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ジョージの言い方は間違っている。俺は彼女とのことを、別にどうするつもりもないのだ。
大体再会するなんて思ってもみなかったのだ。たまたま偶然、仕事の関係で出会ってしまっただけで、俺がそれを望んだわけではない。
いくら三年ぶりにまみえた彼女が、記憶よりずっと綺麗に、素敵になっていたからと言って──別にまた付き合いたいなどと。
……思わないわけではないけれど。
「ベサニー。今月の売り上げ進捗を部長に報告するから、メンバーのデータを一覧でくれるか」
「わかりました。すぐに」
「それから三時から会議室を予約しておいてくれ。皆でミーティングをしよう」
「カイ! 聞いてくれ、この間から狙ってた案件が取れた!」
「本当に? やったなサントス」
「ヘア・セガワ、内線にお電話です。……」
レセプションの余波でその日は夜まで慌ただしくて、ようやく時計を見上げる余裕ができた時には時刻は8時を回っていた。
気が付けばオフィスにはもう誰もいない。
この会社は部屋の仕切りが全てガラス製なので他の部署も見えるのだが、本当に見事に誰もいなかった。
界ははー、と長い息を吐き出してネクタイをゆるめた。
そろそろ帰ろう。
机を片付けて電気を落とすと、スーツのジャケットを片手に事務所を出た。
一階まで降りたところで、ふと、エントランスの椅子に誰かが座っているのに気が付いて足を止めた。
華奢な肩がこちらに気が付いて振り返る。
「カイ?」
「──ヨハンナ」
うす暗がりの中で翡翠の瞳がわずかな光を集めて輝く。
いつも怒っている彼女にしては弱々しい表情だったので、界は何かあったかなと踏んだ。
ヨハンナは喜怒哀楽が激しい。非常にわかりやすい女の子だ。
「どうかしたのか」
駆け寄ってきた彼女にそう声をかけると、ヨハンナは頷いた。
界の腕にくっついてくぐもった声を出す。
「……皆が私の悪口を言う。お父様の力でこの会社にいるんだって」
「またそれか。だから気にするなって言ってるのに。専務もずっと同じことに耐えてきたはずだぞ」
「お兄様は優秀だもの。それに、ちゃんとしたドイツ人だから」
彼女の、普段は隠されたコンプレックスが露わになる。界は黙って彼女の頭に手を置いた。こげ茶色の髪の毛は、確かに彼女の兄である専務よりずっと濃い色合いをしている。
ヨハンナ・ヒルデブラントにはアジアの血が入っている。
それは、彼女を一度でも目にしたことのある人間なら誰もがわかる事実だが、そのことを追及する者は誰もいない。暗黙のルールだとみなされているのだ。
何故なら彼女の両親は白人だからだ。
白人同士の結婚でアジア系の子が生まれるわけがない。実際、彼女の兄である専務は全き白人であるのに、ヨハンナだけが顔が違う。
それが意味するところは両親以外にも親がいるという事実。
ヨハンナがそのことで両親とどのような話をしたのかまで界は知らないが、少なくとも彼女が自分の出生を悩みぬいてきたことはよくわかっている。
学校ではいじめられたし、自分のまだ見ぬ第三の親のことを想像しない日もなかった。その不安定な足元が彼女をワガママで自己愛の強い人間に育て、また、両親もそんなヨハンナを叱ることができずに甘やかした。
「わたしはわたし。こんな顔に生まれたのは私のせいじゃないし、仕事だって懸命にやってるわ」
「ああ、その通りだな」
界は足を止めなかったが、ヨハンナが気持ちを吐き出したがっているのがわかっていたのでことさらにゆっくりと歩いた。
くっつかれるのは嬉しくはないけど、彼女のことは本当に妹だと思っているので、無下に突き放すほどでもない。黙ってしたいようにさせておく。
「なのに、馬鹿な奴らはすぐ私のことを非難するのよ! 結局社長の娘であることがうらやましいだけじゃない」
ヨハンナはぐずぐずと言った。
その言葉が、本当はみんなとうまくやりたいのだと聞こえるのは気のせいかな、と界は思う。
彼女は基本的に人を信じない。
家族や親族、界といったごく限られた人間関係だけを頼りにして生きているので、その外に位置する者との付き合いは最初からあきらめているようなところがある。
自分が人と違うことを良くも悪くも盾にして、実はずっと怯えているんじゃないかと──界は踏んでいる。
「でもなあヨハンナ。非難されるのは自分にも原因があるって、考えてみても損にはならないかもしれないぞ」
「なによ。私が悪いって言うの?」
やんわりと己の見解を述べる界に、ヨハンナは即座に噛みつく。
だが海外の女性というのは往々にして自我が強いものだ。界はひるまずその翡翠の瞳を見つめた。
「もちろんお前が100パーセント悪いわけじゃない。でも、他人が100パーセント悪いってパターンも少ないよ」
