人クライアントは君たちが対応するのが一番良いだろう」
専務はそう言って言葉を切った。そのままふと窓辺に視線を遣り、何か考える様子を見せる。
界は気が付いて首を傾げた。
「ジーク? なにか気になる点が?」
「──ああ、いや。なんでもないよ」
灰色の瞳にほんのわずか翳りが見えた気がしたが、話はそこで終わった。
界とジョージは退室し、そのままそれぞれのオフィスに別れた。
***
(ったく、ただでさえ忙しいってのに)
オフィスに戻ると界は即座にクライアントのリストを作った。そのまま専務にメールで送り返信を待つ。合間に同僚たちの質問や相談に答えながら新製品のデータに目を通し、ひっきりなしに回ってくる電話応対をする。
馬鹿みたいに忙しいのは変わらないが、それでも現場営業をやらされていたころよりは今の方が大分ラクだ。
振り返れば年々仕事は楽しく、面白くなってきている。
それは年齢や国籍にかかわらず、純粋に実力で判断してくれる会社のおかげだった。
学生時代の界の夢はチェリストになることで、実際に国際コンクールでも優勝をかっさらった後はヒルダの所属アーティストとして演奏活動を行っている。
ビジネスマンになったのは親戚のようなヒルデブラント一家に強く望まれたからということが元々の理由だったが、やってみると酷く面白くてやめられなくなった。
音楽も仕事も、感情論と理論をうまく組み合わせてバランスを取るのは同じだ。
でも音楽ばかりやっていると何か感覚が現実離れしていくし、仕事ばかりしていると何か感情が欠落して人間離れしていってしまう。
だから、両方やることが界にとってはどうやら丁度良いようだった。
おかげで毎日は充実している。ほんとうに。
ただ彼女という喪失が、どうやっても埋められないことだけを除いては。
「カイ、今晩飲みに行かないか?」
「またシングル・パーティ(独身の男女が参加するパーティ)に引っ張り込む気だろ? けっこうだよ」
「そう言うなよ。お前、ハンサムなんだから」
「……ありがとう」
「だいたい平日はうち、休日はチェロだろ? そんなに仕事ばっかりしてて何楽しいか? 人間プライベートの方が大事だろ」
出たよプライベート、と界は内心息を吐いた。海外の人間たちはオンオフの分け方が猛烈にはっきりしている。
それが悪いとは言わないしそりゃそうだろうとは思うものの、界に言わせりゃほっといてくれ、である。
だいたい女と出会う=プライベートが充実する、という方程式は必ずしも成り立たない。
そもそも界は女が好きではないというか、女が欲しくて女と出会う、ということに興味が無い。惚れた女しか欲しくないのだ。
……自分の古い友人ならよくわかっていることではあるが。
「ありがとう、でも。また今度にしておこう」
そつなく断ると同僚の眼が細くなった。浅く焼けたきれいな肌を持つ同僚。
「やっぱり、カイ」
「なんだ?」
「──おまえゲイだろ?」
微妙な沈黙を挟んだのち、面倒だからもうそういうことにしておいてくれ、と界は答えた。