4
「どう思う? マリ」
「どうもこうもねーわよ」
その後夕飯を取り、お風呂に入った後、緋乃は疲れていたのか早々に眠ってしまった。
沙絵とマリは色々興奮してまだ眠れそうになかったので、ホテルの中のバーに移動して話をすることに。
そこで沙絵はダイキリを、マリはマティーニを注文してうーんと唸った。
「確かに簡単なことじゃないよね。遠距離恋愛、しかも海外でしょ。永住権とか仕事とか……ってこれは、緋乃が向こう行く場合か。逆はないのか?」
喋りながら考えをまとめつつ、マリはカウンターに頬杖をついた。
沙絵はグラスに口をつけながら答える。
「界くんが日本に住むってこと? なら問題ないわよね」
「なくはないよ。あいつ確か二重国籍だから」
「え!? そうなの!?」
沙絵は知らなかったと眼を剥いた。なんでも、界は両親が十年以上ドイツで過ごした上、向こうで出生した子供であり、かつドイツで長く学生時代を過ごしたので二重国籍を選べたのだとか。
「え? え? 普通に日本人だと思ってたんだけど?」
「日本人ってそういう感覚薄いからね~。話題に出なかったでしょ? あたしとジョージはそういう話、あいつとよくしてたのよ」
マリは答えた。その言葉に、沙絵は友人たちが自分の知らないところで悩んできたことをいまさらながらに知る。
マリとジョージは日英ハーフで、界はドイツからの帰国生。緋乃は純日本人だが外資系の会社に勤めている。
確かに私はそういう感覚が薄いのかも、と沙絵は気が付き、そして緋乃はこういう所でも界を遠く感じるのかもしれないとも思った。
「……羽が」
「はね?」
呟いた言葉にマリが反応する。沙絵は、ちょっと恥ずかしい言葉かなと思ったが、酒の勢いにしてしまおうと友に言った。
「翼っていうのかな。あなた方にはそういうのがいくつもあるのね。わたしにはない」
「そう、なのかねぇ。あたしは逆に、沙絵がまぶしく見えてたことがあるけどね」
マリの瞳がきらりと光る。沙絵は首を傾げた。
「あたしが?」
「うん。日本人っていう確固たるアイデンティティがあって、しかも良家のお嬢様でさ。さらりと着物なんか着こなしちゃって。揺らがない自分を持ってるんだなって思ってた。マイペースだし」
マイペースなのは否定しないけど……と沙絵は思った。
だが人とはそういうものか。誰しも自分と他人を比べて、羨ましくなったり、不安になったりしながら生きているのだろう。
それが友達なら笑って過ごせる。
でも恋人や夫婦となるとそうはいかない。互いの違いを受け入れて、我慢して、時には何かを諦めねばならない時もあるだろう。
緋乃は界の翼を折りたくないと言っていた。でも、だからといって界が緋乃の翼を折っていいという理屈にはならない。
「あたしね。……界くんは今のままでいいって思ってる気がして。それが許せない」
「今のまま?」
「うん。仕事も音楽も続けながら、さらに緋乃をもう一度取り戻して、そうしたら完璧に幸せでしょ。そういうのがなんかズルく、思えて」
あたしも大概性格わるいよねー、と沙絵は自嘲してダイキリを飲み干した。
続けてお代わりを頼む。
マリはしばらく考え込んでいたが、やがて小さく呟いた。
「まあでも、界にもまだ抱えているものはあるからさ……」
「お父様のこと?」
「うん」
「それくらいなら皆何かしら抱えているわよ。甘えんなって話でしょ」
「ま、確かにそうだわな」
二人の友人達の話はその夜遅くまで尽きることがなかった。
***
一方のドイツでは界が荒れて……いなかった。
普段より大人しく、物憂げではあるが、以前のように暴れたりすることはない。
だがその代わりのように仕事量を増やし、元々ないようなものだった休日も減らした。
「界、大丈夫なの?」
新しいCDが完成して、そのイベントの際に久しぶりに界を見たジョージは驚いた。ひどく面変わりしてしまっていたのだ。痩せたし、眼が据わっている。
「うん」
界はみじかく答えたが、ジョージは嘘だとすぐにわかった。最近の彼は音が沈んでいる。イベントを終えた後、すぐに帰るという彼を追いかけようとしたが、横から現れたヨハンナに拒まれてしまった。
「だめ! これからデートなの」
「そ……そうですか」
くっそー、と思いながらジョージにとっては一応上司の娘である。反抗はできない。悔しさに足を踏み鳴らしていると、ふと背後から声をかけられた。
