1話5
すくみ上って振り仰ぐ。
眉をひそめた男の真顔──。
「よ、こんにちは」
面食らったように手を引いたのは、こざっぱりと短い、日に灼けた頭髪。
身なりは馬群の人達と同じ。革の上着に、精悍な頬。四十絡みの壮年というのに、耳にはお洒落な赤ピアス。相好を崩したこの人は、あの──
「バ、バパさん?」
サビーネ襲撃の当事者をファレスがゲルに招集した晩、その座に集った首長の一人。
アドの処罰を求められ、困って助けを乞うたらば、ウインク一つで差し戻した、
風変わりなウォードの振る舞いに、場が一気に緊迫しても、ただの一言で事を収めた、あの──
「どこへ行くんだ。そんなに急いで」
そう、イ ケ メ ン 首長、その人ではないか!?
たまたまにしたって、あまりに奇遇。広大な樹海の中というのに。てか、なんでいるのだ。こんな所に──!?
急に間近に涌いて出られて、エレーンはあたふた振り仰ぐ。「あっ。えっと、それはそのぉ~」
あの晩ゲルで会って以来だ。それだって直接この人と話したわけでもなくて。なのにいきなり、
至近距離で二人っきり……!?
「そっちに行っても、崖しかないぞ。ああ、帰り道が分からなくなっちまったか」
首長は木立に視線をめぐらせ、困ったように頭を掻く。「ま、それも無理ないか。ここは元々そういう森だ。まして樹海なんかに縁のない、都会育ちの女の子じゃな」
「は、はあ……」
エレーンは半笑いで小首をかしげ、そそくさ脇に目をそらす。この先に、海があるのは知っている。
「これからは、用足しの時には気をつけるんだな。この先南下を続ければ、ここより危ない場所がある。霧が深く立ちこめて、慣れた奴でも難儀する。なにせ磁石も利かないからな」
ご親切な忠告に、いたたまれない思いで顔を盗み見、ふと、肩先の気配に気づく。
ん? ととっさに振り向くと、ぱっと首長が手を浮かせた。
肩を抱き損ねた左手を、所在なげにさまよわせている。て、真面目な顔して何やってんの……?
眉根を寄せて、じとりと仰ぐが、首長は無造作にそれを引き抜き「よっこらせ」と膝を折る。
「ま、ちょっと休憩していくか」
地面に腰を降ろしつつ、ガシャン──と脇に放り出した。
枯葉に転がったそれを認めて、ビクリと思わず足がすくむ。
「せっかくこんな、かわいい話し相手もいることだしな」
「……かわ──?」
ぱっと首長を振り向いた。
今、なんかステキな響きがっ!?
赤いピアスのイケメン首長は、ごろりと地べたに横になる。──て、え?
「は? あのっ? ちょっとバパさんっ?」
思いがけない事態が勃発。
おろおろ首長をうかがうが、首長は気にした風もない。てか、
(なんで寝るかな!?)
いきなり 地 べ た に。
組んだ両手を枕にし、足を組んで目を閉じている。
呆気にとられて見おろして、なすすべもなく絶句した。分別のある年代というのに、普通に地べたに寝転がるとか、もしや、彼は、
……自由人なのか?
夏草の上でちんまりと、エレーンは膝を抱えていた。
連れに寝られて自分だけ、突っ立っているわけにもいかないし。
「帰る時には起こしてくれよ」とか気軽に頼んでくれちゃうし。
つまり、帰るに帰れない。
さわさわ揺れる梢の先には、高い青空。静かな森。また、どこかで茂みが鳴る。
今度はリス? それともウサギ? それにしては音が大きいような。もしや、ファレスが迎えにきた? あまりに戻りが遅いから、さすがにファレスも痺れを切らして。
いや、でも、何かおかしい。音は別々の方向から。聞こえてくるのは複数の──
「恨みを買う商売でね」
声に、意識が引き戻された。「……え」
「こいつがないと、いざって時に、自分の身も守れない」
耳を澄ましてでもいるように目を閉じていたイケメン首長が、それを一瞥、苦笑いした。
枯葉の上に転がった、鞘ごと抜いた首長の得物。使いこまれた白い柄が、薄黒く変色している。つまりは実用に供されて。
勘の鋭さに舌を巻いた。ほんの一瞬よぎった嫌悪を、首長は見逃しはしなかったらしい。
「ここでは、こんなもの珍しくもないだろ。あんたに毎日張りついている、あいつらだって持っている」
「──あ、でも! ケネルって案外、ぼうっとしてて。だから」
そう、とうに気づいていた。ここでは一人の例外もなく常時帯刀していることに。
鳥獣を狩る道具ではない、人を傷つけ、苦痛を与える、そのために用いる、そのための道具を。
密かに胸に隠しもつ非難がましいそんな想いを、ゆめ悟られたりしないよう、エレーンはしどもど言葉を紡ぐ。「あのっ、だから、ケネルはそんな恐そうじゃないっていうか。顔だって別にゴツくはないし、だから、その、」
「あいつが 好き か」
ぷっつん、と思考の糸が切れる。
「──はああっ!?」
ぎょっと首長の顔を見た。何を言い出す、このオヤジ!?
