4話8
思い出せそうで、思い出せない。
なのに、それがふとした弾みに、油断していた胸を刺す。
たとえば、それは、朝の静かな食事の席で、スプーンがふと止まった時。
キャンプの人に挨拶をしに、ケネルがゲルを出ていった時。
夜中にひとり目覚めてしまい、目が冴えてしまって眠れない時。
だから、ずっと欠けている。
何が欠けているのかは、わからない。
自分が当たり前に知っていることで、いつも、すぐ目の前にあるのに。
そう、実に見知った形の。
胸の底の深い場所に、それはずっと巣食っている。
けれど、何かはわからない。
だって、いつも人がいて、常に誰かしらそばにいて、騒がしくて、気が散って、どんなに目を凝らしても、どうしても正体がわからない。
だから、別にどこでもよかった。
どこでもいいから逃げたかった。だから──
何かを忘れてしまっている。
決して忘れてはいけない何かを。
傭兵団の馬群から離れて、広大な原野を疾走していた。
ファレスが操る馬に揺られて、どれだけ走っても変わり映えのしない、樹海の旺盛な木立をながめる。
その隅にそれを認めて、エレーンはギクリと総毛立った。
午後の静かな陽を浴びて、それはひっそりとそこにあった。
緑の中でそこだけ白い、野ざらしになった三つの頭骨。
三つの白い頭骨が、木杭で串刺しにされていた。
そのまちまちな大きさと、縦に長い形状から、人の骨ではないようだが。
白々と陽を浴びて打ち捨てられたその様が、密かに胸で押し殺してきた後ろめたさを呼び覚ます。
エレーンはとっさに目をそらした。
「や、野蛮ーん……!」
不意打ちされた動揺で、強い言葉が口をついた。
苦い思いで顔をしかめる。入念に隠したあの罪を、突きつけられたような気がして。戦後の道端に積まれていた、青い軍服の亡骸たちを──。
「な、なんでわざわざ、あんなことするかな」
付近の猟師の悪戯だろうか。それとも禍々しい儀式の跡?
どちらにしたって悪趣味だ。
「目印だ」
手綱を引いて馬を止め、ファレスが馬から地面に下り立つ。
腕を伸ばして身体を抱きとり、馬の背から連れを下ろした。馬を引いて歩き出す。
エレーンはあわてて駆け寄った。
「ちょっと待ってよ、置いてく気ー? 行くなら行くで、声くらいかけてもー」
だが、ファレスは前を見て、いつにも増して仏頂面だ。
返事もしなけりゃ、見向きもしない。その顔をエレーンは盗み見て、口の先を尖らせた。「けど、目印って、なんのための」
「あそこが樹海への入り口だ」
「けど、骨なんか使わなくてもー。死んだ動物を晒すとか、どういう神経してんのよ」
「家畜なんてものは、死んで初めて役に立つ」
ぎくりとエレーンは立ちすくんだ。
ファレスは馬の手綱を引いて、樹海の木陰へ歩いていく。
「──いや、いくら家畜でも、あんなふうに晒すのは──。死んだら埋めてあげるとか」
「肉も食らえば、皮も剥ぐ」
え?
