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レセプションの翌朝、自宅にてシャワーを浴びて部屋に戻った界は、そこで当然のように料理をするジョージの後ろ姿を発見して固まった。
どうやらフライパンでベーコンを焼いているようだ。こんがり焼けたトーストからはみだすベーコンにトマト。
彼のベーコンサンドは絶品で……っていやいや、そうじゃない。
「ジョージ!」
「ハイ!」
名前を呼ぶとジョージはびっくりと振り返った。界は濡れた頭をタオルで拭きながら「違うだろ」と息を吐いた。
「驚くのは俺のほうだ」
「ああ、ゴメンゴメン。つい昔のくせで」
「まー、確かに違和感ないけどさ」
界はくすりと笑みをもらしてコーヒーを淹れる。自分たち二人はドイツに来たばかりの頃、一年ほどルームシェアをしていたのだ。
気心の知れたジョージとの生活はなかなか楽しかったが、正式にヒルダの社員となって、配属先が決まった時点でルームシェアは解消された。
「で、何してんだ?」
「君を助けに来たんだ」
「ハァ?」
ふたりぶんのコーヒーマグをテーブルに置くのとほぼ同時に、ジョージもベーコン・サンドイッチを持ってきた。
界は意味が分からずにジョージの緑の眼を見やる。窓から差し込む温かい日差しを浴びて、その眼はきらきら輝いていた。
「僕の考えによれば、君は今日いくつかの爆弾に見舞われる」
一つ目の爆弾はヨハンナだった。
出社したオフィスで待ち構えていた彼女は、やれ労務の書類に不備があるだの、やれ求人の要望を出すのが遅いだのと難癖をつけて界をミーティングルームに引っ張ろうとした。これにジョージが付いてきた。
二つ目は、そのミーティングルームに何故か先客として居たグレーテルで、二人はどうやら示し合わせていたらしい。
界の顔を見た瞬間に同じことを騒ぎ出した。
「聞いてないのよ! あの女のこと!」
あの女=つまり緋乃だ。
界は即行苛立った。
「だから仕事だって言ってるだろう。偶然だ!」
「都合の良い偶然もあったものよね。あんた、知ってたんじゃないの? あの女にまたたぶらかされて、今回の企画に大和ファーマとかいう会社を選んで──」
「──おい……っ」
色々失礼なグレーテルに本気でキレそうになった界であったが、ジョージの手にやんわりと抑えられて思い留まった。
思わず緑の眼を見ると、彼は日本語で「まかせて」と言った。
助けに来たって、言っただろ。
「グレーテルさん。それは専務にも失礼な言い方ではありませんか?」
にこりとジョージは微笑んだ。
「我らヒルデブラントのチャリティ・コンサートはもう二十年も続く歴史あるイベント。出演するアーティストも一流ですし、スポンサーに選ばれた企業の株価は必ず上昇するということもあって、世界中の企業から協賛依頼が殺到しています。優秀なグレーテルさんとヨハンナお嬢様ならそこは良くわかっていらっしゃると思いますが」
どうやらプレゼンが始まったらしい、と界は思った。
実際にジョージはどこからかタブレットを取り出すと、続けて大和ファーマの説明に入っている。
「対しての大和ファーマはスイスに本社を置く外資系製薬会社。昨年度の製薬会社ランキングではトップテンに入っています。特にワクチンに強みがあり、発展途上国などの支援などチャリティ活動にも熱心。今回いらっしゃった日本
支部東京支社長であるアキラ・ヤガミは特にチャリティへの意欲が強いです。毎年様々な団体を視察しては寄付を行い、かつて海外駐在中にはナショナル・トラストにも参加していたということで、自然保護にも熱心なようです」
「……ずいぶん詳しいのね。さすがオトモダチの情報だわ」
ヨハンナが若干引き気味に呟く。彼女はあまりチャリティに興味が無いのだ。
