1話4
「……もー。なによ。ケネルってば。あんなに怒んなくたっていーじゃないよ」
ファレスがくくり付けた腰縄を、根元の若枝に結びつつ、エレーンはぶちぶち文句を垂れる。
「あわてて隠すくらいなら、あんな所で見なけりゃいいでしょー」
なんの気なしに覗いたあの時、ケネルはぎょっと飛びあがり、あわてて懐にしまい込んだ。そして「なんでもない」の一点張り。
でも、一瞬だったが、確かに見た。
背中の向こうでケネルが広げた、あの薄青い便箋を。
きれいな紙を使っていたから、差出人はおそらく女性。手紙の中身は恋文だろうか。どんな文面だったのだろう。どこの女の人だろう。
「そんなに大事な、ものなのかな……」
溜息まじりの声が出た。
あのケネルが微笑んでいた。苦笑いするような困った顔で。いつも不愛想な朴念仁が。
つまりは、こういうことだった。
想う相手が、ケネルには、
──いる。
もちろん、ケネルが誰と付き合おうが、そんなことはケネルの自由だ。
ちょっと前に出会ったばかりの、こっちが口出すことじゃない。けれど──
でも、手酷い裏切りを受けたような気がした。
いつも側にいるケネルから。彼女への好意の半分でもいい。分けてくれたっていいではないか。
ケネルはいつも面倒そうで、こっちを見ても、にこりともしない。
聞こえているのに無視したり、理詰めで話を打ち切ったり、こっちが悩みを抱えていても、聞いてくれるどころか無関心。具合が悪くて臥せっていても、そばで励ましてくれるどころか、さっさとどこかへ行ってしまう。話は必要最小限。それさえ、いかにも面倒そうに。そういえばケネルは、あの時も──
あの衝撃のやり取りを思い出し、むぅ、と思わず眉根が寄った。
迷子の森で発覚した、あの疑惑の真相を。
地面をずかずか踏んづけて歩き、靴先の小石を蹴り飛ばす。
「なあにが早く"ご飯が食べたかった~" よ」
まったく、ケネルってば紛らわしい。
なんで真顔であんなこと言うかな。
『 あの女とガキ、始末してやろうか 』
普通の人が聞いたらば、腰を抜かすような発言だ。だって、ケネルは傭兵の身なりで、平気で刀をぶら下げているのだ。まして、あれは戦闘直後、実際使っていたろうし。
けれど、よくよく問い質し、渋々白状したところによれば、ケネルの意図は要するに、
── "腹減った"
て、なんでそーなる。
脱力しそうな間抜けなオチだ。事あるごとに思い出し、陰鬱な気分になっていたのに。
平気な顔してやり取りしながら、心の深い奥底では、黒い靄がわだかまっていた。
得体の知れないケネルへの「恐れ」が。
いつも密かに怯えていた。
今、自分の横にいるのは、他人を平気で手にかける冷酷非道な輩ではないのか──。
けれど、やっと払拭できた。
やっぱりケネルは「悪い奴」じゃなかったと。
むしろ、その実態は、ぐーたらでずぼらで鈍感な腹ぺこダヌキだったとは。
一見あんなに実直そうで、頑固で不愛想な朴念仁のくせに。大勢の部下を従わせるケネルの外面がズルく思えて、何やらどうにも釈然としないが、ともあれケネルの「悪い奴疑惑」は、すっかり晴れた。一安心。
──いや。
まだ、一つ問題があった。
トラビアまでの長旅を心置きなくエンジョイするには看過できない大問題が。
思案の腕組みで、てくてく歩き、むう、と口を尖らせる。
今後、毎日を快適に、心安らかに過ごすためには、関係修復が不可欠だ。いや、別に喧嘩した訳ではないのだが。歴とした男のくせして、無駄に美麗な、
「女男、か~……」
いつでも側にいるだけに、奴の影響は甚大だ。仲良くなるまでは無理だとしても、せめて、平和に、穏便に、普通の態度にならないものか。
やぶ睨みするような三白眼の、端正な仏頂面を思い出し、はあ……とげんなりうなだれる。
「……もー。なんで、あいつってば、あーなんだか」
天幕群に乗りこんで、初めて会ってからけっこう経つのに、ファレスは未だににこりともしない。
毎日必ず顔を合わせて、他の誰より一緒にいても、微塵も心を許さない。
そのくせ、あのハゲたちとちょっとトランプしただけで、血相変えて連れ戻しにくるし。
そう、まったく碌なことをしない。
ちょっとでも誰かが側にいると険しい顔で追い払うわ、何でもこっちのせいにするわ、毎日ガミガミうるさいわ。出されたご飯を残すと特に。
まだある。
こっちの腕とか勝手につかむし、まだ着替えの途中かもしれないのに、ノックもせずに入ってくるし、こっちは繊細な女の子なんだから、もっと丁重に扱ったっていいのに。なのに、あの小言魔ときたらば、デリカシーなんか、まるっと皆無だ。どこにでもずかずか入ってきて、無遠慮で無神経で無神経で無神経で! もっとも、それでも不思議なことに、用足しの時にはついてこないが。いや、ついてこられても困るのだが!