「あんただって使うだろうが。獣の皮の鞄や靴を。あの目印もそれと同じで、捨てる前の再利用だ」
「けど、串刺しにしなくても」
「目印は、嵩がなけりゃ、目立たない。まして、馬がここらの足だ」
でも、とエレーンは唇を噛んだ。
確かに理屈はそうだろう。けれど、やっぱり気分が悪い。
だって、日がな晒されているのは、少し前まで生きていて、そして死んだ生き物なのだ。いわゆる単なる物ではないのだ。
そうした命の重みに対して敬意を払うべきではないのか。
「早く来い」
その声が少し遠のいて、はっとエレーンは振り向いた。
長い髪のファレスのあの背が、目印の頭骨へ向かっている。
エレーンはあわてて追いかけた。
いつの間にかあの馬は、水溜りのある涼しげな木陰で、長い首を垂れている。
付近の木立は巨大だった。
濃淡さまざまな陰影が、午後の陽を浴び、輝いている。
大空に向けて枝を張り、そびえるように大きな樹木が、どこまでも鬱蒼と生い茂っていた。
太い幹の似たような木立が見渡すかぎりに続いているから、気を抜いて歩いていると、どこにいるのか分からなくなる。
「ねえっ! 本当にそこから入る気? 道があるようには見えないけど──ねえ、話聞いてるー? 女男! 入り口なんか、どこにもな──」
「確かに"お薦め"かも知れねえな」
ぼそりとファレスが口をひらいた。
「……堅気の女が浸かろうってんなら。ここなら外野も立ち入れねえし──」
「え、なになにっ? ガイヤって?」
ここぞとばかりに食いついた。
今日のファレスはなぜか無口で、会話が中々続かない。
だが、ファレスは話を切りあげ、構うことなく歩いていく。
エレーンは戸惑い、口をつぐんだ。珍しく向こうから切り出したから、少しは喋るかと思ったのに。
どうも様子が変だった。
訊かれたことには答えるが、それも必要最低限。ファレスの無礼は初めからだが、これはちょっと感じが違う。今日昼食をとるまでは、別段変わりはなかったのに。
怒っている、というのでもない。
ダレている、というのでもない。
あえて言うなら、何かを考え続けている。
そして、ずっと苛立っている。なんだか急に、
よそよそしくなった。
見向きもしない端正な顔を、戸惑いながらエレーンは覗く。「ねー。なんかあったでしょ」
頭骨の目印に目を向けたまま、ファレスはやはり見向きもしない。
「だって、全然喋んないし、今日はあんまり怒んないし──あっ! 別に怒ってほしいとか、そんなこと言いたいんじゃないんだけど──でも、なんか、いつもと違──」
「おい、足元」
「──え?──あっ」
見やった矢先に、たたらを踏む。
転びかけた上腕を、ファレスが無造作に引っつかんだ。
「よそ見しねえで、前を見て歩け。すっ転んだばかりだろうが」
痛いところを突かれてエレーンは黙る。
連れの顔をぶちぶち仰いだ。
「もおぉー! なにツンケンしてんのよー。あんた絶対、なんか変!」
そう、明らかに変だろう。面倒事を押し付けられても、罵りもしなかったあの時点で。
だが、ファレスは見もしない。
エレーンは渋々行く手を見た。
串刺しの骨が白々と、凪いだ陽射しを浴びていた。
時を止めたその様が、あたかも暗示するかのように。
この深い樹海へと立ち入る者の行く末を。
ぞっと怖気が背筋に走り、エレーンはあわてて目をそらした。
「ねー。本当に大丈夫なの~? こんな所に入っても」
チラと連れの顔を見やるも、ファレスの横顔に変化はない。
「これって絶対、道とかないでしょ。近くに誰もいないのに、こんな所で迷ったら──」
「カレリアの樹海は、大陸の東端を覆っている」
……だから?
「西へ向かえば、原野に戻る」
「──いや。それはそうなんだろうけど。でも──」
「獣の骨には、警告の意味がある」
言って、ファレスが一瞥をくれた。
「──え?──あっ!」
その視線の意味に気づいて、エレーンは押しのけるようにしてファレスから離れる。
「ご、ごめん! つい……」
自分でも知らない内に、ファレスにしがみ付いていたらしい。
その怖気と動揺を、ファレスは目敏く察したらしい。ぶっきらぼうに先を続けた。
「この辺りは迷いやすい。一度中で迷ったら、生還するのは至難の業だ」
エレーンはぎょっと顔をあげた。「や! でも、バパさんが、みんなもここを使ってるって」
「遊牧民には "星読み" がいる」
──ホシヨミ?
