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「……それでこういうことになりました。スミマセン」
「君が謝る必要なんてないじゃないか」
八神と話したすぐ後、朝早い内に緋乃はジョージに連絡を取らされた。
電話越しに聞く友の声はいつも優しく温かく、緋乃をほっとさせてくれる。
「むしろ連絡をくれて嬉しいよ。昨日はバタバタしてあまり話も出来なかったし」
「そうね。あなた方、とても忙しそうだったし」
「まあね。専務から、このイベントは僕らが頑張るようにって言われてて」
「立派になってて素敵だったわ。もうどこから見てもビジネスマンよね」
緋乃が言うとジョージは君こそ、と甘く笑った。
「完璧な秘書だったよ。語学もまた上達して、マナーも良いし。なにより綺麗で」
「やだ。冗談言わないで」
「いや、本当に。どこかの誰かは見惚れていたよ」
ジョージは言って、緋乃がそれに対して質問するよりも先に「それで」と話を続けた。
「光栄にも八神さんは僕らとチームを組みたいって言ってくれてるって?」
「そうなの。他は考えられないって仰ってるぐらい」
「まあ、言葉も通じるしね。良くも悪くも日本の感覚が一緒だし、僕らは海外の感覚も持ってるから。ハイブリッドなものが作れるかもしれないよね」
「同じこと仰ってたわ。それで、私が貴方たちと古い友人だって伝えたら、絶対に同じチームになるんだって言い出して聞かなくて……」
緋乃はハアとため息をついた。おかげで、必要かもわからないプレゼン資料を大至急で作らされている。働かせすぎてごめんなどと言っておいて、支社長には目的があると周りが見えなくなってしまう所がある。
まあ、そこがあの人の良い所なんだけど。
しばらく黙って話を聞いていたジョージは、やがて「わかった」と声を上げた。
「良い結果になるように努力してみるよ。でも、一応営業担当はカイなんだ。だから彼に直接連絡取ってくれる?」
「えっ。でっ、でも」
緋乃は思いっきり動揺した。携帯を手から落とすかと思ったほどだ。
何て言ったらわからなくておろおろしていると、そんな様子を見透かしたかのようにジョージが笑った。
「あー、大丈夫だいじょうぶ。どうせ連絡先消したんでしょ、二人とも。僕が界の教えるし、界の携帯もちょっといじっとく」
「……え?」
「実は今界のフラットにいてさー」
緋乃の頭の中は?マークでいっぱいになった。何故ジョージが彼のフラットに?
そこではっと思い当たった。ジョージは界が好きなのだ。
携帯もいじるということは元々親密な関係がさらに親密になったことをイメージさせる。
まさか……そういう関係に……!
「あ、なんかよからぬ想像してるでしょ、緋乃。大丈夫だよ。普段は僕ノンケだし、彼女いるし」
緋乃の妄想をきっぱりと打ち切ってジョージは言った。さりげない爆弾発言だったので、緋乃ははっと我に還った。
「え? ノン? っていうか彼女ってだれ?」
「それはまた今度ご飯でも食べながらね」
ジョージはさっきから何故かとても嬉しそうな様子だった。
あんまり機嫌がよさそうなので、思わず緋乃が尋ねてしまったほどだ。
「ジョージ?」
「ん?」
「何だかすごく嬉しそうね」
するとジョージは即答した。
「そりゃ、君たちが、また一緒に居るところを見られるからさ」
「──」
ずきん、と胸が痛む。ジョージの中では。
きっと私たちはまだ幸せそうに笑っている。そんな未来を描けているのだ。
でも、私は──。
「カイ、喜ぶよ。君から連絡をしたら」
それは間違っているわジョージ、と緋乃は思った。
界はきっと怒っている。だって私が傷つけたから。
私たちの未来を──私がこの手で断ち切ったから。
***
できるなら連絡したくなかった。そんな立場ではないからだ。
だが時間は差し迫っているし八神がうるさい。
緋乃は、これは仕事だと割り切って携帯を手に取った。
(界は10時くらいにはオフィスにいると思うから、電話しても大丈夫)
ジョージがそんな風に言っていたのを頼りに、意を決して彼の番号をダイヤルしていく。
かつては毎日かけていた番号。暗記するほど見つめたこともある番号だ。
でも、今は──
「──はい」
数回のコール音の後、いきなり低い声が響いて緋乃は息を止めた。ああ。
私はやっぱり、この声が好きだ。
「……界……?」
ぎゅっと、携帯電話をきつく握り、反面唇ではささやくように彼を呼ぶ。声が震えた。
相手が一瞬息を詰めたのがわかり、それからふっと微笑む気配。
──え?
