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きんいろのつばさ  作者: 小糸
ライラとジル
27/51

4

 

 今日、君を会社で見かけた時、自分でも信じられないくらい嬉しかった。

 けど次の瞬間に、君が水曜日に帰るって思い出した。それで怖くなったんだ。

 これが最後になるかもしれないって思ったら。


「はーい、来ました、困ったときのジョージくんですよ~」

「ご、ごめんね?」


 緋乃の呼んだ迎えとはジョージのことだった。なんでだよ、とかなり酔っぱらった頭でも界は不服に思ったが、それを口にする前にジョージにタクシーに押し込まれた。


「はい、入って。久しぶりだな。君がこんなに飲むなんて」

「うるさい」


 もう説明もしたくない。界は移動時間は寝ることに決めた。

 目を閉じると代わりに緋乃が説明している声が耳に入る。


「同じ営業部の人たちと出会っちゃって。一緒に飲むことになったんだけど、わたしのぶんまで界が飲んでくれて……」

「あ~成程ね。カーラとかサントスいた?」

「うん」

「あとベサニーと、えーと」

「キム?」

「そう、キム! じゃ営業部の酒豪ぞろいだ」


 僕も前ひどい目にあったことある、とジョージが笑って、それから界の頭をぽんぽんと叩いた。


「男前だな。緋乃を守ったのか」

「もう寝てるわよ」

「どうかな」


 見透かしたようにくすりと笑ったジョージが憎らしくて、界は聞こえないふりを装った。そのうち本当に気絶するように意識が飛んで、気が付いたら家に居た。


「カーイ。着いたぞ。起きろ!」

「っだ……もー、うるせーなほんとに」

「あーはいはい。とりあえずスーツ脱いで。着替えて」


 このころにはぐったりしてしまっていた界は、ジョージが言った言葉の半分も聞こえていなかった。界の部屋を良く知っているジョージは、彼を自室のベッドまで誘導しようとしていたのだが、張本人はそこまでいかずにリビングのソファを見つけた瞬間そこに倒れた。もう限界だったのだ。