「そいつらは、空を見て方角を知る。だから、迷わず外に出てこられる」
「……。出てこられるって、あんたね」
いささか呆然と樹海をながめた。
実はとんでもない場所に、来てしまったのではあるまいか。
結構メジャーな温泉地という、手軽な行楽地と思っていたが──。
とはいえ、現に目の前にあるのは、ジャングルチックな原生林。
野性味あふれるその前には、行楽気分もたちまち吹っ飛ぶ。
無情な現実にしばしたじろぎ、エレーンははたと連れを見た。「そっか。あんたもホシヨミなんだ~」
「いいや」
「──はあ!?」とエレーンは目をみはった。
口をぱくつかせて、ただちに糾弾。
「なっ!? ちょっと冗談じゃないわよ! だったらダメってことじゃない! 迷っちゃうってことじゃない!? どーすんのよ、迷ったら!」
入り口にある目印からして縁起でもないドクロなのだ。
わざわざみんなに「立ち入り危険」と警告しちゃうような場所なのだ──!
「どーすんのよ迷ったら! ケネルだっていないのにっ!」
「大丈夫だ。迷わない」
「はあ? なんで言い切れるわけぇ?」
「俺は、そういう血を引いている」
鬱陶しげにファレスが言い捨て、目印へとつかつか歩いた。
腰から短刀を引き抜いて、ぶっきらぼうに薙ぎ払う。
胸まで茂った若枝が、ザ──ッと一振りで断ち切れた。
木立の間の下草を、蹴りやり、踏みつけ、切りひらく。目の高さの蔦をつかんで、ファレスは無造作に短刀をふるう。
「え──ちょっと、女男ぉ……」
切断されて垂れ下がった蔦を、ファレスは淡々と払いのけ、深い樹海へ踏みこんでいく。
伸ばした手だけでその背を追って、エレーンは呆然と立ち尽くした。
「──ま、まじでここに入る気!?──あっ、待ってよ、女男っ!」
長髪の背は返事もせずに、どんどん奥へ進んでいく。
「……うっ……ちょっとお……」
泣きが入って立ち尽くした。
鳥の声。虫の声。なんだか分からない獣の鳴き声。
深い樹海のいたるところに古い蔦が垂れさがり、分厚い枯葉の地面には、にょきにょき伸びた無数の細枝。縦横無尽に伸びる枝──いや、蔦だか枝だか分からない。
「……えー……ここ、入るの~……?」
あたしが~? と己の顔をさし、エレーンはその場で途方に暮れた。
でも、ひいき目に見ても、道なんかない。
ほんのちょびっと入った辺りに、もう野草が直立し、首の高さまで茂ってる……
だらん、と蔦が目の前に、一本長くぶら下がっていた。
今にも顔にぶつかってきそうな場所に。奴が無計画に断ち切ったせいだ。
中に入る踏ん切りがつかず、エレーンはおろおろ、うろうろする。
あそこの樹のてっぺんまで何十mあるだろう。あの大きな幹のまわりは、大人が手をつないで何人分? 全体的に苔むした感じで、根元にキノコが生えている。ぶっ太い木根が無秩序にうねって膝の高さにまで張り出してる。つまずいたら、きっと転ぶ。絶対転ぶ。賭けてもいい──!
人手の入っていない自然の森。
枯葉で埋まった深い森、まだらな木漏れ日、巨大な倒木、枯れ枝が絡まった青葉の樹、斜めの角度で立ち枯れた幹、苔とか、蔦とか、水溜りとか──
「……。えー……まじで?」
圧倒的な森の威容に、足がすくんで動けない。
密度の濃い神秘の森が、視界いっぱいに広がって──
はた、とエレーンは顔をゆがめた。いや、突っ立ってる場合じゃない。こんな人けない不気味な場所に一人で置いていかれたら──!?
「ま、待っ──!」
あわててファレスへ向けた目が、頭骨の眼窩とかち合った。
「……う゛っ」
ジトリ──としばし睨めっこ。
「お、おじゃましま~す……」
薙ぎ払われて垂れた蔦を、つまんで、そーっと押しやった。
足をもちあげ、茂みをまたぐ。
「まっ、待ってよー、女男っ!」
連れの長髪の背を追って「ええい、ままよ」と駆けこんだ。