笑った? と緋乃が驚くのも束の間、彼は喋りはじめていた。
「……驚いたな。三つ目の爆弾だ」
「三つ目?」
「いや、何でもない」
緋乃はさらに驚いた。界が、普通に話をしてくれている。
その喜びが崩れないように慎重に言葉をさがしてゆく。
「き、昨日はほんとうに、驚いたわ。……あんまり突然だったから」
「俺もだ。一瞬誰かと、思ったくらいに」
不安と動揺で揺れ動く緋乃の声に対し、界の声はあくまで落ち着いていた。そうよ、彼はいつもこうだった、と緋乃は思い出す。
私が泣きながら電話をかけた時、彼はこの声でわたしを受け止めてくれたのだ。
「……そんなに私、変わった?」
「褒めてるんだよ」
界の声が柔らかくなる。
「君が綺麗なのはわかっていた。でも、昨日再会した君はそれ以上に──なんていうか、仕事をする女性の美しさがあった。完璧なドイツ語に英語。気配りと笑顔」
「……ッ、冗談はやめて」
心臓が高鳴り、緋乃は思わず座っているベッドのシーツを握り締めた。
彼に褒められるのは他の誰かに褒められるのと訳が違う。
本当に思ったことしか言わない人だと知っているから、体の芯が融けそうに熱くなるのだ。
しかもこの男、海外生活がさらに長くなったせいか、女性を喜ばせる技術が磨かれてきたような……。
「冗談じゃないよ。おかげで俺はゲイじゃなかったんだって思い出せた」
界が何気なく言った言葉に緋乃は思わず吹き出してしまった。
「ええ? やだ、ジョーク?」
「違うよ、本当に」
くすくすと笑い合う頃にはいつの間にか緊張がほぐれていた。
それで、と界が優しく緋乃を呼んだ。
「ハニー。君から連絡をくれるなんて、どうかしたのかな」
「っ、お願いがあるの」
冗談でもそんな甘い呼びかけを使われて、緋乃はますます混乱した。やはり界、イケメンっぷりに磨きがかかっている。
緊張する私をうまくリードして、笑わせて。何気なく褒めて良い気分にさせる。
きっと彼をそんな風に変えたのは、他の誰かね。
──私じゃない、黒髪じゃない、他の女性。
「実は、八神が、あなたたちとのチームを希望しているの」
「俺たち? 俺とジョージ、でいいのかな?」
「ええ」
界の声が少し変わった。
八神と同じだ。仕事モードに切り替わったのだ。
緋乃は続けた。
「それで、私とあなたたちが古い友人だと伝えたら、直接あなたたちに頼んでくれと言われて……今に至るというわけなの」
「……なるほどね」
ますます声を低くして界は呟く。先ほどまでとの温度差に緋乃はどきりとした程だが、彼はすぐに「わかった」と言った。
「断言はできない。だけど最善を尽くすよ。俺とジョージも君たちと組みたいと思っているからこそ」
「あ、ありがとう」
色よい返事に緋乃はほっと胸をなでおろした。これを聞いたら八神も満足するだろう。界の打てば響く性格は昔から知っているが、ビジネスの上でもこれほど頼もしい人はいない、と緋乃は心から思った。
「──本当にありがとう。あなたが居てくれて心強いわ」
「……君の手助けになれるなら嬉しいよ」
界はふっと、今度はどこか切なそうな笑みを漏らした。
電話が終わる気配がする。
緋乃は、名残惜しいと思っている自分に気が付いてハッとした。何を言っているのだ。
この人は、私が切り離した人。もう別れた恋人。
他人なのだ。私たちはもう。
「じゃ、じゃあ」
「……ああ。また何かあったら連絡する」
「うん」
お互いになんとなく後ろ髪を引かれるような声で通話を終了した。
緋乃はほうっと息を吐き出し、そのままベッドに背中から倒れこんでしまう。
携帯を見れば通話時間はたったの五分だった。
五分。
たったそれだけの間だったのに。
(……なんだか、彼にずっと抱きしめられていたみたいな……)
そんな甘い感覚があった。気付けば体中が火照っている。
そういえば午後からヒルダに行くと伝え忘れたが、もうどうでもいいやと緋乃は両腕で顔を覆った。重要なのはそこではない。
本当に重要な問題は。
界が緋乃にとって今でも、これほどまでに「男」だということだ──。