「あ、ちょっ! スーツが、スーツが~」

「え、え、どうしたの?」


 わめくジョージの後ろから、ぱたぱたと緋乃が現れる。彼女はあらら、と声を出して、界の前にしゃがみこんだ。


「カーイ。ちょっとだけ体起こせる? ジャケットだけ脱ご」

「んー……」


 彼女にそっと腕を触られると、界は薄目を開けて反応した。眼が熱い。

 なんだか頭がぼうっとするが、緋乃が再度「体起こして?」と繰り返したので、大人しく言うとおりにした。

 だが、スーツのジャケットを手にした緋乃がそのまま他の場所へ移動しようとすると──


「あらら」


 傍で見ていたジョージが今度はそう言った。

 何事かと言えば、界が緋乃の手首を掴んでいたのである。


「ちょ、っと。界?」

「……行かないで」

「んっ?」

「ひぃ。ここにいてよ」


 界は吐き出すようにそう懇願した。咄嗟に手が出たことも、自分が何を言っているのかも、よくわかっていなかった。

 ただ酷く彼女が恋しい。酒のせいで足元も視界もおぼつかず、心細くて仕方が無かった。


「……?」


 ぼんやりと見つめる先で、緋乃が怪訝そうに眼を細める。

 彼女は首を傾げながら手を伸ばして界のひたいに触れた。ひんやりとした感覚。界は心地よさに眼を閉じた。


「どうしたの?」

「なんか、少し熱いの。弱ってるみたいだし……」

「もしかしたら、そのせいで酔ったのかな? ……」


 緋乃と、友の声がだんだん遠ざかって行く。

 天が回るような心地の中で、界は、自分を呼ぶ声に安堵しながら眠りに落ちた。


 *** 


「……ん」


 ひやりと、額に触れたつめたい感触に界は眼を開けた。

 辺りは薄暗い。身じろぎをするとぎしりと何かきしむ音がして、その音と、肌に触れる感触に、自分がリビングのソファに酔って倒れ込んだことを思い出した。

 という事は、あの後そのまま寝てしまったのだ。


「界? 起きた?」

「……えっ」


 急に横からかけられた声に界は思いっきり驚いて肩を揺らしてしまった。

 緋乃が居た。

 ひぃ、と呼んだ声は何故かかすれた。それに彼女を捕える視界もふわふわしていて、起き上がろうとすれば腕に力が入らない。


「……なんっ、きみが、ここに……っ」


 必死にそれだけを言うと、緋乃は界の体をやんわりと押しとどめて静かに言った。


「起きちゃだめ。熱があるの」

「ねつ? ……酔ってるだけだよ」


 何言ってるのかと眼だけで緋乃を見れば、彼女は今一度、きっぱりと断言した。


「あなたは体調が悪かったのよ。だからあんなに酔っぱらったの」

「そんな自覚なかった」

「でも実際に熱があるの。37.5度」


 緋乃は何故か怒ったようにそう言って、それからふいに、悲しそうな顔をした。

 思わず界がどきりとして口をつぐめば、彼女の手が頬に伸びてくる。


「……むりしないで」


 ダーリン、という小さな声とともに、彼女の手の甲が頬に押し付けられる。

 その言葉が合図となったように急に体がだるくなり、界は驚いた。

 喉が熱い、頭も痛い。

 確かに熱い体は動かすのが鉛のように厄介だった。


 でも、それでも界は緋乃の手を掴む。ひんやりとした、世界一優しい指先を自分の手のひらに包んでしまう。


「俺の、ために。……そばにいてくれたの」


 掠れた声でそう問えば、緋乃はだってと困ったように微笑んだ。


「あなたが、そう望んだから」

「ひぃはそうしたくなかった?」


 界はなんだかとても弱い気持ちでそう彼女を見つめ返した。メイワク、だったのだろうか。本当は緋乃は帰りたかったのに、俺が無意識にひきとめてしまったのだろうか。

 だとしたら──


「──ばかね。私の性格、知ってるでしょ?」


 緋乃はやさしく笑って言った。界の知りたい答えではなかった。

 でも、彼女は話はそれで終わりとばかりに触れ合っていた手をほどき、立ち上がろうとする。

 界はいやだ、と思った。思考がひどくそぎ落とされているのがわかる。

 普段なら隠されている感情が、この重たい体を動かすほどの力で表に顕われていた。


「いやだ、行かないで」

「きゃっ!?」


 反射的に、というよりは衝動的に、界は身を起こして緋乃を抱き寄せていた。

 不意打ちをくらった緋乃は悲鳴をあげて界の胸に倒れ込む。

 百の昼も千の夜も超えて求めたその人を、界はぎゅうっと抱きしめた。


「ちょ……っ、かい、くるしっ……」


 は、と胸の上でせつなげに漏らされた声は界の心を焔で炙った。

 彼女の脚は界の腿の上にもつれ、互いの体温が溶けあうように感じられた。


「界ってば、ねぇ、だめ」


 寝てないと、と緋乃の手が肩のあたりを叩く。界はその言葉を無視して、彼女の髪に指をからめた。

 それだけで緋乃の体は少し揺れた。ふれた指先の皮膚から、ドッドッと、激しい鼓動が伝わってくる。


「……ずっとこうしたかったんだ」