「だから、ケネルが好きかって」
「──ちっ、ち、ちっ!?」
驚きすぎて言葉にならない。
ぶんぶん両手を振りまわし、キッとまなじり吊り上げた。
「違いま(す──)」
「やめときな」
思いがけない、そっけない口調。
怯んで思わず口をつぐむと、首長がぴらぴら片手を振った。
「あの男を追いかけても、碌なことにはならねえからさ。大体あいつは、そんな風には見てねえだろうし」
「だから、それは違うって──っ!」
「ま、そう気張りなさんな」
首長が気負いなくあくびした。
「まだ、先は長いんだ。今からそんなじゃ、もたねえぞ」
荒い羽音を不意に立て、どこかの枝で、小鳥が飛び立つ。
足を投げたブーツの先で、青い夏草がそよいでいる。両手を枕に寝転がったまま、首長はあれきり喋らない。
「──バ、バパさんて、お洒落なんですねー」
気まずい沈黙に耐えかねて、ぎこちない笑いで話しかけた。
「男の人なのに、ピアスしてるしぃー」
首長が目を開け、ちらと見た。「これは、俺の奥さんの奴」
「わあ、もらったんですかあ? 仲いいんですね」
すかさず揉み手で追従笑い。本当はどうでも良かったが。
いや、と首長が照れたように相好を崩した。
「ちょっと、別の女ん所に行ったらさ。馬乗りになられて、ブスッとな」
反応しがたく、たじろぎ笑った。つまりは浮気が発覚し、彼女からピアスをぶっ刺されたと?
「い、痛かったでしょう」
「泣いた」
そうなんだよー、というように、眉根を寄せてうなずく首長。痛かったらしい。
ふと、その後が気になった。だって彼も傭兵で、腕力勝負の気の荒い職業。逆上したら、冗談では済まない──。
密かにそわそわ落ち着かない気分で、ちら、と首長に上目遣い。「じゃあ、バパさん、やり返したりとか……」
首長が面食らって見返した。「まさか。相手は女だぞ」
「や、でも、ピアスはさすがに。──格闘はバパさん本職なんだし、奥さんなんて簡単に──」
「そんなみっともねえ真似、誰がするかよ」
首長が辟易と顔をしかめた。
「男は男しか相手にしねえさ。そこらをうろつく動物だって、草木と張り合いはしないだろ」
エレーンは片頬で引きつり笑い、内心、己の顔を指す。
(……く、草木?)
まあ、確かにケネルとファレスも、こっちのことは相手にしないし、むしろ仲間外れにしてくれちゃうが。てか、草木って喩えはどうなのか。
「いくら腹が立ったって、非力な女を相手にはしねえさ。体面ってもんがあるからな」
「でも、中には奥さんを叩くような人も」
「そういう情けねえ野郎はどうせ、弱い相手を屈服させて、ちっぽけな矜持を守ってんだろ。仲間からは誰からも、相手にされねえもんだから。そんなクソみてえなダセエ野郎は、いっぱしの男とは言わねえさ」
「なら、そういう人たちは?」
「そういうのはな、」
穏やかな顔で笑いかけ、イケメン首長が片目をつぶった。
「"負け犬"ってんだ」
どきん、と鼓動が飛び跳ねた。
(わわ……!?)と即行目をそらす。
不覚にもトキメいた。いや、この不意打ちは詐欺だろう。父とも慕うあのアドと、彼はほぼ同年代、そう油断してたのに。そんな心の隙をつき、お遊び程度の誘惑も社交辞令でやってのける──
(こ、こ、こういう人って、)
たじろぎ笑いを浮かべつつ、エレーンはごくりと唾を呑む。
(女性をリードするのも上手いんだろうなあ……)
ふわふわピンクにのぼせた脳裏に、落花流水のロマンスがよぎる。
もしや、無意識の内にやっている? あの晩ゲルで会った時から、初対面の時から思っていたが、どうも、この人は魅惑的。異性の目を引く色気がある。見た目がおシャレで若いとはいえ、アドと同じおじさんなのに。
もやもや渦まく連れのことなど、意にも介さず首長は続ける。
「拳の先は、関心の在りかだ。そいつの焦点が女なら、そいつのレベルはその程度。つまり、拳を繰り出した時点で、程度が周囲にバレるってことだ。だからファレスも、やり返しはしなかったろ? あんたに頬を張られても」
由々しき発言を聞き咎め、はた、と妄想から立ち返った。
やーねー、バパさん、と苦笑いで片手を振る。
「まさかあ! あたしが女男をぉ? いつ、そんな野蛮なことをー?」
「ノースカレリアの街道で、奴が敵を爆破した時に」
……あ、やってました。
わたわた、首長に申し開き。
「けど、たまに、殴りたそうな顔はして──あ! そっか。あいつ、女みたいな顔だから?」
くすり、と首長が苦笑いした。
「あいつが何をしているのか、あんたは本当に知らないんだな」
へ? とぱちくりまたたいた。それって一体どういう意味?
