2話2
掛け布を跳ねのけ、飛び起きた。
茫洋と広がる闇の中、訳がわからず硬直する。
息を潜めた鼓動が激しい。指が小刻みに震えている。一瞬、自分がどこにいるのか、何が起きたかわからない。父に投げつけたあの言葉だけが、ただ脳裏でこだまする。
『 おとうさんなんか、だいきらい! 』
──違う。あんなことが言いたかったんじゃない。
闇の澱みを振り払うように、強く首を横に振る。あの頃はまだ知らなかったのだ。時間は無限にはないのだと。やり直しは利かないと。
夢にも思いはしなかったのだ。あのまま会えなくなるなんて──。
浅い呼吸で見やった先に、暗がりに沈む土間の窯。
その向こうにこんもりと、夜目にも白い膨らんだ寝具。しん、と音もなく寝入っているのは、黒い髪の男の背。そうだ、ケネルと旅に出ていた。ここはあの遊牧民のキャンプ。原野に建った、
──ゲルの中。
そうか、夢か……とようやく気付いて、凍えた我が身を両手で抱いた。
寝巻きの膝にうつむいて、わななく唇を噛みしめる。へたりこんだ頬に涙が落ちる。
「ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい……」
なぜ、あんな夢を見たのだろう。二十年も経った今になって。
幼い頃の遠い記憶。色の褪せた古い出来事。最後に会ったあの日の父の──。
商談のある北方へ、両親が出向いた数日後、それを祖父から聞かされた。
旅先で、両親が亡くなったと。
商会の荷馬車が横転し、商都に持ち帰るはずだった、巨大な黒曜石の下敷きになって。
そして、二度と戻らなかった。手を伸べたあの父に、ひどい拒絶を投げつけたまま。
立ちつくした父の顔。あの悲しげな表情が、こびりついて離れない。
あの日のあの瞬間を、その後どれほど悔やんだか。なのに、なぜ、又くり返してしまうのか。あの日と同じ過ちを。
うつむき、肩をかき抱く。
「……ダド、リー」
夏虫の声がした。
夜闇に沈むゲルの壁。天窓からの月あかりが、中央の土間を照らしている。
ひとり、だった。
夜の暗がりに一人ぼっち。
幼かったあの日と同じように。暗い窓辺に佇んで、月を見ていたあの頃と。
そして、誰も迎えに来ない、夕陽を浴びた無人の砂場と。
友達は大勢いたけれど、日暮れには、みな帰ってしまう。家族が待つあたたかい家へ。
祖父は、常に多忙だった。
一度は引退いた大店の主に復帰せざるを得なかったから。
だが、無理が祟って寝込みがちになり、そして、ついには寝付いてしまった。
寂しい、などと言っていられなくなった。
まだ就学中だった自分の肩に、店の切り盛り一切が、あっという間に圧し掛かってきたのだ。
そこそこ裕福な雑貨商の一人娘であったから、そうした家格相応の然るべき学業を修めるものと思っていた。友が皆そうしたように。けれど、選択できる余地はなかった。他に稼ぎ手のいない状況では。
戦いが始まった。生き抜くための戦いが。
周りはすべて敵だった。
手を差し伸べてくれる同業者などいない。父母がまだ健在の折りには親しくしていた人たちの中にも。
世の中は奪い合いなのだ、と初めて知った。
皆、仕事に全力を注ぎ、真面目に、必死に生きている。自分の身を養うために。大事な家族を養うために。他人の取り分を奪ってでも。同じ土俵に一たび上がれば、男も女も、老いも若きも、玄人も素人も関係ない。
世の中は弱肉強食。共存共栄など奇麗ごと。大店が一たび傾けば、顧客と利潤の取り分をめぐって熾烈な争いが勃発する。皆がお零れにありつこうと、虎視眈々狙っている。
まさに恰好の標的だった。
物怖じして気を呑まれ、まごついている素人などは。
右も左も分からぬ渦中で、必死で経営に取り組んだ。商いの規模が大きい分、身の振り方一つ誤れば、全てがふいになってしまう。些細な誤算が命取りにもなりかねない。
古参の使用人に教えられ、毎日、死ぬ気で勉強した。
あらゆることを。生きるために。狡猾な商売敵を相手に、多少なりとも理論武装ができればと。
様々な書物を掻き集め、端から端まで読み漁った。仕事に関する必須事項がどこかの行間に埋もれていないか、何かの折りに使えそうな技が、ひょっこり顔を出してやしないか──。
全く通用しなかった。
海千山千の商店主には。理屈は、やはり理屈でしかない。
家業は次第に傾いた。
商売敵には欺かれ、使用人には裏切られ、大勢いた使用人も、一人、二人と店を去り、最古参の仕入担当者にまで見限られた。
彼らをつなぎとめる求心力など、若い娘には望むべくもなかった。
店を手放そうと決意した。
親の家財を食い潰す前に。二度と立ち直れなくなるほどの負債を抱えるその前に。破産し、店が人手に渡れば、祖父と二人、野垂れ死だ──。
ラトキエ領家の公募を知って、一も二もなく飛びついた。