「そんなことないわよ! 私はいつも、一方的に非難されて……」
「そうかな? 少し話してみれば、意外とただの誤解だったりするもんだよ」
界は少し笑ってヨハンナの頭をぽんぽんと叩いた。
ヨハンナはそのしぐさにぐっと詰まって界を見る。
界は続けた。
「俺も、そういう風に思ってたことあるけど。確かに人は嫉妬深くて、嫌なところもある。でも同じくらい、優しくて寂しがり屋だ。だから、人に優しくされたければ自分からそうしてみるんだよ」
「っ、別に私は、会社の人間たちと仲良くしたいわけじゃないし!」
ヨハンナはぷいっと顔を背けて言った。こげ茶色の巻髪が宙に踊る。
素直じゃない奴、と界は思う。
だがまぁ、そういうところがヨハンナの可愛らしい部分なのだろう。
「ま、聞き流せばいいさ。俺の独り言だ」
界が笑ってまた一歩足を踏み出すと、ヨハンナは反対に立ち止まった。界は数歩先に進んだところでそれに気が付き、振り返る。
「ヨハンナ?」
「……今日はずいぶん機嫌がいいよね。カイ」
「そ、うか?」
鋭い指摘にぎくりとした。実は今日さんざん同じ言葉を同僚たちからかけられたのだ。
自分ではそんなつもりはないけれど。
でも多分そう見えるとしたら、原因は──
「──あの女のせい?」
そう、緋乃しかいない。
界はヨハンナに見えない位置で眼を伏せた。胸の奥に焔が揺らぐ。
はじめはちらちらと、そして次第に激しい光と熱を帯びて。
「……ヨハンナ。何度も言ってるけど、彼女をあの女だなんて呼ぶのはやめろ。俺にとっては大事な人だ」
「だってもう別れたんじゃない!!」
界が低く言った言葉に対し、ヨハンナは金切り声で叫び返した。
「いい加減にしてよ。何年経ってると思ってるの? 付き合ってた期間より別れた後の方が長いのよ。あなたは惑わされただけ!」
「俺と彼女のあいだのものを、他人にどうこう言われる筋合いは全くない!」
今度は界が叫ぶ番だった。彼はヨハンナの方を振り返り、彼女の眼を見て唸るような声で言った。
「……俺たちの時間は俺たちだけのもので、他の奴らにはその価値なんてわかるわけがない。わかって欲しくもない! ずっと言おうと思ってたけど、お前とグレーテルはそういう意味で本当に残酷だったな」
「っ、どうしてわかってくれないの? 私たちはただ、あなたのことを心配してただけ。あの女はあなたの足かせになる。あの女と一緒になろうとすればあなたはヒルダにいられなくなる。あのひとはあなたの翼を折るのよ! だから」
ヨハンナが懸命に訴えながら界の傍に寄る。そして手を取ろうとする。
だが界はそれを拒んだ。
「違う。逆だ」
ぱしん、と、人の肌と肌のぶつかりあう音が爆ぜた。
界はそれほど強くヨハンナの手を振り払ったのだ。
こいつらは何を言っている。
緋乃が俺の足かせだと?
そうじゃない!
「翼は彼女だったんだ」
緋乃こそが俺の羽で、夢になった。
だが愚かな俺がその事にようやく気が付いたときには──
──彼女は俺の元を去った後だった。
その夜、界は自分のフラットに帰り着き、久しぶりに一冊のアルバムを開いた。
それはドイツに渡る際に緋乃から渡されたもので、友人が撮りためた学生時代の自分たちの写真が集められた、本当にだいじなものだった。とはいえ、彼女と別れてからは一度も開いていなかったが。
(緋乃……ばっかりだな)
写真の中で笑う女性。そして彼女を目で追う自分。いつも、どんなシーンでも、呆れるほどに俺は彼女を見ていて。
想いが通じ合った後は、離したくないと言わんばかりにその肩を抱いている。
ああ、本当に夢中だったな。瀬川界。
我ながら切実な恋情が滲む写真に界は苦笑する。そう、俺は。
気が付いた時にはもう君が好きだった。
君と出会う前のことが思い出せないほどに、君だけに恋い焦がれていた。
他の人ではだめで。意味がなくて。
君は俺にとって本当にすばらしい、唯一の女性だった。
(だってもう別れたんじゃない!)
ヨハンナの指摘は耳の上を素通りしていった。確かにもう恋人じゃない。でも嫌いになったわけではない。
だから、周りの奴らのように、別れたから他の女を作るという発想にはどうにもなれない。
その想いも好意だというのなら……
「そうだな」
界はふっと笑って額を押さえた。──俺の好意は永遠に彼女のものだ。
携帯を手に取る。そして着信履歴の画面を呼び出した。
探し当てたのは君の番号。
かつてと変わらない、俺が記憶しているのと同じナンバーだった。
話がしたいな。そして会いたい。
直にあって話をして、今までのことを謝って、それから。
(それから……もしも許されるなら)
界は、想う。
君に触れたい。
そしてまた、君を愛する権利がほしい。
(結局ジョージが正解で、俺は本当にずっと)
彼女のことが好きだったみたいだ。