首長は何やら知ってるらしいが、おかしそうに笑ったまま、何度訊いても答えない。
「……バパさんてー」
笑って応えないイケメン首長を、体育座りで、まじまじうかがう。
「もっと恐い人かと思ってた!」
虚をつかれた顔つきで、首長が肘をつき、身を起こした。
呆気にとられて、しげしげ見、あぐらをかいて苦笑い。「──参ったね。まさか、そんなことを言われようとはな。あんたみたいな若い娘に」
賢そうな茶色の瞳が、ちら、と探るように覗きこむ。
「なぜ、そう思った?」
「……あ、だってバパさん、偉い人だし」
とっさに怯んで、お愛想笑い。
「そう、だってあの時も──みんながゲルに集まった夜も、バパさん来るまで待ってたし、馬で走る時だって、たぶん、いつも先頭で。だから、」
首長はわずか目を細め、注意深く聞いている。
「だって、あの、先頭って、一番強い人がやるものなんでしょ? だから──」
「なるほど。部隊の配置から、序列を割り出した、というわけか」
首長が腕組みで、くつくつ笑った。
「なるほどな。よく見てる。まったく、アドの言い草じゃないが、怯えた獣は敏感だ。だが、こうも見境がないと、こいつはちょっと厄介だな」
言うなり、ごろりと転がって、ついた片手で頭を支え、野草の上に横臥する。「だがな、部隊の一番というなら、残念ながら俺じゃない」
え? とエレーンは見返した。「じゃあ、部隊の一番って?」
「決まってるだろ、ケネルだよ。だから、あいつが隊長なんだ」
「あ、でも、それってなんか──。ケネルより年上の人が大勢いるのに。だって、それじゃ、ケネルがアドやバパさんにも(偉そうに)指図するってことでしょ? そういうのって嫌じゃない? ムカつかない?」
「格が違うさ」
「──カク?」
苦笑いで視線をめぐらせ、首長はおもむろに指をさす。
「そこまで走って、何秒かかる?」
むっ? とエレーンはそれを見た。なるほど、そこにはひと際目立つ、木立の中の白い樹木。笑って、首長に胸を張る。
「言っとくけど、足は速いから。実はあたし子供の頃 "カモシカのエレーン"って呼ばれてたくらいで」
「ほう。そいつは頼もしい。それで、あんたは、どれくらいかかる?」
イケメン首長は、眉をあげて挑発。
「むっ? そうねえ~。あそこまでなら──」
むかっとしつつも腕組みで値踏み。くい、と首長に顎をあげた。
「十秒弱ってとこかしらあ?」
十秒以上は優にかかるが。
ま、「走ってみろ」なんて言われない。ちら、と首長が横目で見た。
「へえ。そいつは立派なもんだ。俺なら、八秒あれば十分だが」
──て、自慢かい!?
てか、おじさんなのに、なぜ張り合う。
ぶちぶち口をとがらせて、エレーンはいじけて指をいじくる。「だ、だから、それはバパさんが、人並み外れて速いってことでしょー。なによ、普通は、そんなに速く走れないもん……」
「楽に七秒きれる、としたら?」
あぜん、と絶句で見返した。
「そんなの無理でしょ、七秒とか。だって、あんな遠いのに──」
「ケネルだよ」
ぽかんと首長の顔を見た。
「奴なら、おそらく七秒きる。ファレスとウォード、あの二人もそうだ」
白い樹木を、首長は眺める。
「俺の足と連中の足とじゃ、とっさに引き出せる最高値が違う。そいつが意味するところがわかるか。通常十秒かかるところを、七秒ぽっちでやり果せるなら、そいつらの目には」
ちら、とこちらの顔を見た。
「世界のすべてが止まって見える、と思わないか」