 界は吐き出すようにして言い、それから緋乃の顔を覗き込んだ。

 彼女の頬はくれないに染まり、唇も同じように赤かった。大きな瞳が、戸惑ったように界を見て、それから伏せられてしまう。

 界はそれすらも拒めないようにと彼女の顎を指ですくった。


「あ、」


 小さく声をあげた緋乃の、確かに界と同じ欲望に染まる眼を見つめながら、界は低くささやくように言った。


「ひぃにずっと会いたかった。会いたくて死にそうだった。君を忘れたことはない。あの日から、後悔しなかったこともなかった」


 思いの丈を言葉にすれば、緋乃の眼がだんだん泣きそうに歪んでいった。界の胸にふれていた指先に、くっと、爪を立てるようにして力が込められる。

 界はそのまま口づけそうになる衝動を必死に押さえて、言わなければ、と思った。今こそ。


 ずっと伝えたかったことを、君に。


「界──」

「緋乃」


 何か言いかけた緋乃の唇にそっと人差し指をふれさせて、界は告げた。


「きみは本当に、俺の宝物だった」


 そのままそっと顔を寄せる。窺うように頬を撫でれば、緋乃はひとすじ涙をこぼして首を横に振った。


「わ、私は、あなたを切り捨てたのよ……」

「違う。俺が、ばかだったんだ。君を手放すべきじゃなかった。君より大切なものはないって、もっと早く気が付くべきだった」

「そんなわけないじゃない! チェリストになることはあなたの夢で──仕事だってすごく楽しそうで──、だからわたしは」


 私は、と緋乃は界の胸を弱く叩いた。


「っ……あなたのこと大好きだったけど……! あなたにはきっと、私はいなくてもいいんだって……思って!」

「……ごめん」


 涙とともに絞り出された、その言葉こそが緋乃の本音なのだと界は悟った。

 俺の為、とか。自分自身が弱かった、とか。確かに俺たちの別れの理由はいくつもあった。でも。


 強さとか理屈とか、こうあるべきという理想論から隔てられた場所で、むきだしの彼女自身が抱えていたのは、きっとその寂しさだった──。


「……君は、俺の夢だ」


 界は緋乃の頬を出来うる限りそっと撫ぜて、どうか伝わりますようにとその額に唇を付けた。


「今なら、そう言える。君が居なければ音楽も仕事も意味がない。そのことが、この三年間でほんとうによくわかった」

「……っ、あなたは、熱に浮かされてる……」


 いよいよ唇にキスをしようとすれば、まつげが触れ合いそうな寸前の距離で、緋乃が最後の言い訳を探した。


「でも、全部本当のことだ」

「か……んっ」


 尚も何か言おうとした彼女のくちびるをついに塞ぐ。

 少しアルコールの香りのする、蕩けそうに熱くやわらかい唇。

 軽く触れさせただけなのに、緋乃は界の腿の上でびくりと体を揺らした。その衝動が艶めかしく、界ははぁと息を吐いて緋乃の髪を梳いた。


「ひぃ」

「……、っ」


 熱のせいだけでなく、頭の芯が融解しそうだ。目の前の人が愛しいという感情しか浮かんでこない。

 思わずもう一度唇を寄せれば、緋乃がふるふると首を横に振った。

 涙の残る顔で、言葉もなく、界の眼をみつめたまま首をふるのだ。


「いや──?」


 かすかな理性にすがるように、界は必死にそう言葉を編む。

 緋乃はすると、困惑しきった様子で界の腕をぎゅっと掴んだ。


「いやじゃない、けど……っ、界、熱……」

「……熱って」


 そんな理由か、と半ば驚き、半ば安堵して、界は小さく笑みをこぼした。


「わ、笑いごとじゃないよ! 寝てないと治らない……」

「わかったよ」

「んんっ」


 今一度ちゅっと口づけ、そのまま彼女を逃すまいと抱きしめ直す。

 ぜんぜん、わかってない、と口づけの合間に緋乃がくやしそうに言ったけれど、もう聞いてあげる余裕がなかった。

 首筋に、胸元にとキスを落として、腕の中でふるえる体をその度に撫でる。


「ふ、ぁ……」


 緋乃は酷く鋭敏に反応した。記憶の中でも、彼女はとても繊細だったけれど、今夜の彼女はすごく熱い。抱きしめていると肌が燃えるようだった。


(ってか、実際、汗ばんでる)


 緋乃をそっとソファに押し倒し、界は気が付いた。いや。

 汗ばんでるのは、俺だ。

 体はだるいし、でも夢にまで見たこの人の姿は綺麗すぎるし、いよいよ頭がおかしくなってきたのかもしれない。


「ん、く……ふっ」


 緋乃の衣服の胸を暴き、そこに顔を寄せれば、彼女は口元に指先を寄せて声を抑える仕草をした。ヤバい、と界は思う。可愛すぎてヤバい。

 甘い匂いに、やわらかい感触に、くらくらする。

 白い肌は薄闇にも浮き上がって見えて、なのに部分部分は桜色に染まっていて、なんかもう──。


(……夢みたいだ)


 緋乃の胸の上で何度目かわからない熱い吐息を吐き出して、界は彼女を抱きしめた。


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