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ヒルデブラントは、自動車・楽器の製造から販売まで手掛けるドイツの一大企業だが、元々は手先の器用な兄弟が始めた小さな会社だった。
兄の方が自動車が好きで、弟が音楽をやっていたものだから、それで複合的に様々な事業を行うようになったわけだ。
マイスターを誇るドイツ人らしい高度な品質と性能、それに美しさが評価され、兄弟の会社はみるみる成長していった。様々な企業と取引をし、やがて吸収・合併を繰り返しながら成長し、今や世界中に支社を持つ。
界が所属するのは、そのヒルデブラントのドイツ・ミュンヘン本社だ。
半分は音楽家として勤務しながら、語学の才能を買われて、基本的には音楽事業の営業を務めている。
「どう? 営業部のリーダーってのは」
「ああ、楽しいよ。皆の個性を見ながら全体の売り上げを伸ばすって方が、ただ売るより俺には性に合ってるな」
「昔から、上に立つのが向いてるもんね。界は」
「まぁクセがあるやつばっかりだから、大変なことも多いけど。責任は俺が取るから自由にやれって今は泳がせてみてるよ」
「そういう事簡単に言えるのがすごいよなあ」
ポークステーキを平らげたジョージが、コーヒーを傾けてははっと笑う。
「僕は言いたくないねー。責任取りたくないし。優秀な人間だけで個人プレーしてるほうが絶対楽」
「それじゃ成り立たねえだろ?」
「いやぁ、マーケティングって結構個人プレーなところあるからね。他部署とは組むけど、マーケティング同士は仲悪い」
「だからお前……。ことあるごとに俺ん所来るのか」
「そ。だって界が一番わかってくれるし話早いから」
ジョージが言うと界も笑ってコーヒーを傾けた。
まるで大学生の時と同じように楽しげに盛り上がっているが、二人はもう子供ではない。仕事を楽しむ若手ビジネスマンだ。
ジョージは手を上げてウェイターを呼び止め、追加でケーキを頼んでから界に言った。
「だからさ、今度試験的に始めるチームプロジェクト制。僕すごい期待してるんだ。同じ部門でばっかり仕事するんじゃなくて、違うポジションの人間だけでチームを組むってやつ」
緑の瞳がきらきらしていた。その輝きを見つめながら、だが界は思いだしたように息を吐いて眼を伏せた。
「……その先駆けが俺らだってわけか」
実際はチームプロジェクトどころか共同プロジェクトだ。
会社として大々的に開催する連続コンサート。
自社の楽器を自社のミュージシャンに演奏させることによって、双方に良い結果をもたらそうという企画である。しかも収益の半分は寄付に回すチャリティイベント。
界とジョージは昨年まで演奏者として出演する側であったが、今年からは経験を生かしてよりイベントを盛り上げてほしいという上のお達しで、運営側に回されたのだ。
この指示があった当初、界は現場営業としては最後の難しい案件を持っていて、ドイツを飛び回っていた。その間に、ジョージが好き勝手色々言って、いつのまにかイベントのテーマが「日本」「TOKYO」になっていた。
そしてクライアントの中に、彼女の名前があったわけで。
「できすぎてる。あり得ない、物語だ!」
思わずうなって頭を抱えると、ジョージが向かいで苦笑した。
「例えそうでも、やるしかないだろ?」
「……」
「君も緋乃も。お互いの為に、別れる道を選んだんだから。ここで頑張らなきゃ本末転倒だよ」
親友の声が次第に柔らかく変化するのを感じ取り、界は申し訳なくなった。
──気を遣わせているのだ。
緋乃と別れることになった当初、界は我ながら死ぬのではないかと思う程に荒れた。
毎晩酒を飲み、酔っ払いに絡み、何度も流血沙汰を起こした。
一度は演奏活動ができなくなるほどのケガをしたこともあり、会社からも謹慎処分を食らったほどだ。
本来は即クビでもおかしくない事態であったが、上に頭を下げてなんとか取り成してくれたのが他でもないジョージだったのだ。
彼は、界を責めなかった。
ただ傍にいてくれて、守ってくれた。
最後には、涙すら流した界のことを抱き、大丈夫だと、言ってくれた。
(だいじょうぶだよ。君が緋乃のこと、どんなに好きだったかしってるよ)
だから無理に想いを消そうなんてしなくていい。
そんな必要はどこにもない。
──いつかまた出会ったら、素直にその想いを伝えればいいんだよ
「……ジョージ」
界はふと友を見ていた。
ジョージはうん? と首を傾げて微笑む。
「なに?」
「お前はさ。わかってたの? こういう日が来るだろうって」
あえて直接的な表現を取らずに界はそう言った。
ドイツ語に慣れている昨今からすると魔法のように謎めいた言い方だなと思ったが、ジョージは果たして、わかってくれた。
ケーキを食べるフォークを置いて彼は明瞭に答えた。
「うん。なんとなくそんな気がしてた」
「何で?」
「何でかな。……でも、確信していた。君と緋乃はこのままじゃ終わらないって。君たちは絶対に運命だって。そう信じてたから」
だから不思議と、驚かないよ。
「……そっか」
界は言った。何か、あたたかいものが、胸の中に広がるのを感じていた。
ジョージの言葉を信じたい自分がいた。
彼女と別れて以来、ずっと恋や愛を嫌悪してきた自分だが、その実緋乃への想いはどうしても断ち切れなかった。
忘れようとしても、無理だった。
黒髪を見れば彼女を想い、ミモザを見れば彼女を想う。
甘い花のような香水も、優しい声で歌ってくれた子守唄も、彼女にまつわる全てのことが日常において界を責めさいなんだ。
その記憶はまばゆいばかりに幸福で、切なくて。
界はずっと途方に暮れていた。
彼女を手放して、自分は片方の翼を失ったのだと理解していた。
「緋乃に、もう一度、会えるなら……」
やがて息を吐き、ささやくように界は言った。
まるで祈りのようだった。
──彼女にもう一度会えるなら。
伝えたい、ことがある。