2話1
そうよ。
あたしはいつだって、お出かけの服で待っていたのに。
「──ごめんな、エレーン。急に商談が入ってしまって」
困ったように覗きこむ、あの大好きな父の顔。
黒の外出着の足元には、いくつもの大きな旅行鞄。
「すばらしく大きな黒耀石が、ノースカレリアで出たんだよ。お父さんよりも、ずっと大きな石なんだぞ? あのタダ=サイテス先生が、フェイト像を造りたいと仰って。──ああ、知っているかい、エレーンは。先生は高名な芸術家で、こんな大きな彫刻を、これまでもいくつも手がけていて──」
「おたんじょうびなのに、あたしの」
「……エレーンには、おじいちゃんがいるだろう?」
頭に、大きな手のぬくもり。
「エレーンはおじいちゃんが大好きだもんな。一緒にケーキを食べたらいいさ。父さんだって、ご用が済んだら、急いで家に帰るから」
「ノースカレリアは、とおいもん」
レースのついた真っ白な靴下。
バックルの靴もピカピカだ。
お気に入りのビーズのバッグも、タンスの奥から出してきた。
なのに──
「頼むよ、お父さんを困らせないでおくれ。おみやげ、たくさん買ってくるから」
……違う。
おみやげが欲しいんじゃない。
「今年はお家でおじいちゃんと、いい子でお留守番をしておいで。──そうだ、誕生日プレゼントは何がいい? お父さん奮発して──」
プレゼントが欲しいんじゃない。
あたしが本当に欲しいのは──
「……なあ、いい子だから聞きわけておくれ。お前にそんな顔をされたら、お父さんお仕事に行けないじゃないか。すぐに片付けて戻ってくるよ。そうしたら、みんなでパーティーしよう。でかいケーキに蝋燭つけて、鳥も丸ごとこんがり焼いて、それから──」
「もういい! いつもいつも、おしごとおしごとって! おとうさんは、いつも──!」
バタン、と部屋のドアがひらいた。
スカートの裾をひるがえし、凛と女が入ってくる。つややかな黒髪を結いあげて。
「あなた、馬車がきましたよ。いつまでも何をしていらっしゃるの? 早く荷物を運ぶよう、サムたちに言いつけて下さいな」
ふと、目を返して瞬いた。「あら、まあ、エレーン」
父の苦笑をちらと見て、すぐに事情を察したらしい。よそいきの服を着こんだ母が、しなやかな白い手を額に当てた。
「んもう。又なの? 中々いらっしゃらないと思ったら。──また、この子に捕まっていたのね。本当に、エレーンには甘いんだから」
溜息まじりにやってくる。
「エレーン、わがまま言って困らせないで。お母さんたちはお仕事なの。──あら、まあ、どうしたの? この子ったら、そんなにおめかしして」
スカートの膝を絨毯に折り、不思議そうに顔を覗く。
「……あらあら。なにを拗ねているのかしら、わたしの大事なお姫様は」
「だって、おかあさん! きょうは、あたしの──!」
ふわり、と頭を抱きしめられた。
「いい子ね、エレーン」
……いい匂い。
母さんの香水の。
大好きな、母さんの匂い。
「そんな顔をしないでちょうだい。あなたには笑っていて欲しいのよ。きれいな服で、美味しいものを食べて。わたし達はね、あなたのために働いているの。だから、あなたも聞きわけて、いい子でお留守をしてちょうだい。──ね、お願い」
喉の奥が、熱かった。
胸が破れてしまいそう。
「……でも、きょうは、……あたしの……」
「愛しているわ、エレーン」
にっこりと華やかな、大好きなあの微笑み。
髪をなでられ、頬ずりされ、逃げる間もなく抱きしめられる。
「わたしの愛しいお姫様。あなたが世界で一番大事よ。だから、そんなふくれた顔をしないで。かわいいお顔が台なしよ?」
母はなだめて、立ちあがる。
背を向け、ドアへとせかせか向かう。いつものように。
──行かないで。
だって、本当に欲しいのは──
父は困ったように母を見て、片膝をついて手を伸ばす。
思わず、抱擁を払い除けた。
「……きらい」
驚いた顔で、父が止まった。
そうだ、嫌いだ。
だって、ちっとも、そばにいない。ちっとも一緒にいてくれない。いつだって──
「……行って、くるよ」
ゆっくり父が、悲しそうな顔で立ちあがった。
まだ何か言いたそうだったが、母の声に急かされて、溜息まじりに踵をかえす。
ドアのノブに手をかけて、父はしばらくためらって、そして、弱々しく微笑んだ。
「エレーン、いい子でお留守番をおし。すぐに帰ってくるからね」
飴色のドアが、バタンと閉じる。
……いつだって、
いつだって、いつだって、いつだって、
そう言って行ってしまうのだ。
一番欲しいものは与えずに。
階下のあわただしい物音が、ドアの隙間から入りこみ、閉じた扉の向こう側で、足音が忙しなく遠のいた。
硝子灯のきらめく高い天井。
がらんとした広い部屋。レースの寝具で統一された、真っ白で清潔な寝台には、たくさんの、おみやげのぬいぐるみ。いつも、部屋には一人きり──
握った手のひらに、力がこもった。
「──おとうさんなんか、」
だいきらい!