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きんいろのつばさ  作者: 小糸
ミュンヘンの夜
11/51

side HINO

 

「ヘア・ノイマン! どういうことです? 急にパーティを欠席だなんて!」


 緋乃は宿泊しているホテルのドアの前で叫んでいた。

 自分の部屋ではない。違うフロアの、同僚の男性が割り当てられている部屋である。

 美しい白いドアは固く閉じられていて開く気配が見えない。

 だが中に人はいるらしく、奥からくぐもった声がした。


「ですから、急な体調不良です。申し訳ないがあなたとミスター・ヤガミだけでご出席を」

「ですから本当に体調が悪いなら大変ですから、わたくしに見せてくださいと何度も申し上げております!」

「それには及ばない。大体女性が男性の部屋に入るなんて物騒ですよ」

「~~~っ、そういう話を今してないでしょう!」


 緋乃はやきもきと声を荒げた。何が起きたのかというと、緋乃と支社長のほか、もう一名ドイツに出張に来ている同僚が急にパーティを欠席すると言い出したのだ。

 パーティの開始は18時からだ。あと一時間しかないこの時点で急にそんなことを言い出すなどほんとうにどうかしている。完全にマナー違反だ。

 今日はヒルダとの顔合わせであり、こちらの印象を決める重大なファーストステップだというのに……。


 緋乃は落ち着こうと深呼吸した。

 頭に血が上っていてはまともに話もできはしない。

 そしてたっぷり数秒インターバルを挟んでから、少し抑えたトーンでもう一度ドアの向こうに話しかけた。


「ヘア・ノイマン。もう一度よくお考えになって。どんな理由がおありなのかは知りませんが、一時の感情と会社の利益、あなたはどちらを優先されますの?」

「プライベートはとても大事だ」

「答えになっていませんわ」


 内心では何言ってんだこの外国人、と思いながら緋乃はかろうじて笑って答える。そのプライベートも働いてこそ守られるんであろう。


「大体、今回ヒルダとのパイプになってくれたのはあなただとヤガミから聞いております。ヒルダもあなたと会えるのを楽しみにしているとおっしゃっているんですよ。あなたも出席を受諾したからドイツまでわざわざいらっしゃったんでしょう? なぜそれなのに今頃になって駄々をこねるの?」

「……」


 ぐ、と詰まった気配がした。同時に手の中のスマホが震える。八神支社長からのメッセージだ。

 ランツ・ノイマンは出席するのかしないのか。

 と、かなりお怒り気味の文面に、緋乃は右手だけで返信しながらドアの向こうに呼びかけた。

 大丈夫です、八神支社長。まったく問題ございませんわ。


「何か正当な理由があるなら伺います。だって本当に来たくないならあなたはそもそもここにいません」


 するとドアの向こうで息を吐く気配がした。え? と緋乃が耳をそばだてれば、どうやら彼が近寄ってきた気配がする。


「……まったくあなたのドイツ語は上手すぎる」


 開けてくれるかと思ったが、ヘア・ノイマンはしぶとかった。ただすぐドアの目の前に移動したようで、声ははっきりと聞こえるようになった。

 彼は言った。


「理由は──確かにあります。会いたくない人がいる」

「そんなの……私だっているわ」


 緋乃はむっとして言い返した。なんて勝手な理由だ。仕事だというのに。


「正直ドイツにはとてもセンシティブな思い出があるわ。でも仕事だからそんなこと言ってられないのよ。むしろ思い出を上書きするために利用してやろうぐらいに考えなければ前に進めない」


 完全に私事わたくしごとが混じったが、この頃にはほんとうに腹が立ってきていたので緋乃はかまわずまくしたてた。


「あなたは身勝手です。そしてずるいわ。プライベートが大切ってさっき言っていたけど、今のあなたはプライベートも仕事もどちらも中途半端だわ」

「へぇ。それはとても興味深い」


 ここでいきなりドアが開いたので、緋乃は思い切り不意打ちをくらってバランスを崩した。

 がくっと前のめりに体がかしぐ。

 え、と思った時にはもう、ようやく姿を現したヘア・ノイマンに受け止められる格好になった。

 ライトグレーのスーツに包まれた厚い胸板、香水の香りに思わず体が一歩退く。

 いまだに男性に触れられることは少し怖い。

 緋乃は、だが、平静をとりつくろって如才なく彼から離れた。


「……ようやくのご登場ですわね」

「君に興味が沸いたからね」


 かけられた言葉に思わず緋乃は目の前の男を見つめた。

 大柄な体格にダークブラウンの髪、特徴的なのはグレイの瞳ぐらいで、ヨーロッパでは凡庸な外見だ。

 だがセンスは飛び抜けている。スーツは完全に体に合っているし、瞳の色ともなじんでいた。

 ノイマン青年はたのしげに緋乃を見下ろして言った。


「まじめでお固い日本人秘書だと思っていたけど。きみ、けっこう面白そうだね」

「は?」


 何やら雲行きがあやしい。思わず眉をひそめた緋乃の腕を、果たしてノイマン青年はつかんだ。


「パーティに出てもいいよ。君が支度を手伝ってくれるなら」

「な──」


 言葉の意味を理解して、かぁっと頭に血が上った。

 だがその瞬間、背後からはっきりとした声がふたりの間に割って入った。


「もういい、恩納。そこからは私が引き継ぐ」


 ***


「八神支社長!」


 緋乃は救世主を見たような声を出した。実際、その通りだったから。

 これ幸いとノイマン青年の腕をふりほどき、ドアから十分な距離を取る。

 八神はいつのまにかノイマン青年の部屋の目の前まで来ていて、緋乃の前に立った。


「私はドイツ語がわからないから、念のため確認しておく。君が誘惑された側だよね?」

「え……あ」


 緋乃は、自分とノイマンのやりとりが、はたから見ればそういうふうに(・・・・・・・)見えたのかとようやく思い当った。思わず顔を熱くして「はい」と答える。


「あの、信じてもらえるかわかりませんが。私は彼を説得していただけです。ただ、急にドアが開いてバランスを崩してしまって……なんていいますか」

「ああ、大丈夫だ。見ていた」


 さらりと八神は答えて微笑んだ。


「だから確認だと言っただろう。君はもういいから自分の支度をしなさい」

「ですが」


 緋乃はちらとノイマンを見た。

 彼は全く悪びれない態度で肩をすくめていたが、ふたたびドアを閉めようとしていた。しかし八神支社長がそのドアの隙間に自分のつま先を割り込ませて阻止し、言った。


「ノイマンは私が見張っている。このままだと君が着替えられないだろう。どうやらヒルダから迎えが来てくれるそうだから、それまでに急いで支度を」

「……迎え、ですか」


 それは予定とは違う話だったので、緋乃はまた頭を整理する必要があった。

 本来は迎えなどなく、会場へは自分の足で向かう必要があったのだ。

 だが、なぜそうなったのかはわからないが、本当に時間はない。助かると言えば助かるので、黙って八神に従った。


「わかりました。お時間は」

「40分だ。もし間に合わないようなら私の携帯に連絡を」


 ヘアセットをする時間までは取れないかも、と緋乃は内心で思った。



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