そう、意外にもファレスは、ついてこない。
ずっと風道で待っている。かったるそうに煙草をくわえ「行ってこい」と言ったきり。
今、風道で別れたばかりの、あの姿が脳裏をよぎる。
黒いランニングの後ろ姿。黒皮のベルトに細い腰、直線的な長い足、乾いた泥のこびり付いた、使い込まれた編みあげの靴。さらりと長い薄茶の髪。
今も、ひとり喫煙しながら、戻りを待っているのだろう。
藪に入ったその先で、一人になった森の中、また逃げるだろうとわかっていても。
ばさり、と頭上で音がして、ふと、梢を仰ぎやった。
何かの影が、視界を横切る。空にくっきり、白い輪郭。
──鳥?
梢の先の上空で、翼を広げ、旋回している。何かを探しているように。
手が何か温かい気がして、握っていた手のひらを開く。
きらり、と翠が木漏れ日を弾いた。
あの日執務室から持ち出した「夢の石」の紛い物。ノースカレリアへの侵攻を斥けられた験を担いで、肌身離さず身につけている。今ではお守りのようなものだ。
恐い時、不安な時、悲しい時、つらい時、この石に触ると、気持ちが落ち着く。どんなに気分が沈んでも、戦の辛さの比ではない。あのノースカレリアの、大勢が死んだ戦争の。
「戦争、かあ……」
それはなんだか、ずいぶん昔のことのように思えた。
今は環境が一変し、ケネルの馬群の同行者に対応するので手一杯だ。あの晩やって来たケネルから「ラトキエ進軍」の知らせを聞いて、衝動的に屋敷を飛び出し、ここまで来てしまったけれど──。
「……なんか、疲れた」
弱音が、思わず口をついた。
だって、たった一人きり。あんなに大勢人がいるのに、いつも自分だけは一人ぼっち。
周りは屈強な男ばかり。どこにも混じれず、留まれない。誰もがよそ者を見る目つき。いつもいつも空回り、気が休まる暇もない。居場所なんか、どこにもない。けれど、それでも──
ちらちら梢で、木漏れ日が揺れる。
「遠いなあ、トラビアは……」
それでも、逃げる、わけにはいかない。
後ろ手にして見まわせば、ひっそり静かな枯葉の森。辺り一面、誰もいない。
木の葉を踏んで歩くたび、靴の下で、さくさく音。濃淡あざやかな樹海の緑。見渡すかぎり無人の森。横目で、それの様子をうかがう。又だ。
小鳥が枝に集まって、せわしなく首を傾げていた。一人で森を歩いていると、こういう場面によく出くわす。小さな獣がひょっこり出てきて、顔を見にくるように集まってくるのだ。そう、だけど、今日のはちょっと──?
また、ガサガサ藪が鳴る。
小動物にしては大きな物音。エレーンは怪訝に振り向いた。なんだろう。なんとなく、いつものそれとは様子が違う。
ざわり、と怖気が背をなでた。
引っ張られるようにして足が出る。
強い衝動がこみあげて、前だけを見つめ、一心に歩いた。抗うことなどできなかった。進路の先は大陸の端。そして、広い
──大海原。
視界いっぱいに広がる海、空との境の水平線。そして、輝く真夏の日ざし──。
切なさが、不意に突きあげた。
海に馴染みなどないはずなのに、なぜだか無性に懐かしい。
四方に張った木の根につまずく。踏み込む足が、ぬかるみに取られる。けれど、足は闇雲に進む。
野草で裾が汚れても、憑かれたようにただただ歩いた。ひらけた場所に出たかった。一刻も早く広い場所に。だって、早く行かないと。だって、こんなに苦しくて、息が詰まって呼吸が
できない──。
がくん、と肩が、つんのめるようにして前に振られる。
はっと体が強ばった。腕を誰かに
──つかまれている?
ひやりとして盗み見れば、腕をつかんだ男の手の甲。
人の気配などなかったのに。
鼓動が一気に速まって、胸が早鐘を打ち始める。
喉が貼りつき、声が出ない。いつから、そこにいたのだろう。
硬直した背後には、上背のある筋肉質な気配。
付近にいたのはファレスだが、奴なら罵倒で駆けてくる。
ケネルだったら気配でわかる。けれど、これは、
知らない手だ。