募集する人材は、領邸で働く使用人。だが、一人や二人の採用枠に、商都中の若者が殺到する狭き門。
必死で頭に詰めこんできた知識が、思わぬ場面で役立った。
最難関で知られる採用試験を、死にもの狂いで突破した。
とはいえ、ある意味、これは当然の結果ともいえた。手だれの商人に入り混じり、歯を食いしばって生きてきたのだ。いく度も他人に踏みにじられて、都度、気力を振り絞り、自力で底から這いあがってきた。ぬくぬくと環境に甘んじてきた、温室育ちとは元より違う。
肩で風を切って生きていた。
他人に弱みなど見せられなかった。誰も信じられなくなっていた。
なのに、あの子は、笑って迎えにきてくれた。
真っ暗な縁を覗きこんでいた心を、深淵の底まで降りてきて。仕事で世話を言いつかったアディーは。
『さあ、帰りましょう? エレーンさん』
そう言って、"家族"のように迎えてくれた。
当たり前のように手をひいて、仲間の輪の中に入れてくれた。身分の上下も、何の損得も考えず。
それは、やっとできた"家族"だった。妹のようなかわいいアディー。
けれど、長くは続かなかった。病であっけなく世を去った。又ひとり、自分を残して。
なぜ、いつも、こうなのか。
なぜ、いなくなってしまうのか。自分が大事に思う者は。
大好きだった父母が去り、慈しんでくれた祖父が去り、妹のようなアディーが去り。
皆が当たり前のように持っている絆を、なぜ、自分は何一つ──。
気の狂いそうな混沌の受け皿になってくれたのは、仲間の一人ダドリーだった。
領家の身軽な三男坊は、両親の店を買い戻し、一緒に暮らそう、と言ってくれた。なのに、そのダドリーも──
「──"望めば叶う"というのなら」
あの翠石を、握っていた。
震える指に、力がこもる。膝元の闇を凝視して、エレーンは奥歯を食いしばる。
「望みを叶える力があるなら──助けて! お願い! ダドリーを助けてっ!」
── 今すぐ、彼を連れてきて!
天窓からの月あかりが、白々と土間を照らしていた。
夏虫の音が、耳に戻る。
「……そう、よね」
こわばった肩から力を抜いた。
のろのろ広げた手のひらで、翠石は冷たくきらめいている。
高ぶった自分の鼓動だけが、とくとく耳元で鳴っていた。嗚咽がこみあげ、無反応の翠石を抱きしめる。
「叶うわけ、ないよね」
これは、にせ物。わかってる。
そう、そんなことはわかってた。
本当に一番欲しいものは、いつだって手には入らない。
まして、こんな石ころ一つ、翻弄されるなんて滑稽と。
そう、そんなことはわかってる。でも、それでも祈ってしまう。移動の馬上で、深夜の居室で、寝静まったゲルの中で。毎日のように。毎晩のように。起きるかも知れない奇跡に縋って。
そんな素晴らしい石を手に入れたなら、願わぬはずがないではないか。まず"それ"を一番に。
"家族"という名の幻想は、捕まえられない、遠い望みだ。
やっと掴んだと思ったら、握った指の隙間から、さらさら砂のようにすり抜けてしまう。
夜にまぎれて、目元をぬぐった。心が破れてしまいそう……
声を押し殺して泣きじゃくり、はっと顔を振りあげた。彼が行ってしまったら、又、
──ひとりになってしまう。
ぞくり、と腕が粟立った。
そうしたら自分は、又ひとり。
一人ぼっちで取り残されてしまう。ディールに捕らわれたトラビアで、
──ダドリーが逝ってしまったら。
狼狽した目が、やみくもに探した。
壁に視線をめぐらせて。何かすぐに縋れるものを。
ひんやり冷たい絨毯を踏んで、土間をまわって、おずおず近づく。
ゲルの丸い天窓から、静かに月光が射している。しん、と冷え切った中央の土間を、薄蒼い光が照らしている。
夜の暗がりに寝転がり、手足を投げて眠っていた。
息を殺し、耳を澄ませば、規則正しい人の寝息。一人ぼっちの暗がりに、思いがけない他人の気配──。
寝床のかたわらにへたり込み、彼の名を呼び、腕をゆする。
「……ケネル……ケネル……ねえ、ケネルぅ~……」
焦燥が突きあげた。
なぜかケネルは、言い知れぬ飢餓感を抱かせる。ひと気のない夕暮れの家で、母の姿を捜しまわった、あの遠い日の心許なさを。
「お、起きてよぉ、ケネルぅ……」
ケネルはされるがままに揺すぶられている。寝顔に変化ひとつない。昼の移動で疲れているのか、こちらの手を振り払いもしない。
涙があふれて止まらない。
「……鈍感!……人でなし!……薄情者!……ケネルの、……ケネルのバカぁ……!」
そう、知っている。知っていた。涙にくれて目覚めても、ケネルは自分を慰めてはくれない。
暗闇でひとり泣いてても、目さえ覚ましはしないことを。
他人はしょせん他人なのだ。他人の苦痛など、わかりはしない。切り裂かれた心は、外からは見えない。
「──もう、いいっ!」
言い捨て、憤然と立ち上がる。
ぐい、と腕が引き戻された。