そんな彼女を見てジョージはにっこりとほほ笑んだ。
「お褒め頂き光栄です。でも、これは昨日ヘア・ヤガミとお話して僕が自分で調べた資料ですよ」
「さすがねぇ、ジョージ。で、それで? そこまで友達の会社を庇護してあなた何が言いたいの?」
けだるげに金髪をかきあげたグレーテルの言葉に答えたのはジョージではなく界だった。
彼は腕を組んでテーブルによりかかると、苛々と低い声で言った。
「──大和ファーマは過去、実に13回ヒルダのチャリティの参加を希望している。だが一度も叶わなかった」
「……初耳だわ」
グレーテルが眼を見開く。
「そうだろうな」と界は答えた。
「今回も、先方のノイマンという営業がヒルダと面識かあるということでようやくパイプがつながり、イベントのテーマに大和ファーマが重なったということでようやく採用されたんだ。つまり彼女は一切関係がない。そして、これは先方の悲願でもあるってことだ」
「──ノイマン?」
グレーテルとヨハンナが反応した。二人の視線が揃って向けられて初めて、界はこの二人が同じ色の目をしていることに気が付いた。
そこで何か胸をかすめる違和感を感じながら、彼は答えた。
「ああ。ランツェルト・ノイマンとかいう、確かドイツ国籍の男だ」
「ランツェルト」
その名前を告げた途端、ヨハンナの方に異変が起きた。ひすい色の眼が限界まで大きく見開かれ、そのあと急に潤みを帯びた。
え、と思ったのも束の間、彼女は泣きだしていた。
***
「わけがわからん」
「奇遇だね。僕もだ」
その後、界とジョージはぶじ解放されて仕事に戻ることにした。
お互いオフィスはべつべつなのでエレベーターホールで足を止め、一時話をする。
「にしても、助かった。ありがとう」
界が率直に礼を言うと、ジョージは大げさに驚いたそぶりを見せた。
「素直な君はなんだか怖いな」
「たまにはな」
「じゃ、そんな素直な君に尋ねよう」
くすくす笑っていたジョージは、ふとまじめな瞳で界を見つめた。
「ずっと思ってたんだけど。──きみ、どうするつもり? お嬢様のこと」
「どうもできないよ」
問われた意味をきちんと理解したうえで、界は静かに断言した。
「俺にとってのあの子はただの家族だ。それ以上でもないし、それ以下でもない。大事な妹だと思ってるよ」
「……あの子の気持ちはわかってるよね?」
「まあな」
肩をすくめて界は答える。こういう話は苦手なのだ。
自分に想いを寄せてもらうということは正直つらい。答えることができないからだ。
相手が幼いなりに本気なのはわかっているし、それゆえのわがままなのだとも理解しているが……。
界は息を吐いた。
そしてふと壁に背中を預け、ジョージを見た。
「お前さ」
「ん?」
「知ってるだろ。サヤカのこと」
界が紡いだのはかつての同級生の名だった。
否、ただの同級生ではなく、界は彼女と大人の関係を嗜んでいた。今考えるとありえないと我ながら思う。若さゆえの暴走だ。
でも、あそこまでしても界はサヤカに恋しなかった。
「あ~~、君の黒歴史」
「まぁお前のも山ほど知ってるけどな、それは今は置いておくとして」
「助かるね」
「俺が言いたいのは、どんなに好かれても、俺は嘘がつけないってことなんだよ」
相手にも、自分にもな。
界が言うとジョージはうん、と頷いた。
「わかってるよ。良く。でもさ」
「なんだ」
「もう一つ質問していい?」
答える代わりに界はジョージの目と目を合わせた。
いつの間にか彼は界のすぐ目の前で、ポケットに手を入れて立っていた。
濁りのない緑の瞳で彼は言った。
「──そんな君が今でも一途に想っている、緋乃のことはじゃあどうするつもりなの?」
界は答えることができなかった。