「君は──ヒューバー君?」
はい? と思いながら振り返る。そして仰け反りそうな勢いで驚いてしまった。
なんと界の父が居たのだ。
瀬川正巳、ミュンヘン大学の言語学教員でありながら学者である。
すらりとした長身になでつけたグレイヘア、と見た目は気品のある紳士だが、性格はかなり偏屈で、息子の界との間には大きな軋轢があるのだ。
「ミ……違う、ヘア・瀬川。ごぶさたしております」
「ああ。元気そうだな」
「何とか」
ジョージは引きつった笑みを浮かべつつ応じていたが、内心はドッキドキであった。この人とは何度か対峙したことがあるが、そのどれも印象は良くない。むしろ控えめに言っても最悪だ。
なにしろこの人は大の音楽嫌いで、チェリストを志す息子の夢を経とうと、その楽器を壊したことがある。
あの時界は号泣して、ジョージはその場に居合わせた。
思い出すと気が遠くなるような話だ。
「なぜ、ここに?」
音楽嫌いのあなたがなぜ僕らのコンサート会場に、とジョージは疑問を口にした。
「たまたま通りかかった」
「……そうですか」
もしかして界を見に来たのかな、とジョージは思った。この人が素直にそれを認めるわけがないから、言えないだけなんじゃないかと。
でももしそうだとしたら、この人は少し変わったことになる。
「相変わらず二足のわらじを履いているのだな」
界の父に言われて、ジョージははっと瞬いた。
肩の上に背負っているチェロが急に重く感じられる。
「そう、ですね。慣れると結構楽しいです」
「どちらも中途半端にせず、どちらかにしたらどうなのだ。君は由緒正しいあのヒューバー一族の息子だろう。親戚は悲しんでいるんじゃないのか」
「僕の人生は僕のものですから」
ジョージは答えて、ますます目の前の人を不思議に思った。
あくまで僕の記憶の中では、だけど。
このひとは誰かが悲しむことを気にかけるような人ではなかった。
「いつかどちらかが嫌になるかもしれません。両方だめになるかもしれません。でも、今はこれが好きだからこれでいきます。何かあったらその時に考えればいい。人生は航路です」
「界もそう思っているのか?」
瀬川正巳はまっすぐに尋ねた。ジョージは一瞬、その質問の意図を図りあぐねた。
(どうしてそれを僕に聞く?)
聞きたければ、あなたの息子に直接聞けばいいじゃないですか──。
そう言いかけて、でも、出来ないから僕に聞くのかと思い直した。
「……彼の心を僕が掌握しているとは思えませんが。でも、個人的見解では、彼は今を気に入っているんじゃないかと思いますよ」
慎重に言葉を選んでジョージは言った。界の父は、言語学者だけあって、非常に鋭い話法を用いるのだ。考えうる限り最上の言葉で応戦しなければすぐに打ち負かされてしまう。
ジョージの言葉を聞いた界の父は、少し考えていたようだったが、やがて小さく「そうか」と言った。
「わかった。……ありがとう」
「い、いえ! 大したことでは」
お礼を言われたことにびっくりしながらジョージは答えた。
やっぱりこの人は少し変わった。というか、日本に居た時が不自然だったのだろう。
あの時この人はミュンヘン大学での仕事を失い、自暴自棄になって酒に溺れていた。そしてその仕事を再び得るために、界をヒルダに斡旋したのだ──。
(今となってはそれでよかったのかもしれないけど)
やっぱり彼のしたことは許せない、とジョージは拳を強く握った。
多分今でも、界の父とヒルダが交わした約束は有効で、界はヒルダをやめられないはずだ。界がやめたら父が職を失ってしまう。
界は表面上は気にしていないと言っているが、実際彼がヒルダのお気に入りなのは事実だし、あわよくばヨハンナとくっついてくれと社長家族が思っているのが明白だ。
え。ていうか、悪いのって全部ヒルダだ!?
今更ながらにジョージは気づいて慄然とした。なんてことだ。
これまでは界の父が全面的に悪いものだと思い込んでいたが、今、自分が仕事をする立場になり、彼の気持ちがわかるようになった。
もう一度仕事をくれてやる代わりに息子を遣せと言われたら、心が揺らいでしまっても仕方ないことだろう。
一番悪いのはそんなえげつない要求をする側である。
「あの! すみません」
やがて去りゆこうとした界の父の背中をジョージは呼び止めた。
そして振り返った彼に伝えた。
「……少し、お時間をいただけないでしょうか」